多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧多古町

五反田(ごたんだ)

 小栗氏による統治
 台地上に古墳が見られることにより、少なくとも古墳時代には人々が生活していたと思われるが、それがどのような氏部(うじべ)であり、その長(おさ)がどんな人物であったかなどについては、まったく不明である。
 中世には千葉氏一族の支配するところであったことは既述したが、ここを領地として支配する人物がはっきりするのは徳川期になってからのことである。
 徳川氏は天正後関東に入って、配下の大名・旗下によって各地を統治させたが、この地を元和元年(一六一五)から知行地としたのが小栗氏である。
 いつのころからか当村は「五反田八軒江戸まさり」といわれるようになったが、これは口伝によれば、大坂両度の陣に名主仁兵衛が軍用金を拠出し、若者を率いて領主小栗又一(忠政か)に従って働いた。功をたてて帰参した領主は、仁兵衛らの労をねぎらい、希望によって仁兵衛を代々名主とし、村の年貢を永年にわたって免除した。このことによって村内の暮し向きが良くなった。これを見た近郷の人々が「江戸にも勝る有富な村よ」と、うらやみ、ほめたたえたということである。
 しかし、小栗氏が江戸時代の全期を通じて支配者として終始したのではなかったようで、延宝二年(一六七四)前後の鷹狩記事といわれている『東金御鷹場旧記』(房総叢書)に「一、百石、中根日向守知行、五反田村、仁兵衛」とあることなどを見れば、初めは小栗氏の知行所で、途中の一時期に中根氏の所領となり、再度小栗氏に戻って明治に至ったものとも考えられる。
 次に、『寛政重修諸家譜』によって小栗家系譜の概要を見てみる。
 初代吉忠(又市・仁右衛門)は始め松平氏であったが、母の姓小栗を称し、松平廣忠に仕えた。のち徳川家康に従って軍功をあげた。天正十八年(一五九〇)小田原の役のときには老病にかかり、九月十六日六十四歳で卒した。
 二代忠政(庄二郎・又一)は永禄十年(一五六七)家康に仕え、小性となる。時に十三歳。元亀元年(一五七〇)姉川の戦い、同三年十二月三方原合戦、天正三年長篠の役、その他数々の合戦に功をあげ高名をあらわす。慶長五年(一六〇〇)関ケ原の戦い、十九年大坂冬の陣、元和元年(一六一五)大坂夏の陣にも参戦した。忠政はこれよりさき上野国邑楽・多胡、武蔵国足立、下総国矢作領において采地二千五百五十石の領地をあてがわれた。元和二年(一六一六)九月十八日六十二歳で没した。
 三代政信(庄二郎・又市)は文禄四年(一五九五)十四歳のときより秀忠に仕え、関ケ原の戦い、大坂両陣に参陣して功をあげた。元和二年(一六一六)父の遺領のうち二千石を継ぎ、うち五百五十石を弟信由に分けた。寛永二年(一六二五)御徒の頭となり、同十年甲斐国山梨・八代両郡のうちにおいて五百石を加増され二千五百石を知行した。万治元年(一六五八)正月十九日卒、年七十七歳。牛込の保善寺に葬られ、後代々の葬地とした。
 四代政重(一郎・庄二郎・又一)は万治元年祖父の遺跡を継ぐ。正徳二年(一七一二)卒、年七十二歳。
 
 (注) 父信勝は承応三年(一六五四)その父政信に先立ちて死、家を継がなかった。
 
 五代信盈(みつ)(庄二郎・又一・主馬)は宝永六年(一七〇九)書院番となり、正徳三年(一七一三)家を継ぐ。宝暦十三年(一七六三)五月二十八日卒、年七十三歳。
 六代喜政(又三郎・又一)は享保二十年(一七三五)家を継ぐ。延享元年(一七四四)八月二十九日卒、年三十二歳。
 七代信顕(あきら)(政之介・又一)は延享元年家を継ぐ、時に十七歳。采地二千五百石。天明八年(一七八八)西城の書院番となる。寛政九年(一七九七)役を辞した。
 なお、小栗氏は香取郡では五反田村の外に、堀ノ内・大戸川・田部の三カ村を知行している。そして、安永五年(一七七六)の『村高明細』を見ると、五反田の村高は次のようになっている。
 
  一、高 百拾七石八斗七升 小栗上野之介上知
         無反別貫目附
    田高 百拾弐石壱斗七升三合弐勺
      内
     高 六斗六升九合八才     山崩起返し跡永引
     高 弐石七斗七升三合四勺   山崩砂押入荒地永引
     高 壱石三斗八升六合七勺八才 用水溜池永引
     高 六斗九升三合三勺五才   用水路溝代永引
    残高 百六石六斗四升七合九勺
        高壱石ニ付弐斗八升八合四勺五才取
     此取米 三拾石七斗六升弐合五勺九才
    畑高 四石六斗七升八勺四才
        高壱石ニ付弐斗八升八合四勺五才之取
     此取米 壱石三斗三升三合三勺三才
        去辰年高壱石ニ付永三百五拾文ニ願上御聞済ニ相成候
     此納永 壱貫六百三拾四文七分九厘六毛
    屋敷高 壱石弐斗五合九勺五才
        高壱石ニ付取米右同断
      取米 弐斗九升五合九勺三才
        去辰年高壱石ニ付永三百五拾文ニ願上御聞済ニ相成候
     此納永 三百五拾九文八厘四毛
    田畑屋敷定免
    合[田米三拾石七斗六升弐合四勺八才 畑屋敷永壱貫九百九拾三文八分八厘]
             但し延米 口米共
 
