多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧中村

南並木・中村新田(みなみなみき・なかむらしんでん)

村の文書

 私たちの祖先の、といっても中世における幾多の戦乱から遠のき、天正の混乱期をはさんで徳川氏の治世になってからのことであるにせよ、現在それらを語る史料はほとんど残されていない。
 直訴状 幕府の政策のままに「生かさず殺さず」、苛酷な年貢取立てによって農民の一家離散もあったろうし、強訴の手段に出た例も聞く。ここに私たちの近在において一人の旗本知行所役人のため、他に類のない苦しみを受けた一一カ村の農民たちが、非道な罰を受けながら公儀へ訴えた文書がある。
 原文は乱筆の上欠落が多く、意味不明のところがあって、判読することが極めて困難であったが、できるだけ平易な文になおして次に載せることとした。なお「永井監物」とは、小田原・関ケ原から大坂の陣に戦功をたて、寛永二年(一六二五)に相模国鎌倉・高座、下総国葛飾・印旛・相馬、上総国山辺など六郡のうちに二千五百三十石余を知行すべき御朱印を受け、翌同三年従五位下に叙されて監物と称し、同五年に上総国武射、下総国匝瑳両郡のうちに千石の加増を受け、すべて三千五百三十石余を知行して承応三年(一六五四)八十三歳で死去した「弥右衛門・白元(あきもと)」を祖とし、後にも上・下総地方に所領を有するが、曽孫の白弘(あきひろ)(伝九郎・監物)のとき元禄十四年(一七〇一)に下総国印旛郡の采地を割いて、同国香取郡に始めて知行すべき土地を移されている。これが中村新田から提出された前記訴状にかかわる人物と思われる。
 次の文の「監物」は年代的にみて白弘の孫白衆(あきもち)のことであろうが、宝暦三年(一七五三)父尚方の遺封を継いでいる。人物的にその価値を問われるようなことが再三あり、出仕・拝謁停止も数回に及んでいる(『寛政重修諸家譜』)。
 文は、「永井監物様御知行所 上総下総十一ケ村百姓共申上候」の書き出しに始まっている。
 
私共の御地頭様には、どなたの世話で召抱えられたのでしょうか、近国田舎の小百姓である者が近年神道を伝受し「安藤織江」と名のって神職まがいの風情をし、殊にいさかい事を好み大山師であります。この者、どういうわけで武士になったのか、この夏に御地頭所様安藤清左衛門と改名し、賄役人に召抱えられました。
 そして、九月下旬より「御知行所見分」ということで、臼井清介という浪人体の者と足軽も連れ、諸道具を携えて廻村して来られたのですが、殊の外権威の高い人で、村々に着いてから、
「我等はこの度、初めて知行所より廻って来た。村々は穫れ高に相応の祝儀・金子を差出すべし。そのようになしたる者は、諸役御用について格別の配慮をするものである」
などの不法なことを申され、どの村々でも名主共まで密かに仰せ渡されたので、村々では答えて、私どもは今まで御地頭様御役人中に贈り物・金銭など差し出したことはない旨を申し述べ、金銭その他何物も音物(賄物)として一向に差し出さなかったところ、大いに立腹し村々にてあばれ、無理なことを申されるのです。即ち
「このたび、初めての我々に対して無作法な仕方であるので、今まで「検見」を行わずに当年の豊凶に関係なく数年の平均を以て年貢を納めていた「定免」の村々であろうとも、今年よりは増租とし、なおその上一村ずつ検地も厳しく改め、定免年季作をしているところは毎年検地をして段々高免を掛け、村々の百姓を取り潰す」
 このような難言のうえ、百姓共を叱りたぶらかし、新たに駕籠を二挺あつらえ、両人とも六枚方(ろくまいかた)(「六枚肩」のこと。前棒・後棒の他、交代の人数も加えて六人でかつがせること)として足軽を馬に乗せたりなどの他、「定免」の村々に増税を掛けたり、検地の道具をもって実際に検地をした村もあります。
 或は、以前より名主の給米として下されていたものも減らし、また右に差し上げた御用金を二十年賦にせよとの言いつけですが、これには金主たちも合点せず、公けの場所に訴え出るかの様子でした。そうしたのでは殿様の御名前も出ることになり、一そう困っている村々百姓たちは難渋致します。
 当年は、遠くの人は知らないだろうが、多年に亘る干魃であり、その上八月十七日夜の大風雨のため百姓住家が軒並みに被害を受けて大破損、また畑の出来も悪く、凶年です。何処の御地頭様方も相応の御用捨引(不作のとき、年貢を差し引いて納めさせる)を下されたところに、右に申し上げるように、安藤清左衛門が悪心をもって困ったことばかり言っては百姓を掠めて居り、村々の百姓は成り立って行けません。ここにやむを得ず相談し、老若共に挙ってお願いを申し上げる次第です。もっとも、一村毎に別の書状に申し上げることと、少も相違はありません。
 御親類中様方にも是非お聞き下さって、この書ならびに村々からの書状を御吟味の上、安藤清左衛門の支配から除かれ、百姓が続けて行かれるように仰せつけ下されば、大勢の百姓、どんなにか有難き幸せに存じます。
 なおまた、委細の儀はお尋ねの節、百姓一々口上にて申し上げます。以上
   宝暦十一巳の九月日(一七六一)
                                   御知行所十一ケ村
    永井采女様
 
