多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧多古町

五反田(ごたんだ)


 

 台地には土器片の散布が見られ、古墳(破壊)がある。また清水山麓に大小の横穴があるが、あるいは横穴古墳跡であろうか。
 かつて住民は西方台地に住んでおり、農耕の発達につれて日向きの低地に移動したとの伝承がある。現在かつての宅地跡という治兵衛・佐右衛門・権兵衛などの段々山があり、治兵衛山から日影下の湧清水までの「くみとり路」と呼ぶ小道がある。日影の住民はかつて林村より移住したと伝えられ、そのとき三十番神を鎮守として祀ったという。
 古代から千田庄大原郷と呼ばれたところで、中世は千葉氏の所領であった。江戸時代には旗本小栗氏の領地となり明治に至った。
 明治元年宮谷県(第九区内第八号)、同四年新治県(第五大区小七区)、同八年千葉県(第十五大区一小区)に編入され、同二十二年合併により多古村、同二十四年多古町の大字となった。現在同区は小集落のため、林区と行政区を一にしている。
 地名の起こりについては、昔この地に大きな蛇が棲んでいたので「御蛇田(ごだた)」と呼ばれ、後に五反田と改めた(口碑)。また古書に「御蛇田村」とあるといい、近傍に「長蛇谷」、「長蛇ケ池」などの地名があったといわれている。
 村に草分け仁兵衛という家がある。あるいは台地付近から最初に現在地に移住してきた家であろうか。
 明治元年、当時の戸長萩原海次郎が記録した上申書(宛先不明)によると、
 
 本村は古書に香取郡御蛇田村とあり、其元三、四戸より一部落を成せしものゝ如し。方今十戸、人員六十名在す。此部落は往古以来悉く無難に超越し、古来一棟の焼失なく、一人の囚徒なく、一婦人の難産なく、病患のため不具に陥入りし者なく、一人の変死者なく、唯一人として法庭を煩はせし者なきは世間無比の名勝なり。是即ち鎮守大神の霊験と信ずるの外なからん。尚当区には、古来続々健康者を生じ、現今七十歳より八十七歳までの男女五人あり、古今を通じて実に光栄無比の優勝地なり。
 尚当神社は元禄年度宮殿古朽傾きし際、大松樹横たわりて本社倒れんとするを、氏子共其危険を発見、直ちに神主榊原和泉守藤原古綱を招聘し祈念を上げしかば、不思儀なる哉大樹は其夜の内に起立せしという。この由を地頭処に申告したれば、御出役御見分の上御役所より宮殿造立の御愛憐を蒙り、是より漸次造営に取係り、宝永寅年(一七一〇)八月遷宮を執行す。其后知行所より氏子無難を珍重に思召されて、安永五年付を以て御知行所小栗又一様より大六天御供料として、玄米二斗づつ永久御寄附下賜あり。之れを以て鎮守祭礼の外に殿様祭と称し、世間評判全廊鍋掛けずと云う大祭を執行するに在り、現今も旧例を遵守して祭祈を執行す。如斯幕藩より格別の思召に預りしを以て正に由緒ある村落として玆に旧跡を証する所以なり。
   明治元年
                                    五反田村 戸長萩原海次郎
 
 このように三、四戸の民家から成り立っていたようであることなどを述べている。
 なお、村内にはいくつかの古人の足跡を記す旧蹟・遺蹟がある。列記すると左記の如くである。
 
 干芝(ほししば)遺跡 字干芝、当村の西方台地にある。ここからは縄文土器・土師器片が豊富に出土する。かつて方墳があったが現在消滅した。
 五反田遺跡 字追分にある。西方台地の畑地で土師器片が散布し、未確認ながら古代住居跡と思われる。
 五反田古墳 字追分にある。西方台地で畑になっている。古墳は円墳二基で一部は既に消滅している。
 辺照院跡 かつて当村に辺照院という寺院があったが廃寺となった。その場所は大師堂のあたりといわれている。