 また、同年八月の『貫目帳』と表記された記録によると、この一一七石八斗七升の石高を生産する土地の農民として、次兵衛・縫之丞・三之丞・次郎左右衛門・太次右衛門・長兵衛・権兵衛・椎之丞・次右衛門・伊三郎・多兵衛(以上五反田)、久兵衛(大原)・平次郎(小原子)の一三名の名が載せられている。
 さきに「五反田八軒江戸まさり」の口伝のことから、年貢が永年にわたって免除されたといわれたことを記したが、その期間はどのくらいであったのだろうか、また、免除されたというのは単なる口伝のみであったのではなかろうか。
 右に載せた村高明細の中に「田畑屋敷定免」とあり、少なくとも安永五年には毎年作柄を調べることなく一定の方式で納税する方法のとられていたことがわかる。そして田高一一二石一斗七升三合二勺に対する取米(とりまい)(米で上納した貢租)は三〇石七斗六升二合五勺九才で、この税率は二割七分である。
 さらに、年貢に関する区有文書に、文久三年(一八六三)から明治五年(一八七二)までのものが保管されているが、文久三年のものを見ると、小栗上野介上知として次の内容が書かれている。
 
  一、高 百拾七石八斗七升
      無反別貫目附
    取米 八拾五俵
        御定免四斗納、但し延米口米共
     内 拾俵三斗壱升弐合
        永代荒地、其外定式引 七口
       米八俵
        亥年違作ニ付御用捨引
  差引納米六拾六俵八升八合
 
 この年は、高一一七石八斗七升に対する取米は八五俵であるが、差し引きで六六俵八升八合の年貢を納めたわけである。
 明治五年、政府は土地永代売買の禁を解き、土地制度および土地課税を改めて私的所有権を認め、金納定額地租を課すこととしたが、この年の十月、新治県権参事大木良房・同県参事中山信安より通達された『壬申租税上納割賦』が区有文書として残されてあり、参考として次に載せる。
 
     当申壱ケ年定免      五反田村
  一、反別 六町七反七畝拾八歩
     此高 百拾七石八斗七升五合
       此訳
      田五町七反四畝拾六歩
       此高百拾弐石壱斗七升五合
        内
       壱反三畝歩
        此高弐石八升
       壱反八畝廿六歩
        此高三石四斗四升六合
         前々山崩砂押荒地巳より亥迠七ケ年引
     小以三反壱畝廿六歩
        此高五石五斗弐升六合
    残 五町四反弐畝廿歩
       此高百六石六斗四升九合
       此貢米弐拾七石五斗壱升五合
     畑壱町三畝弐歩
      此高五石七斗
       此貢米壱石四斗七升壱合
   納合 米弐拾八石九斗八升六合
   右者申租税書面之通候条、総百姓立会、無甲乙割賦致、決算来四月限、急度上納可致もの也。
 
 このようになっていて、この年の年貢税率は二割四分強である。
 なお、地租改正条例は翌六年七月に制定された。
 以上は小栗氏知行地の年貢についてであるが、現在の多古町域においてもその質・量ともに屈指の米産地といわれる五反田の石盛(こくもり)(上田一反の平均収穫高を一斗で除した数を基準にして各等級の収穫率を定めた)について、明治三年三月に書き上げた『郷中田畑名寄帳』の合計から考えてみよう。それは、次のようになっている。
 
   高 五拾六石五斗九升六合
  一、上田 弐町五反弐畝拾八歩  石盛弐拾弐
      外ニ四畝廿歩
    高 弐拾六石八斗壱升三合
  一、中田 壱町三反四畝拾七歩  石盛十九半
      外ニ四畝廿八歩
   高 弐拾八石七斗六升三合
  一、下田 壱町七反六畝拾九歩  石盛十六
      外ニ四畝歩
   高 壱石弐斗五升壱勺
  一、上畑 弐反五畝八歩七厘   石盛 九
      内壱反壱畝拾弐歩
    高 弐石壱斗九合
  一、中畑 四反四畝拾九歩五厘  石盛 六
      内九畝拾五歩
   高 壱石三斗壱升壱合七勺四才
  一、下畑 六反拾弐分      石盛 三
      内壱反六畝弐拾歩弐厘六毛
    高 壱石弐升五合九勺五才
  一、屋敷 壱反七歩七厘八毛   石盛 十
 
 上田の石盛についてみれば、「弐拾弐」とあり、反当り玄米にして二石二斗(五俵半)の平均収穫量があると見られていたわけである。同様に、中田が石盛一九半であるから四俵と三斗五升、下田が一六で四俵となるが、普通この近郷では上田で一五(三俵と三斗)の石盛とされていることからすれば、他に例を見ないほど高率のものといえよう。