多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧多古町

多古(たこ)

旧寺院跡

 江戸時代には、村内に寺院が十七カ寺あった(慶長七年小縄帳)というが、現在は妙光寺のみが法灯を守り、他寺は廃された。つぎにそれらの寺院跡を辿ってみることにする。
 法福寺 大原内にあった。池の上一帯が古昌山法福寺域であったが、明治三十一年染井小田辺・塚崎を通過する県道の敷設によって境内が分断された。
 同寺の境内は五二一坪、日蓮宗中山法華経寺の末寺で開基は不詳。もと正徳院と称し、桜宮の辺にあったといわれ、一説に天正元年(一五七三)大原内に移したとある。寺堂ははじめ南側の山根にあったが日陰なので天保(一八三〇~四〇)のころ北側に移した。当時日向きもよくなり寺構えもよかったといわれる。
 大正に至り四十一世津田寿良のとき居射妙光寺と合併したが、昭和三年に廃寺となった。「マデイド」の墓地に歴代墓碑がある。また新町消防庫の半鐘は享和元年(一八〇一)の鋳造で、法福寺の名が刻まれている。
 境内南高台に妙見堂があり、毎年六月十五日に祭礼が行われたが、昭和三十五年廃堂となり、妙見像は妙光寺に移された。
 なお、『社寺明細帳』には次のように記されている。
 
   千葉県管下下総国香取郡多古町多古字大原内
                                法華経寺末
                                   日蓮宗 法福寺
                                       昭和三年廃寺
一、本尊   釈迦仏
一、由緒   不詳[明治四十一年七月十三日許可ヲ得テ仝所字高野前ニアリシ妙薬寺ヲ本寺ニ合併ス]
一、堂宇間数 間口五間三尺 奥行五間
一、境内坪数 五百弐拾壱坪
一、住職   津田壽良
一、檀徒人員 (記載なし)
 大正拾年七月廿九日付願済仝寺ヲ大分県大野郡三重町エ移転並ニ境内仏堂妙見堂ヲ仝所妙光寺境内エ移転ノ上頭書ノ土地妙光寺エ寄付ス 大正十一年一月廿八日千葉県知事折原巳一郎許可書一々記載ス
 
 妙薬寺 立印山妙薬寺は木戸谷の池の上にあった。同寺は多古最古の寺院で、伝説によれば大同年間(八〇六~九)弘法大師の開基で、その地を「新高野」と称し、前の地を「高野前」と名付けたという。
 妙薬寺はもと真言宗で薬師如来を安置したが、室町時代のはじめ日祐の布教により日蓮宗に改宗したと伝えられる。
 同寺過去帳に「以前は辺田前なり、中頃うしろ畑の所なり、今の寺中は山崎仁右衛門の屋敷なり」また「この寺、中頃も自火にて焼たり、年号は寛文五巳年(一六六五)二月十五日なり、近年は寛延二巳年(一七四九)四月十八日夜自火にて残らず焼、過去帳までも焼たり」と『安永記録』にある。宝暦年中(一七五一~六三)寺堂を建立した。
 天保年中には公儀に願済の上、十カ年にわたって春秋とも芝居が立った(安政記録)とのことだが、明治に至って寺運が衰え、同二十六年多古高等小学校、同四十年多古農学校の仮校舎となった。
 大正初年ついに廃寺となり大原内法福寺に合併、法福寺もまた妙光寺に合した。大正八年本堂を売却して田町に移築され、建物の一部を伍友館(劇場)とした。
 旧地は多古台開発によって消滅した。
 真弘寺 高根にあって、高峯山と称した。『文禄名寄』に正乗坊とある。また中頃蓮大坊ともいい、『真弘寺過去帳』に「開山日要聖人天文二十三寅年(一五五四)二月二十八日遷化」とある(安永記録)。同寺は中山法宣寺の末寺で、妙薬寺の預り寺であった(島・享保記録)。
 高根消防庫の半鐘はもと真弘寺のもので、文化三歳次丙寅(一八〇六)冬十月の鋳造になり「時の世話人佐藤重兵衛 同庄兵衛 稲垣藤兵衛 宇賀村治郎兵衛 鈴木元右衛門 本願主五十嵐佐五兵衛 本町半兵衛母 施入唱行院法寿信士 秋原智泉信士 妙諦信女 鋳物師下総国 村万喜良藤原信義」の銘がある。
 実相寺 高根山と称して本町にあった。「古書には実相坊とあり、牛頭天王の祭祀を主る」とある(安永記録)。かつての同寺の裏山の辺りに宝暦六年(一七五六)建立の稲荷石宮、安永四年(一七七五)の三夜供養碑がある。また同寺僧の墓碑が本込墓地にある。
 本蓮寺 堀の尻にあった。「古書には蓮華坊とあり、今蓮華山と号す」(安永記録)とあり、島妙光寺の末寺であった。同寺の題目碑が、いま高根の仕置場墓地にある。
 同寺は貞治二年(一三六三)島・日通の弟子日実の開基である。この寺は中絶したが元亀二年(一五七一)蓮成坊によって再興されている(島・享保記録)。
 正圓寺 新町山際にあり、長栄山と称した。「古書には学乗坊と有り」とある(安永記録)。また昌円寺と書かれたものもある。古昌山法福寺の下寺であった。
 妙像寺 大原内にあった。「古書には大蔵坊と有り、この寺染井塚崎より越したりと云う。この寺文化の末頃自火にて焼失、類焼なし」とある(安永・安政記録)。
 正法寺 木戸谷にあった。「古書には慶陽坊とあり」とある(安永記録)。
 東福寺 山号は妙詮山で、木戸谷にあった。「古書には南円坊と有。この東福寺は古人の話しに芝の徳成寺は前東谷東福寺なり。其寺号を持参なりと云へり。客殿共に此方へ引きたり、其跡へ今の徳成寺建立なり、本は高田の寺を引たり」とある(安永記録)。
 法性寺 木戸谷にあった。「古書に南陽坊とあり、妙光寺の末寺也。大宮大神の別当を勤む」とある(安永記録)。天照山と称した。
 本成寺 八幡山と称して居射にあった。「古書には本陽坊とあり」とある(安永記録)。
 円能寺 居射にあった。「古書には円陽坊とあり」とある(安永記録)。
 浄妙寺 広沼にあった。「古書には本乗坊と見えたり、この寺は水戸村の海老谷より引きたりと云えり」とある(安永記録)。
 同寺は康永元年(一三四二)八月、島・日朝の弟子日妙の開基である(島・享保記録)。
 妙益寺 広沼にあった。「古書には蓮乗坊と云ふ、この坊号と見へたり。昔うしろの志学畑と云ふなり。何れの頃よりか妙薬寺へ引寺にいたし候」とある(安永・安政記録)。
 広沼山法浄寺 広沼にあり広沼山を称した。「古書には一乗坊と有り、中頃絶たり。其後惣左衛門取立、法浄寺と云う」とある(安永記録)。安政のころ廃寺になった。
 妙昌寺 島享保七年の記録に寺名が出てくるが、その跡は不明である。