多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧多古町

林(はやし)

村の文書

 五人組帳前書
 村を統治していくうえで、『五人組帳前書』という箇条書を村民に示し、その厳守を各当主に誓約させる方法をとったが、その項目は徳川後期になるほど多くなってきている。
 当集落に残っていた「覚」と表記された箇条書は、延宝八年(一六八〇)に佐倉藩領として大久保氏が支配していたときに出されたもので、五人組制度前期のものと思われる。
 それには重要な事項について村民が守り、また、行うべきことがらが細かく記されている。その全文を載せることはあまり長文になるので省略するが、大きな項目として次のことが見られる。
 
 一、盗賊用心之事
 一、殺害人有之時之事
 一、火事有之時之事
 一、訴訟有之時之事
 一、争論有之時之事
 
 秣苅場紛争の訴訟文
 もう一つ記録に残しておきたい文書があるが、それは区有文書として大切に保管され続けてきたもので、隣村小原子(おばらく)村(山武郡芝山町)と秣苅取場について訴訟を起こして争ったときのものである。
 まず、問題となった地域は次のとおりである。
 
     官有地秣苅取願
                                   元第拾五大区壱小区
                                   下総国香取郡林村
   下総国香取郡林村地内
   第千壱番
   字三夜台
  一、芝地改正反別弐町七反拾五歩
     此秣料拾弐銭五厘
   第千廿壱番
   字菅谷台
  一、芝地改正反別三町五反七畝拾歩
     此秣料拾七銭四厘
   第千三拾三番
   字中ノ台
  一、芝地改正反別壱町弐反七畝歩
     此秣料六銭四厘
   第千三拾二番
   字長井戸台
  一、芝地改正反別弐反六畝弐歩
     此秣料八厘
   第千三十二番之内
   字長井戸台
  一、芝地改正反別壱町歩
     此秣料三銭
   第千百七十九番
   字踊台
  一、芝地改正反別壱反壱畝廿歩
     此秣料三厘
   第千百七十九番之内
   字踊台
  一、芝地改正反別弐反八畝拾歩
     此秣料四厘
   第千百九十弐番之内
   字踊台
  一、芝地改正反別七畝四歩
     此秣料八厘
   第千弐百四十四番
   字馬場先
  一、芝地改正反別五反歩
     此秣料三銭
   第千弐百四十四番之内
   字馬場先
  一、芝地改正反別三反九畝拾四歩
     此秣料弐銭四厘
   第千弐百四拾八番
   字牛谷台
  一、芝地改正反別六反三畝歩
     此秣料三銭八厘
  合反別拾町三反七畝廿五歩
                                   (明治十一年十二月四日提出分)
 
 この土地についての争いは明治九年からはじまる。
 まず小原子側から、林村区域内にある墓地の部分は、従来から小原子の石井五郎左衛門外三八名が管理して来ているので、ここではっきりと小原子村の地域に入るものであることを認めてくれるように、との願いが県令柴原和宛に提出された。
 しかしこの件は、両村協議の結果、墓地に使用されている部分については小原子の石井外三八名の私有地として認め、区域は林村に帰属するということで解決し、林村惣代松本賀兵衛・平山治兵衛、小原子村惣代石井雄司・石井七良左衛門によって明治九年二月二十八日に『済口書』が交わされた。
 次いで同十一年には小原子村惣代の前記両名によって、この地域の官有地における秣苅取りの入会権を求める訴訟書が東京裁判所千葉支庁民事掛へ提出された。これに対して林村では、平山治兵衛・大矢勘兵衛の二人を惣代に立て、幕政時代から明治に至るまでの年貢割付状などを証拠として、林村一村だけの秣場であったことを申し述べ、さらに今後もその権利を保持しなければ、縁肥の入手難から農業経営にも差し支えがあることを力説した。
 このとき千葉支庁は、双方とも証拠が不充分で、その上秣苅取りの請願許否については裁判所の権限外であるとしてこの訴えを却下したのである。次に掲げるのがその原文である。
 
