多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧多古町

多古(たこ)

神代徳次郎事件余話

  藩主勝行の国入りと家老高橋勘作の切腹
 弘化三年(一八四六)七月藩主勝権は幕府から預けられた神代徳次郎を監禁したが、三年後の嘉永二年(一八四九)七月三日の夜中に、逃亡されるという不始末があり、その顚(てん)末は既述のとおりであるが、のちに思わぬ悲劇が起こった。江戸家老高橋勘作方義(まさよし)の切腹である。
 高橋方義は俗称を勘作といい、祖父方昌が多古藩に仕え、方義は家老職にあった。領主を補佐すると同時に藩内の監督およびその責任者でもある。藩中の不始末はやがて家老の責任となるわけである。
 幕府預りの罪人に逃亡されれば、当然藩主に相当の処分が下されるに違いない。藩の重役として藩主への処分の軽減を図るのは当然のことである。思案の末、勘作は意を決した。それは、幕府に対して罪の軽減を嘆願し、すべては家老の責任として腹を切ることであった。
 これより前の嘉永元年(一八四八)十月七日、多古藩主松平勝権(のり)は病気のため隠居の身となり、家督を嫡子勝行に譲った。そして、同二年二月十五日勝行は居所(本国)多古へ帰ることを許された。相続してわずか四カ月余のことである。
 大名の参勤交代は原則として隔年交替であったが、江戸近国の藩主は半年勤務で、春に半年間の暇が出たようである。父勝権のときから通算六カ月の江戸城勤務が終え、勝行ははじめて多古陣屋に乗り込むことになった。
 それまで嫡子として江戸に暮らしていた勝行が領国多古陣屋にはじめて入国するとあって、藩中および領内本国である多古村では、迎えの準備に大わらわであった。
 そのころ、幕府お預けの神代徳次郎は、すでに入牢後ほぼ二年半が過ぎていた。元来如才ない徳次郎は万事神妙にふるまい、特に番士、足軽に接近して、彼らをして「殊勝なる罪人よ」と思わせることに成功していた。すでに観念して刑に服し、逃亡のおそれなしとみた番士たちは時には出牢させ、縄つきながら付近を散歩させたり、近くの妙光寺に参詣させたりもした。
 妙光寺に参詣の折、神代は「罪の償いのため信心供養をしたい」と番士に申し出て「お百度」を踏むことを乞うた。祖師堂を廻らす廊下を百度歩き回るのである。その言葉を健気と信じこんだ番士たちは、神代の申入れを承知した。祖師堂一周は約四〇メートルはあり、これを百回回れば約四キロメートルにもなる。足の鍛練には最適の運動である。いつの日かの脱走にそなえて足を鍛えておこうとする徳次郎の深慮に、誰一人として気がつく者はいなかった。
 二月に藩主勝行がはじめての国入りすることを番士から聞いた徳次郎の胸中に浮かぶ思いがあった。藩主の入部によって陣屋内は平常になく忙しくなる。当然ながら家中の手も不足し、かつ殿様入部によるさまざまな行事に気を取られることになり、それによってあるいは獄舎の監視に手ぬかりも生ずるであろう。そのときこそ脱走の好機であると、このようなことが徳次郎の脳裡をかすめた。そしてますます態度を神妙にし、ひそかに足腰の鍛練に励んだ。
 嘉永二年正月、江戸家老高橋勘作は多古陣屋に下った。それは二月に行われる殿様入部の諸事打合わせのためであった。
 多古村割元名主五十嵐篤治郎は早速勘作の陣屋到着見舞に参上した。つづいて村役人たちが呼び出され殿様入部について、万事粗相のないよう細部にわたっての注意を受け、打合わせがなされた。特に勘作からは、初入部の殿様への献上のことについての意向が伝えられた。
 そのことを、五十嵐篤治郎は日記の中に次のように記している。
 
 二月十日頃、高橋勘作様より被仰出、当年は殿様初て御入部ニ付、先例鯛献上候所、此度は五十嵐佐一郎初南中村五軒党、北中村理左衛門外被官之面々申合、献上可致、割元心得も可有之由被仰付候。
 割元南中村柴田長太夫、米拾五俵。割元飯櫃村池田利左衛門、米拾五俵。五十嵐篤治郎、米拾五俵。外被官之面々、分限ニ応じ献上。御領分中、行届候者は献上可致由ニて、米壱俵献上致候者迠、都合三百拾壱俵献上相成申候。
 
 万端の準備打合わせを終えて勘作は江戸に出立した。これが家老高橋の、多古との別れであった。「二月十五日、明七ツ時(午前四時)高橋勘作様御出立ニ相成申候。其節割元両人(柴田・池田)手前(五十嵐)御堀脇江罷出候」(五十嵐家日記)。
 三月になって用人吉野要八(方哲。勘作の弟)が、殿様入部の奉行として多古陣屋に下った。
 用人兼奉行吉野要八を迎え、家中、村役人による殿様出迎えの最終打合わせがなされ、いよいよ藩主勝行の御国入りである。
 十八歳で家を継ぎ、藩主としてはじめて大名行列の駕籠の人となり、江戸より二〇里、根木名(成田市三里塚)まで多古村名主ほかの出迎えを受けた勝行国入りの模様は、五十嵐氏の日記に次のように記されている。
 
