多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧多古町

東佐野(とうざの)

 初鹿野氏による統治
 村の支配者については、ここを千田庄の一部であった村落としてみるとき古くに千葉一族があり、また、大原にいたといわれる城主加藤兵庫守の支配に属した時代もあったであろう。これらについては通史または大原の項に譲るが、この地の直接的な支配者名やその来歴がある程度知り得るようになるのは、徳川時代に入ってからのことである。そして、同初期から明治に至るまで同一の家系で支配を続けたのが旗本の初鹿野(はしかの)氏である。
 初鹿野氏は初め武田家家臣であったが、武田勝頼没後の天正十年(一五八二)初鹿野昌久が徳川家康に仕え、甲斐国(山梨県)山梨・巨摩の二郡内で給地を受けた。同十八年(一五九〇)に徳川家が関東へ入ると、給地を甲斐から関東へ移され、武蔵国(東京都)足立郡、下総国葛飾・相馬・香取の四郡内で七百石を知行するが、このときから東佐野村は初鹿野家の知行地になったようである。
 子の信吉は三百石を加えられて秀忠に仕え、書院番を勤めたが、その子昌次のとき寛永二年(一六二五)に弟昌重を三百石で分家させ、同十年(一六三三)に常陸国(茨城県)鹿島郡内で二百石を加増された。正保元年(一六四四)八月家臣の乱暴事件についての監督不行届きによって閉門を命ぜられたが、慶安元年(一六四八)六月に赦されて同三年十二月に御徒の頭に復し、明暦元年(一六五五)九月には御先鉄炮の頭となった。
 次の信只(ただ)は寛文十年(一六七〇)十月家を継ぎ、延宝六年(一六七八)三月に増上寺の普請奉行を勤め、元禄十年(一六九七)七月には下総国豊田郡内で三百石加増されて、総高千二百石となった。正徳四年(一七一四)六月に没して江戸牛込の宝泉寺に葬られたが、以後初鹿野家では同寺を菩提寺とした。
 子の信安は宝永二年(一七〇五)十一月に家を継ぎ、小性組などを勤め享保五年(一七二〇)十二月に三十二歳で没した。
 信安の曽孫に当たる信興は明和七年(一七七〇)家督を相続以来小性組・使番などを勤め、天明五年(一七八五)九月には御目付役、同七年八月に浦賀奉行、同八年九月に江戸町奉行などを歴任して河内守に任ぜられた。その子孫は代々伝右衛門を称して書院番士・使番などの役を勤めながら、明治まで東佐野村(香取郡内では他に染井も)を知行地とした。
 次に、初鹿野氏の知行した内容についてみると、前記のようにこの地は同系の一族によって天正から明治に至るまでその支配が継承された珍らしい例である。それゆえに、年貢関係の帳簿類についても他村に見られないものがあり、旗本支配の一面を知る上で貴重なものといえる。
 まず寛文六年(一六六六)六月に調査した等級別耕作面積を見ると次のようになっている。しかし山林については、一般的には年貢は徴収されないため、ここにその面積は表示されていない。
 
  上田  壱町参反弐畝弐拾四歩
  中田  弐町参反九畝七歩
  下田  壱町九反参畝拾九歩半
  下々田 参反九畝弐拾四歩
  上畑  五反弐畝拾六歩半
  中畑  六反壱畝壱歩
  下畑  七反八畝壱歩
  下々畑 六反七畝弐拾壱歩半
  屋鋪  弐反壱畝弐拾四歩
  合  八町八反六畝拾八歩半
 
 この面積に対する同年の年貢総高は三八石四斗七升二合であるが、これを各個人へ割り付けたのが次の表である。原文は極めて細密に記されているもので、わかり易くするため表にまとめてみた。また数字に計算上の誤りか写し間違いと思われるものが見られるが、原文のとおりに載せた。
 なお、一反当たりの年貢は上田六斗、中田五斗、下田四斗、下々田三斗、上畑二斗五升、中畑二斗、下畑一斗五升、下々畑八升、屋敷二斗五升として計算されていることを付記しておく。
寛文六年・個人別年貢表
区分地目別等級別耕作面積

