多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧多古町

林(はやし)

宗教/神社・寺院


池栄山法林寺

 字池端三八八番の一にある。明治になるまではこの集落内に寺が三ケ寺あったといわれるが、それらのことについて平山氏は「長者屋敷之事、並に妙法寺・法林寺・法光寺の事」と題する小文の中で次のように述べている。
 
 其の昔承平元辛卯年(九三一)人皇六十一代朱雀天皇之御宇、下総国佐倉に於て平親王将門謀叛して覇を伸ばし、住人皆勝手を以て諸所に越しけるとなり。漸く残りし百姓七八軒なり。
 其の後暦応元戊寅年(一三三八)、足利尊氏将軍の頃、中山三世日祐上人大法弘通の為、染井小原妙光寺に於て御説教あり、又隣郷を教化せらる。其の時当村挙りて改宗ありける。阿弥陀堂を改めて法華の道場となし、正林山妙法寺と号す。住持も亦日祐上人の弟子となりて、日傳と改名し、開山と申し伝ふるなり。行学を励みて村人を指導すること二十余年、延文五庚子年(一三六〇)十月二十日逝去なり。
 それより二百四十余年を経て慶長九辰年(一六〇四)、伊勢国薦野の城主土方掃部頭様、田子並に其の近郷にて五千石を拝領なされ候。翌年十年乙巳春(一六〇五)御奉行加茂宮治兵衛様と申す人御出張下され、城之内へ仮り屋を建て林村の田畑御検地の上、石高御定め下し置かれ候節、名主藤左衛門この地へ引寺に願い、並に寺公役代除地に遊ばされ、御承引仰せ付けられ候。今の妙法寺これなり。それより脇の坂を堂坂と称し、上の畑地を寺の台と云ひたり。
 妙法寺二世日叙、天授五己未年(一三七九)四月二十五日迂化す。三世日朝、応永三十一甲辰年(一四二四)三月二十九日迂化す。弟子二人あり、長日正師の後を嗣ぐ。次日財は安産守護の鬼子母神像を感得して、当村池の端に一寺を創立し、池栄山法林寺と号す。文明二庚寅年(一四七〇)五月二十九日迂化す。弟子日円嗣ぐ、晩年隠居して正栄山法光寺を創立す。文明九丁酉年(一四七七)十月九日迂化す。三ケ寺共今猶繁栄して法燈明らかに輝き、末法万年の闇を照す。誠に有難き事なりけり。日祐上人は応安七甲寅年(一三七四)五月十九日遷化す。
 応永十三丙戌年(一四〇六)妙法寺三世日朝、檀信徒と共に精進努力して土を盛り、大塚を築き三十三回忌の供養を営みたり。今この塚を上人塚と称するなり。
 
 (注) 現在も字上人塚八三六番に、大小二基の塚がある。
 
 右の三カ寺について明治四年の『社寺地立木取調書』は、次のように当時の様子を伝えている。
 
                                下総国香取郡林村
  一、境内除地三百七拾坪  日蓮宗一致派
     立木無御座候      妙法寺
  一、境内二百三拾四坪   同宗同派
     御年貢地        法林寺
     (目通三尺~七尺の杉・椎八本、明細省略)
  一、境内壱畝三歩    日蓮宗一致派
     御年貢地        法光寺
     立木無御座候
 
 さらに、明治に作られた『社寺明細帳』には、法林寺だけが次のように記されている。
 
     千葉県管下下総国香取郡多古町林字袋端
                               日蓮宗一致派 誕生寺末 法林寺
  一、本尊   釈迦如来
  一、由緒   元和元乙卯年(一六一五)建立ノ由古老ノ口碑ニ伝フ
  一、境内坪数 参百四坪
  一、檀徒人員 九拾九人
 
 また現在法林寺に残されている『法林寺由緒』は次のように伝えている。
 
 旧記を按するに、人皇九十六代後醍醐天皇の御宇延元三戊寅年(一三三八)中山三世日祐聖人遊化の砌、当林村挙村改宗権門の一寺を本化の道場と為し正林山妙法寺と号す。寺主も亦祐尊の弟子となり、正林院日傳と称し、大法宣伝に勤む。正平十五庚子年(一三六〇)十月二十日寂す。
 二世日叙を経て三世日朝に至り、弟子二人あり。長を日正と称し、師の後を嗣く。次を日財と称す、当村字池の端に一寺を建て、池栄山法林寺と号す。妙法寺は、其後相伝す。
 二十九世に至り、明治維新の際不受不施派再興の為めに檀家減少し、遂に法林寺に併合す。又法光寺を併合して、以て現今に至る。法統を伝ふること実に二十有六世。
   大正十年十月聖辰
    正東山(中村檀林)三百卅二世
                                         日渕 併誌
 
 以上の文書から見ると、暦応元年(一三三八)日祐の布教のとき改宗して妙法寺となり、慶長十年(一六〇五)字城之内へ引寺、移築した。
 同寺三世住職の日朝に日正・日財と二人の弟子がいたが、日正が師のあとを継いで同寺四世となり、日財は別に法林寺を創立して開山となった。のち、日財はその弟子日円に法林寺住職の座を譲り、さらに法光寺を創立した。
 明治九年に不受不施派が禁制から解かれると、妙法寺檀家の多くは不受不施派に改派した。そのために同寺では檀家が減少するところとなり、経営上の理由もあって法林寺に併合された。その後、さらに法光寺を併合して法林寺だけが残ったのである。現在も村内の檀家は二五軒だけで、半数を超える家々は不受不施派その他である。
 山内には、妙法寺跡から移したといわれる高さ六四センチの板碑があって「開山正林院日傳大徳 延文五庚子年(北朝年号・一三六〇)十月二十日」と妙法寺開山日伝の院号と没年が刻まれ、法林寺開山の石塔(七七センチ)には、「開山日財上人歴代之諸先哲 明治三十七年一月隆正代建之」とある。
 入口にある一二〇センチほどの石塔は「日蓮大師六百遠忌」としてあり、明治三十七年一月に右と同じ隆正が建立したものである。
 妙法・法林二カ寺併合の理由を、由緒書では不受不施派への改派であるといっているが、同派は明治になってはじめて広まったものではない。法林寺法系書に「開山日財 妙法寺三世日朝弟子 法林院ト号ス 文明二庚寅年(一四七〇)五月二十九日」と明確に記されていながら、十九世から二十三世までの五代については、二十二世日山の名を記すのみで、他は法名さえなく空白になっている。また妙法寺歴代書にも、二十四世日俊と二十五世日健の没年記録が記されていない。
 このようなことは、各寺院とも住職が不受不施派であった場合に多く見られる例で、確証は得られないにしても、正徳(一七一一)から以後のことでもあり、同派弾圧の時代とほぼ合致することからみても、このころからすでに不受不施派信者が多かったのではないかと思われる。