 三月十五日、殿様初て御入部、夕七ツ時(午後四時)御着被遊。(十四日江戸出発)金紋御先箱にて台笠、立笠御行列。其節御堀之脇、会所前江席札相立、御用人吉野要八様会所前江御出張、呼上ケ。
 
 堀脇の会所前で行列を迎えたのは、割元柴田長太夫・池田利左衛門・五十嵐篤治郎・被官御園五左衛門・篠崎幸左衛門であり、これらの席札が立てられ、大原内から陣屋下の会所までの出迎えの配置は、次のようになっていた。
 
 大原内池の渕(ふち)、御分家知行役人。なら屋之前、野州小山御領分名主共。辰巳屋前、医師林玄龍、平山玄益、片貝花沢玄亭、片貝玄益、中里玄益都合五人。新町新左衛門前、御領分役人共。天王前御褒美出之者共之ハ冥加金差上袴頂戴の者。中町虎屋前、御出入職人共。箱屋之前、中村五軒党。俵屋前、飯櫃村木内伊兵衛、南中村柴田鉄太郎(長太夫忰)。宇賀村治郎兵衛前、東式部(神官)。(五十嵐家日記)。
 
(注) 御分家知行=分家五百石松平熊三郎の領地(武射郡殿辺田・香取郡船越村・同御所台村)
   野州小山領分=下野国に約二千九百石の領地があった。
 
 翌十六日は道中の疲れを癒し、十七日には、村役人の案内によって寺社参拝をし、十八日には主だった村役人を陣屋に招いてその労をねぎらった。その模様は次のとおりである。
 
 十七日殿様峯妙興寺江御仏参被遊、御帰り、大原内妙見宮、天照山、妙光寺、御西妙見迠御参詣被遊。御案内名主勘兵衛、羽織袴にて股立ヲ取、帯刀。組頭治兵衛、組頭代、百姓代治郎兵衛。
 十八日御殿、割元両人(柴田・池田)手前(五十嵐)外御上下(かみしも)頂戴之被官之者、御目見被仰付
 
ということでひとまず入部の行事を済ませ、七月十六日までの四カ月間多古陣屋での生活を送ることになった。
 四月十六日、殿様は領地片貝浦に浜遊山に出かけた。殿様が陣屋を一歩出るに当たっては、前もって行く先々に前触れをなし、何人かが先行して休憩・中食・宿泊の準備をしなければならず、当然、警護やその世話をする家来たちが同行するわけで、陸尺(駕籠かつぎ)を入れると最低一五~二〇人は必要であったはずである。
 
 壬四月十六日、殿様片貝浦、浜御遊覧被入候ニ付、成東安井権兵衛宅御中食、道庭・田間・家徳(山辺郡村々)通り、片貝御領分名主庄兵衛宅江御泊り被遊候。御案内出役名主勘兵衛、組頭四人罷越。
 十八日御帰路、成東中食、田越(武射)より芝山仁王尊江御参詣被遊、御帰陣罷成候。
 
 現在山武郡九十九里町に属する片貝は、当時高千百五十三石の五給地であった。そのうちの百九十石が多古藩の領地であったのである。
 浜遊覧の次は成田詣である。これは御忍(しの)びということであったが、それはそれなりに家中にとっては気苦労なものであったろう。
 
 五月十日、成田山江御忍ニて御参詣被遊、御帰路飯櫃村木内伊兵衛江御立寄被遊候。是は御隠居様御代ニも例有之事ニ候。其節割元池田利左衛門願ニ付御帰り懸(がけ)、鳥渡(ちょっと)御立寄と申事ニ承り候。
 
 そうこうするうちに五月も過ぎた。
 一方、監禁入牢の神代徳次郎の一日は長かったが、なじみを深めた番人たちとも語り合い、陣屋内の情報や家中の動行を探り、はては脱走後の経路・距離・所要時間について、周到な逃亡計画をすすめた。決して逃亡の素振りも見せず、じっと時機の来るのを待ったのである。そして前よりも頻繁に、縄付きのまま妙光寺の「お百度」を踏んで足腰を鍛えた。それを改心のあらわれと解した番士たちは、全く徳次郎を信じ込み、眠ってならない立番中も番小屋に入って仮眠したり、檻や柵鞘(牢屋などの外囲い)の鍵をかけない夜もままあった。また、殿様の方に気を取られる上役の家臣たちも西屋敷牢舎の監督に油断した。
 そんなある日、陣屋内に不思議なできごとがあった。風もないのに大松の枝が折れて落ちたのである。そのときの様子は、次の日記によって知れる。
 