(単位反)
同年貢高

(単位石)
地目別
年貢計
(単位石)
口米
一俵に付一升
(単位斗)
延米
一俵に付四升
(単位斗)
年貢合計(単位石)
但一俵は四斗入
氏名
A上田  二、一一七一、二九四
 二、二四四
、六四二、五六二、五六四
中田    三一〇一六七
下田  一、九一七七八三
上畑  一、二二一半三一八畑屋敷
  、五二一
、一五、六〇、五九六
中畑    一一八三二
下畑    七〇二一〇六
下々畑   三二二三〇   三、一六〇
(七俵三斗六升)
屋鋪    一一二三五
B上田    二一一一四二
 二、一七二
、六二二、四八二、四八二
中田  二、八二八一、四四七
下田  一、四一七五八三
上畑    四二〇一一七畑屋敷
  、二三九
、〇七、二八、二七四
中畑     一二 八
下畑    二〇二半三一
下々畑   四二三三八   二、七三二(ママ)
(六俵三斗三升二合)
屋敷    一二四四五
C上田    四二四二八八
 一、九九二
、五七二、二八二、二七七
中田  三、〇一四一、五二三
下田    四一六一八一
上畑    七〇〇一七五畑屋敷
  、四三二
、一二、四八、四九二
中畑    四〇六八四
下畑    四二六七三
下々畑   六二〇半五三   二、七六九
(六俵三斗六升九合)
屋鋪    一二六四七
D中田  一、一一二五七〇
 一、三一三
、三八一、五二一、五〇三 
下田  一、八一七七四三
中畑    六〇〇一二〇畑屋敷
  、一四三
、〇四、一六、一六三
下々畑   一〇七半一〇
屋鋪     一六一三一、六六六
(四俵六升六合)
E上田    五〇二三〇四
 四、七四七
一、三六五、四四五、四二八
中田  三、六〇一半一、八〇三
下田  五、八二八半二、三五九
上畑    三一六八八畑屋敷
  、五四〇
、一五、六〇、六一五
中畑    三一四六九
下畑  一、八一四二七七
下々畑   五二四四六   六、〇四三
(一五俵四升三合)
屋鋪    二一二六〇
F上田  一、九〇八一、一五六
 一、九一三
、五五二、二〇二、一八八
中田    一二四九〇
下田  一、六二〇半六六七
上畑    七二八一九八畑屋敷
  、三五〇
、一〇、四〇、四〇〇
下畑    五一〇八〇
下々畑   六一二半五一   二、五八八
(六俵一斗八升八合)
屋鋪     二五ニ一
G上田  一、七二八一、〇七六
 一、八一〇
、五二二、〇八二、〇七〇
中田    一二六九三
下田  一、六〇一六四一
上畑    四〇五一〇四畑屋敷
  、四三二
、一二、四八、四九二
中畑    八〇四一六三
下畑    八一四半一二七
下々畑   二〇二一七   二、五六二
(六俵一斗六升二合)
屋鋪     二五二一
遍照院上田    五一五三三〇
  、八九六
、二六、一四一、〇二六
中田  一、一〇九半五六六畑屋敷
  、〇九八
、〇三、一二、一一三
下々畑   三一八一五
屋鋪    三〇九八三一、一三九
(二俵三斗三升九合)
H上田  二、六〇五一、五七〇
 二、四六三
、七〇二、八〇二、八一三
下田  二、ニ一〇八九三
上畑    六一二一六〇畑屋敷
  、三九二
、一一、四四、四四七
中畑    五一四半三一〇
下々畑 一、一〇五八九   三、二六〇
(八俵六升)
屋鋪    一一〇三三
I上田  一、一一七六九四
 二、一七六
、六二二、四八二、四八六
中田  二、三一七一、一七八
下田    一一八六四
下々田   八〇〇二四〇畑屋敷
  、二九〇
、〇八、三二、三三〇
中畑    四〇四八三
下畑    五二七八九
下々畑   八一六六八   二、八一六
(七俵一升六合)
屋鋪    二〇〇五〇
J上田    三二〇二二〇
 一、八八三
、五四二、一六二、一五三
中田  二、九〇九半一、二六六
下々田   六一七半一九七畑屋敷
  、二九五
、〇八、三二、三三五
中畑    四一六九一
下畑    九〇五一三七   二、四八八
(六俵八升八合)
下々畑   三一七二九
屋敷    一一五三八
K上田    八一二五〇四
 二、一六二
、六二二、四八二、四七二
中田  一、六一五八二五
下田  二、〇二四半八三三
上畑    一〇六三〇畑屋敷
  、三五五
、一〇、四〇、四五〇(ママ)
中畑    七一四  一四九
下畑    八二八  一三四
下々畑   一〇二 九   二、八七七(ママ)
(七俵七升七合)
屋鋪    一一〇三三
L上田    六一五三九〇
 三、〇九八
、八九三、五六三、五四四
中田  四、四二〇半二、二三四
下々田 一、五二四四七五
上畑    四二八一二三畑屋敷
  、七〇四
、二〇、八〇、八〇四
中畑  一、五一八半三一二
下畑    七二二一一六
下々畑 一、〇二二八六   四、三四八
(一〇俵三斗四升八合)
屋敷    二二〇六七
 米惣合三拾八石四斗七升弐合
 此俵九拾六俵七升弐合 但四斗入
寛文六年午ノ六月吉日松戸四郎右衛門 印
垣生伊右衛門  印
 但し巳ノ年より右之通上納筈松沢三郎太夫  印

