多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧多古町

多古(たこ)

教育・人物

 寺小屋・私塾の師匠たち
 寿峰院日満 本町実相寺の三十一世住職、越後国高田生まれで同寺で子弟に読み書きを教え元治元年(一八六四)三月晦日に没した。字本込三〇七五番地の墓地に筆弟中建立の墓碑がある。
 飯田一雅 字木ノ下三七六三番地の大原内墓地に明治十九年十一月、門下生によって建立された報恩碑がある。碑に「飯田一雅先生 富楼那院日仙大徳 長栄山昌圓寺嗣法」とある。この昌圓寺は新町にあった。
 一雅は文政十年(一八二七)静岡県に生まれ、大原内飯田作左衛門の養子となり、江戸末期から明治初年にかけて子弟の教育をした。碑に法福寺住職・発起人・世話人・門生七六名(うち女子二九名)・石工などの名が刻されている。
 勝又吉兵衛 堀の尻の人で手習いの師匠であった。文政十年(一八二七)十月九日没。字高根二七九七番地の墓地に世話人一一人・筆子二七〇人によって建立された報恩碑があり、法号「教童院自楽日宗」とある。
 久松半助・寺田弥右衛門 ともに旧多古藩士で、家塾で子弟を教えた。詳細を知ることはできない。
 椎名胤忠 旧多古藩士で、公務の余暇に子弟の教育をした。常に数十人の生徒が集まったという。明治二十四年三月に建てた宇井恭庵撰文、篠田雪溪(泰順)書の碑が妙光寺にある。
 その碑文を要約すると、前記事項の外に、「名を隼人助、喜平治と称し、後に本姓の千葉氏に復した。代々多古藩士であった。文久二年(一八六二)多古藩の新領陸奥楢葉郡の代官として赴任し、明治となってから藩主とともに東京に移って、新政府の司法省、農務省に勤務した。明治二十一年一月二十九日、病のため逝去。五十二歳であった」。このようなことが記されている。
 文化・実業人
 平山増之助 高野前の人。文久元年(一八六一)八月一日生まれ、曽祖父玄碩、祖父玄瑞、父玄益と代々医師で藩主に仕えた。増之助は東京帝国大学医学部を明治十五年に卒業している。
 陸軍薬剤副官、陸軍各病院勤務の後ドイツに留学。その後は軍医学校教官などを歴任し、同三十五年十一月陸軍二等薬剤正となり、のち一等に進む。同三十九年四月功四級勲三等、同四十年十一月薬学博士、同四十三年四月従三位に叙され、同年八月富山県立薬学専門学校長となり、大正三年六月二十九日卒。
 篠田泰順 切通の人、西屋敷に住む。弘化三年(一八四六)正月十三日、山武郡境村に生まれた。本姓秋葉氏で若くして医学を学び、多古藩医篠田元庵の養子となった。さらに御所台の螟蛉塾で並木栗水の指導を受け、江戸小石川にあった多古藩校の助教として子弟の教育に当たったという。明治八年多古小学校の創立に尽力し、自ら教鞭をとり、同三十九年に職を辞するまで訓導または校長として三十二年間子弟の教育に専念した。
 また書画に長じて雪溪と号し、書を並木栗水、画を西田春耕、渡辺小華に学んだ。明治四十二年二月、六十四歳で没した。墓は妙光寺にある。
 本多栄子 高野前、旧多古藩主松平勝行の室。旧岡崎藩主本多忠考の長女。才学に富み、画をよくし如雪と号した。また俳諧の妙を極めた。
 明治三十八年三月十三日卒、七十二歳であった。法号操善院殿英寿日厚大禅尼、墓は妙光寺にある。
 志波兵左衛門 広沼の人。天保十四年(一八四三)三月一日生まれ。大原幽学の性理教会場に学び、志を農事にいたし、殊に麦作の改良に尽瘁し、多古実農会を組織し農事の指導に専心した。
 明治三十八年大日本農会総裁伏見宮貞愛親王より緑白綬有功章を授与され、また同四十一年の一府十県共進会に於いて農商務大臣大浦兼武より賞状を授与された。昭和二年三月二十日に八十五歳で没した。
 五十嵐敬止 堀の尻の人、居合に住む。万延元年(一八六〇)三月二十五日生まれ、父を敬慎という。二十一歳のとき米国で実業の状況を視察し、明治二十二年貴族院議員となる。のち、千葉県農工銀行頭取となり、同三十七年再び貴族院議員となる。また衆議員議員として政界に、あるいは日本勧業銀行役員として実業界に尽くし、昭和六年六月九日、七十二歳で没している。