   裁判言渡書
          原告 千葉県上総国武射郡小原子村石井源兵衛外三拾九名代兼同村拾弐番地
               石井七郎左衛門
          被告 千葉県下総国香取郡林村六番地熊坂隆助外五拾名代兼同村拾九番地
               平山治兵衛
              同村四拾弐番地
               大矢勘兵衛
官有地入会秣苅取ノ詞訟取糺ス処
原告訴フル要旨
本訴ノ争論地ハ 古来入会致シ来ル証拠ハ寛文度絵図面ノ通リニ有之其後モ年々秣苅取リ来レリ 因テ被告一村ノ専用スヘキ秣場ニ非サルヲ以テ 以来モ入会致シ苅取度旨申立
被告答フル要旨
本訴ノ争論地ハ 被告ニ於テ年々永納滞ナキ証拠ハ総テ提供スル証書之通ナルヲ以テ 被告一手ニ専用スヘキ地ナリ 已来原告ヘ入会ヒ苅取ノ儀ハ請求ニ応シ難シ 被告一手ニ苅取様裁判ヲ仰クト申拒セリ
判決
原被告共古来ヨリノ入会不入会ヲ争ヒ 被告於テ芝地税云々申立ルト雖モ、其税ハ該場ニ当ルモノナル哉否ヲ認ムルニ由ナシ 原告申立ル寛文度絵図モ当今差出ス現形図面ト符合セス 其他何レモ確乎タル証拠無之 且現場官有地ニ係ル旨原被告共申立ル上ハ官有地ヨリ生スル秣ヲ苅取ル事ノ請願ヲ許否スルハ所属ノ官庁権内ニ付本衙ニ於テ裁判及ハス、訴答状共却下候事
 但訴訟入費ハ原告ヨリ償却スヘシ
                         東京裁判所
   明治十二年二月三日               千葉支庁 印
 
 右の判決を不服とする小原子側は、従来から草苅りに入っていた者を証人とし、また、秣地内で小原子が使用している墓地や斃馬(そま)捨場がある事実を申し立てて東京上等裁判所へ上告するが、やはり従来からの入会秣場とは認められず、原告としての申し分は採用されなかった。
 次に載せるのが第二回目の判決を下した東京上等裁判所の判決原文である。
 
   裁判言渡書
         千葉県上総国武射郡小原子村三番地石井清治外四拾壱名代言人東京府深川区佐賀町弐町目三拾弐番地寄留
         原告  鴨志田 直
         千葉県下総国香取郡林村壱番地越川吉兵衛外五拾壱名代兼
         被告  平山治兵衛
         千葉県下総国香取郡林村壱番地越川吉兵衛外五拾壱名代人
         東京府本所区本所表町九番地
         被告  榎本政〓
 官有地入会秣苅取ノ詞訟東京裁判所千葉支庁ノ裁判不服及控訴ニ付審理判決スル如左 原告ニ於テ論地ハ原告村入会秣場ナル旨第壱号 第弐号 第三号 第四号 第五号 第六号 第七号ノ一 第七号ノ二 第八号ノ一 第八号ノ二 第九号ノ一 第九号ノ二 第九号ノ三 第九号ノ四 第九号ノ五 第九号ノ六 第九号ノ七 第九号ノ八証ヲ提供シ種々申立ルト雖トモ第壱号証ノ絵図ハ果シテ原告第三号証ノ当時成立タルモノニシテ第弐号第三号証ノ三郎左衛門ハ小原子村ノ人民ナルモ 原告第弐号第三号証ハ寛文年中ニ於テ三郎左衛門カ今回論外ノ地ヲ相争ヒタルモノナリ 殊ニ第壱号絵図ハ見取図ニシテ林村一村人民ノ認知シタリト見認ムヘキノ証ナケレハ 該見取図ニ志ば(しば)の入会ト記載アルノミヲ以論地ハ原告村ノ入会秣場ナリトハ難見認 又第四号証ニ林村ヘ属シ官有地秣入会苅取ノ儀ハ当区小原子村両村共古来ヨリ入会仕来候儀ニ聊相違無之云々トアルモ 其入会タルノ証跡記載アラサレハ該証ハ特リ岩内藤吉外弐名ノ証言ニ止ルモノナリ 又第六号図面ノ如ク論地近傍ニ墓所斃馬捨場等有之モ 右ハ原告村地内ニシテ原告村ノ墓地斃馬捨場等有之ハ敢テ怪ムニ足ラス 論地ノ近傍ニ原告村ノ墓所斃馬捨場等有之迚論地ヲ入会ナリトハ為シカタク 又被告ニ於テ三郎左衛門 三郎兵衛 庄左衛門ノ三名ハ論地ヘ入会来レリト申供シタルヲ以論地ハ原告村ノ入会ナリトスレトモ右三名ハ原告申立ル如ク小原子村ノ住民タルモ 右三名ノ入会来ルハ林村ニ田畑山林有之ヨリ示談上論地ノ生草ヲ時トシテ上苅為致タルモノナリト被告申立 右三名ノ入会ハ如何ナル契約ニテ入会来リタルヤ之ヲ定ムヘキノ証明アラサルヲ以之ヲ知ルニ由ナシト雖トモ 到底三名ノ者カ入会来リシ迚之ヲ以原告村一村ノ入会ヲ証スルノ効力ナキモノナリ 如斯論地ハ従来原告村ノ入会秣場ナリト見認ムヘキノ証跡無之ニ付 原告申分難及採用候事
 但訴訟入費ハ規則ノ通控訴原告人ヨリ控訴被告人ヘ可及償却候事
   明治十二年十一月十五日
                             東京上等裁判所 印
 
 このようないきさつを経て翌十三年一月には『官有地払下願』を提出したが、そのことが、現在の恵まれた畑作地を形成させる基となったわけである。