 これから一九〇年ほどたった安政三年(一八五六)の年貢について見ると次のようになっている。比較に大きな時代差があるが、年貢から差し引かれる諸掛り(経費)の明細が記されているものではこれが最も古く、寛文期に近いものである。
 なお年貢の率は、五年ごとに役人立合いの上で坪刈りを実施して改定しているので、当然ながら時代によって変わっている。
 
     卯御年貢米皆済目録
              東佐野村
       覚
  一、御米七拾俵者    御定免納辻
              但シ四斗入延口米共
   内米弐俵者      名主給米被下
   〃米壱俵者      組頭給米被下
   〃米壱俵弐斗者    溜井池扶持米被下
   〃米九升者      種井代被下
   〃米拾俵者      御飯米也
   〃米弐斗四升者    運送米引
    引〆米五拾四俵弐斗七升 両ニ八斗弐升替
    代金弐拾六両弐分弐朱ト三百 弐文
    内金拾五両者  三月御賄金御先納分
     此引金壱両弐分三朱也
    引〆金九両三分三朱ト三百 弐文
   右者去卯御年貢米前書之通勘定仕奉差上候得とも 若又算違等も有之候ハヽ追而認メ直し可奉差上候 以上
     安政三辰年(一八五六)正月
                                御知行所
                                  東佐野村
                                   百姓代 利右衛門 印
      御地頭所様                         組頭 弥右衛門 印
       御役人中様                        同断 四郎兵衛 印
   前書之通相違無之令皆済畢
       辰二月
                          御用所 印
 
 以上が、初鹿野氏が知行地としていたときの年貢についての文書である。
 天保改革期の通達文書
 このようなもののほか東佐野には、関東郡代や同取締出役などからの通達文書が区有として永く保管され続けてきた。そのなかに、幕末期の庶民の日常や幕府の政策の一端がうかがえるものとして、天保改革にかかわる次のような文書が残されているが、被支配者である一般農民に対してとった規制の内容がよく示されている。
 