 六月朔日、晴天ニテ風も無之、至て静成る朝五ツ時(八時)御陣屋内馬場之上、御長舎渡通り、松大木東江向枝凡六尺も廻ル、木付より折ル。右ニ付善悪は不相訳(あいわか)候得共、於天照山村中老人打寄題目講相唱申候。寺院衆祈念致。
 
 当時、陣屋の屋敷続き西北の地約一町五反余は山林になっており、陣屋近くには目通り一丈二尺(約四メートル)もの松の大木があった。それにしても六尺もの枝というのは少々大げさかもしれないが、とにかく大きな松の枝が風もないのに折れたのだから、驚き不思議に思うのは当然であろう。そしてこのことは、やがて起こる不幸な事件の前兆でもあった。
 そんなことがありながら、また一カ月が過ぎ、殿様ももっぱら陣屋内にあって静かな日を送っていた。しかし家中の者や、村役人は再び忙しくなった。殿様出府の日七月十六日が近くなってきたからである。
 七月二日には江戸に持ち運ぶ諸荷物の「荷割り」をするなど、陣屋内外はまさに戦場さながらの忙しさであった。囚人神代徳次郎は、ひそかにこの機をねらった。
 七月三日例によって散歩ののち、殊勝な面持ちで入檻した。このとき当番の足軽河野安蔵は鍵をそのままにして立ち去ったのである。やがて中間久次郎が夕食を持ってきた。徳次郎は至極平常に接し、差入口から受け取って食事をすませた後、さらに行水するための湯を所望した。すでに気を許している久次郎は快く湯を持ってきた。
 腹ごしらえをして三年間の牢獄の垢を落した徳次郎は、鍵のかかっていない檻を出て、外鞘(そとざや)、水懸(屋敷境の囲い)口の鍵をみた。その鍵も外れたままであることを確認した彼は、再び檻に戻って静かに時の過ぎるのを待った。
 当夜の番士は浅野正作であったが、彼は当番足軽河野安蔵に、入念に鍵をかけるよう命じたまま、見廻りもせず眠ってしまった。当番の足軽は二人詰めのところ、他の一人が病気とのことで安蔵一人だけが詰めたのであるが、鍵の点検もせず番小屋に入って居眠りをしていた。
 三日の月は早くも消えて、西屋敷は寝静まった。三重の鍵はいずれも外れたままで、番人は眠っている。さながら逃がすように仕組まれているようであった。
 やすやすと檻を出た徳次郎は、かねて頭の中に描いていた方向に向かってひた走った。足は十分鍛えてある。もとより命がけの脱出である。番人が逃亡を発見するまでには、ある程度の道のりは逃げておかねばならない。彼は力の限り走ったに違いない。後日の調べによっても、徳次郎が脱牢後どこをどのように逃走したかは明らかでない。
 七月四日朝、徳次郎の脱牢を知って陣屋内は大さわぎになった。村民はかり出されて山狩りをする。江戸表へは急使が飛んで、その筋への手配をする。家中の者は諸処に急拠派遣され、各村々に探索の依頼をしなければならない。八方手を尽くしたが徳次郎の足取りは杳(よう)としてつかめなかった。
 一方、早馬によって神代徳次郎逃亡の知らせを聞いた江戸家老高橋勘作は、重く頭を下げた。急ぎ取るべき手当てにぬかりはなかったが、心は暗く閉された。
 年若い藩主勝行のはじめての国入りについては心を砕いた。首尾よく本国を治めて出府することを神かけて願いながら、江戸屋敷を守っていた勘作は、さぞや胸を刺される思いであったことであろう。多古藩にとってこの上ない失態である。家老としてむしろ若い藩主以上にことの成り行きを考えねばならない立場である。さもなくも藩主の出府を目前にして、江戸表もまた所用に追われる日々であった。
 降って湧いたような徳次郎逃亡事件は、つまりは家中、特に番士および当番足軽たちの勤務の怠慢と士気の弛緩によるものであったが、囚人神代徳次郎の方が、家中および番人たちより数段も上のしたたか者であったようである。
 徳次郎は、かつて犯した罪によって長崎唐人屋敷門前にて磔刑に処せられるべきものを、二度の殊勝な行為によって減刑された男である。中追放となって多古の牢につながれた三十九歳の分別盛りである。片田舎の番士らを手なづけるくらいは朝飯前であった。それだけにやがて罪を問われた藩主以下家臣たちがむしろ気の毒であり、まして自らの手でわが命を絶った家老高橋勘作こそ同情に堪えないものがある。
 徳次郎逃走から十余日はあっという間にたった。七月十六日藩主勝行は夜五ツ時(八時)多古陣屋を出立して江戸に向かった。村役人たちは暇ごいに参上し、会所前にて見送ったが、入部の時とは打って変わった雰囲気であった。送る者も送られる者も、思いは事件の成り行きへの不安であった。
 七月十七日、藩主勝行は江戸表に到着した。そして、家老高橋勘作が切腹したのは八月二日であった。「大義院釈良忍居士、嘉永二年八月二日」と刻まれた供養碑が、かつての領内であった井野村に立っている。