天保文書(一)
   水野越前守様御渡被成御触書写
 百性之義者麁服を着し髪も藁を以徒可(つか)ね候事古来之風義ニ候処、近来奢ニ長し身分不相応之品着用致、髪も油元結ヲ以用候而已(のみ)なら須(ず)流行之風俗を学ひ、其外雨具も簑笠のミ越(を)用候事ニ候処、当時傘合羽を用ひ其余之義万端是ニ准し無益之費多く、先祖より持来り候田畑も人手ニ渡し候義歎ケ敷事ニ候。一体百姓ニて余業之酒食商等以多(いた)し候類、又者湯屋髪結床等有之候儀畢竟近年之義ニ而、若者共自然よ加(か)らぬ道ニ携柔弱且放埓之基ニ候間、弥古代之風儀忘却不致、物毎質素ニ以多し農業相励候義肝要ニ候。且先達而菱垣廻船積問屋共、其外諸株仲間組合一統停止之旨被仰出、御府内ニ於為(おゐ)て同商売何軒ニ而も相始させ手広ニ相成候ニ付、自然在方へも押移り候哉ニ相聞候。御府内町々与在方与一様ニ存候者心得違ニ而候。百姓ども専耕作ニ力越(を)用辺起(べき)身分ニ而余業ニ移町人之商売を始候義決而不相成事ニ候
一、近年男女とも作奉公人少く自然高給ニ相成、殊ニ機織下女と唱候もの別而過分之給金ヲ取候由、是又余業ニ走候故之義本末取失ひ候事ニ候。元来百姓共者商向当座之利潤ヲ以営候町人共とハ格別之義ニ候条、是等之儀能々弁別致し、一途ニ農業精出し銘々持伝候田畑ニ不離様専一ニ可心懸候
一、勘当久離帳外之義一体不軽義ニ候処、右体親族之ちなみを施候程之もの出来候者、兼々於(お)しへ方不冝故之事ニ候。忰又厄介等有之ものハ勿論、村役人ども一同其段厚相心得、不実之義無之様常々意見等差加、壱人たりとも其所人別不相減様取計可申義肝要ニ候
 右之趣堅可相守、若等閑ニ心得候もの於有之ハ、夫々吟味之上厳重ニ可及沙汰ニ条違失無之様、御料ハ御代官私領者領主地頭より可相触候
   天保十三年寅(一八四二)九月
天保文書(二)
      下総国香取郡四拾九ケ村組合
          商渡世向取調書上帳
                                         東佐野村
   御取調ニ付奉申上候書付
 此度厳敷御強約被仰出、続而近来御府内町方又者在方ニ而、菓子類料理等無益之手数ヲ掛結構ニい多し候もの共有之由、右之類其侭差置候而者、風俗益奢侈ニ相成不可然可留差、都而食物類高直之品売買致間敷、且往来ニ而無益之食物商ひ候もの増長、向後右商人共相掛候様是又被仰出有之、必竟在々ニ商人多ニ而者自然其所奢ニ長し候。基不冝旨御改革之砌被仰渡も有之候得共、猶又今般大小惣代之もの重立其外役人共立会、御案文外商ひ渡世向迠も不洩様取調早々可書上旨仰渡承知奉畏、則左ニ奉申上候
                                       初鹿野河内守知行所
                                      下総国香取郡東佐野村
                                        江戸江拾八里半
 一、高八拾石                               海道脇往還筋
    家数十弐軒
    人別五拾三人   農業一統渡世仕候
    農間渡世
      天秤商ひ       善兵衛
      旧来ゟ(より)菓子卸  久右衛門
      外ニ商人渡世者一切無御座候
天保文書(三)
   差上申御請書之事
在方之儀近年湯屋髪結床酒食小間物商ひ刀硎拵屋等之類次第ニ相殖、百姓共便利之筋ゟ(より)自然質素之古風を失ひ、追々奢侈超過い多し風俗ニ抱り候間、在中村々ニ於為(おゐ)て右体之渡世致候儀一切不相成、是迠致来候分ハ此節ゟ(より)六拾日を限り御取計可被成旨、御奉行所御沙汰之趣を以被仰渡承知奉畏候。仍而御請証文差上申処如件
   天保十四卯年
                                        多れ(誰)御代官
                                            領分
                                            知行
                                             =誰
    関東御取締御出役
     中山誠一郎殿   下ケ札
     武藤僖左衛門殿    組 脇往還筋江出候村之儀居酒髪結床湯屋者相止 其余酒食等者是迠有来之分其侭ニ差置 以後相殖申間敷事
     村尾 理平 殿
     長岡 彦八郎殿
     渡邊 園十郎殿
     高橋 三蔵 殿
     山崎 信太郎殿
     大田 源助 殿
     富田 錠之助殿
     岡部 弾次郎殿
     中西 仙次郎殿
天保文書(四)
       天保十三年寅五月日
     御趣意ニ付諸色直下ケ扣帳
                     東佐野村
           諸色直段下ケ
一、百姓奉行壱ケ年給金 男壱人金四両女壱人ニ付金三両迠一、阿(あ)ん満(ま) 拾六文
一、日雇 男壱人ニ付百四拾八文女壱人ニ付百文一、綿打ちん(賃) 百匁三十弐文 本(ほ)う連以(れい)綿同断 但し在方ハ廿八文
一、田植時分 金壱分ニ付男十人女十弐人
一、髪結  壱ケ年と免(め)八百文 壱ケ月七拾弐文 壱つ拾八文一、楚(そ)ば  壱膳拾四文
一、楚(ぞ)うり 壱足拾弐文迠一、菓子    壱つ三文
一、下駄  壱足百廿四文迠一、油阿(あ)げ 四文
一、足駄  壱足百文迠一、餅     壱つ三文
一、下駄緒 壱足五拾文迠一、とう婦(ふ) 壱丁廿四文
一、地傘  壱本四百文迠一、王(わ)らじ 拾文迠
一、煙草  壱斤弐百五拾文迠 但し切た者(は)こ五匁十四文一、灯挑(ちょうちん) 三百文迠
一、手拭  壱筋百文迠一、同張可(はりか)へ 百五十文迠
一、菅笠  弐百五拾文迠一、旅籠(はたご) 百六拾四文迠
一、きせる 弐百五十文迠一、昼食 壱人七拾弐文迠
一、借家村送り一切不相成事一、諸職人手間壱人下ケ
一、居酒屋ニ而弐人余ハ酒盛商ひ一切致間敷事一、絹類ハ小供本古(ほこ)ろびと免(め)迠不相成事
一、夜分居酒商ひ可相断事一、雪駄ハ者(ば)ら緒(を)の外一切不相成事
一、旅行留主居見舞無用一、若者名目一切不相成事
一、皮花緒一切不相成事一、戸  壱本ニ付拾匁迠
一、女髪結一切不相成事一、障子 壱本ニ付四匁五分迠
一、仲間会合一切不相成事一、畳さしちん 壱畳ニ付五分より壱匁迠
一、駄賃 壱割下ケ壱里ニ付四十八文一、下り酒一切不相成事
一、飛脚 壱割下ケ一、阿(あ)つらひ仕立物 壱割五分下ケ
一、糀  割合直段壱割下ケ一、羽織合羽綿入仕立賃 弐百文迠
一、地酒 壱割下ケ 但し壱升代百四十八文迠一、単物仕立 八拾文迠
一、水油 壱割下ケ壱本代四百六拾四文迠一、紺黒染代 壱反ニ付五百文迠
一、醬油 壱割下ケ壱本代百七拾弐文迠一、紺糸中形染 右同断
一、魚油 弐割下ケ一、かみ類  壱割下ケ
一、くしら 弐割下ケ一、太物諸色 壱割下ケ
一、砂糖  同断一、酢   壱割下ケ壱本代百文迠
一、槇材木炭 同断一、味噌  壱割下ケ
一、紙張日傘一切不相成事一、金物類 右同断
一、らう楚(そ)く 壱割下ケ一、茶 壱斤ニ付四匁五分迠
一、小間物  弐割下ケ一、古着 弐割下ケ
一、かんぶつ 同断一、麻  右同断
一、瀬戸物  同断一、塩  壱割下ケ
一、薬種   同断一、三味線惣而遊興之品 小供稽古たりとも不相成事
一、上菓子別而不相成事一、櫛笄(こうがい)加(か)んざし鼈甲(べっこう)金銀之類ハ勿論其外高直之品上手ニ取拵相用申間敷候事
一、魚類青物野菜惣而珍らし記(き)高料之品渡世致間敷候事
一、貸金利足壱割五分之外借貸不可致 其余安利足ハ可為相対事
一、質物利足壱割下ケ
一、羽織傘村役人之外一切不相成事
一、惣而祝義無祝義共随分手軽ニ可致事
一、右改之余品者諸色弐割下ケ
諸品正札附ニい多し可商売事
  右之条々堅相守可申候

 右に載せたような農民に対する制約のかずかずが、当地方だけではないにせよ、初鹿野氏知行時代の天保期に行われていたのである。