 「泣く子と地頭には勝てぬ」ではないが、役職の権力をもって百姓を威圧し、しかも私利私欲に走る地方機関の下級武士に泣かされた農民の姿がここにあった。そして、乱れ始めた幕府の統治力を理解することもできる。この安藤清左衛門の所業に苦しめられた農民の訴えはなお続き、最後には、「知行所がどんな騒動になっても、つまりは彼の悪心から出たことですから――」とさえいっている。
 前九月の訴状と重複するところを避け、農民の悲痛な声をもう一通の古文書によって聞いてみたい。
 
 (清左衛門は)八月中、名主どもを呼び寄せて以来、権力をかさに理不尽をし、その上いろいろの証文を書いては無理に押印をさせ、知行所見分として九、十月廻村のとき、村方で面積不足のところには「百姓損」と言い、竿先(検地の)など少しでも出歩になれば新たに年貢を申しつけ、また定免の村々に増租を掛けるのに、清左衛門は筆先だけで割附けを出してしまい、或は検見坪刈りをしても法外・悲道の年貢をかけ、又は従前よりの崩折(引)・砂押(引)・永荒(引)ならびに堰代の年貢差し引きのことや名主の給米など、いずれも子細があって先代より下し置かれたものも無理に取り上げ、それらについて少しでも申し開きがましいことをすれば、手錠などをかけて来ます。
 右のことなどについても証文を作り、権力的に印形を押し取り立てられた次第です。納得が行かないまゝ致し方なく印形を差し出したのです。
 しかし、村々の惣百姓は得心ならず、お願いを申し上げることになりました。委細は書状の通り少しも相違はありません。願の筋は私共も同じことであります。何分にもお情けをもって百姓願書の通り御吟味の上、清左衛門の非道な申し付けを取り止め、其の上清左衛門について、他の支配を加えるようにして下されば、村々大勢の百姓、こぞって有難く存じます。
 このような次第ですが、御地頭様のことについても恐縮ながら御大切に存じて居ります。右のことで知行所が騒動となっても、つまりは清左衛門が悪心をもって法外な働きをしたからにほかなりません。
 これらについて御親類様方まで御苦労を相掛け、なおまた村々は至って困窮であり、わけても今年は凶年で難儀をしているにもかかわらず、江戸詰の費用もかゝり、何とも難儀至極であります。
 恐れ入りますがこの旨を御容赦の上、幾重もの御憐愍をもって、村々百姓が相続けて行かれますようにお願い申し上げます。
 私共はこの百姓願いのことについて、先月二十一日より清左衛門内縁の宿へのお預けを仰せつけられ、これも難儀致して居ります。これについてもお慈悲を下さり、お預けとなる事は致し方ないと存じますが、私共が先達てお願いした江戸宿に居られますように、よろしくお願い申し上げます。
 なお委細については、お尋ねの節口頭で申し上げることと致します。
   宝暦十一巳(年)十一月日
                                       上総下総十一ケ村
                                          名主
                                          組頭
    永井伊織様
 
 常軌を逸した知行所役人の所業に加え、相次ぐ凶作で農民たちは疲労していた。しかしなお名主たちはお預けの身となりながら、ひたすらお願いの儀に及んだのである。
 残念ながら、このことについてどのような結果になったかは不明である。しかし、このようなことが現実に私たちの周囲で起こり、祖先たちは筆舌に尽くせぬほどの忍従を強いられて来たことが、まるで昨日のことのように浮かび出されて来るのである。
 農民の生活
 これまで、知行所役人の非道さとそれに対する農民の姿をとり上げたが、次に別の文書からその様子を見てみよう。
 年貢上納に差詰まった農民が子女を奉公に差出し、その身代金(給金)をもって金納した例も数多く見られる。「奉公に差出した以上、御家風通りに勤め、もし年季中に不都合があった場合その一切のことは身元引請人に於いて処理し、病気も三日を除いて長煩いとなったときは引き取ること」などを内容とした証文によって厳しくその身柄を拘束された。その給金としては一カ年で二両から三両前後が多く、仮に「一石一両」という米価で換算してみても、現在では一〇万円前後の金額である。たとえ衣・食・住の最低保障はされていようとも、その労働条件からみていかに低賃金であるかがわかる。
 次に風俗的な面から生活の一端を見ることにする。
 
   持参金田畑一札之事
一、今般貴殿肝煎(きもいり)を以、清兵衛殿息女とせ我等女房に貰受候ニ附、金子廿両田畑五反歩別紙反別帳面被相添、慥ニ預り置候処明白なり。万一不縁之儀ニ而親元ニ帰節は、右添来金子田畑反別帳とも、貴殿ニ相返し可申候。為後日持参金一札親類証文連印を以差出し可申処如件
   天保八酉年吉祥日                           親類 清兵衛
                                      惣代 清吉
                                      証人 清治郎
   媒人
     長兵衛殿
 
 これは、婚礼に当たり持参金として二〇両と五反歩の田畑を預かったが、万一不縁となったときにはお返しするという証文である。
 次のは、養女としての縁組が成立したときの証文である。
 
   為取替申養子女一札之事
一、我等娘里よ事、仲人郡内殿肝煎を以て、其許養女ニ進せ申所相違無御座候。為樽代と金子四拾両遣し筈。此訳金子拾両は婚礼の切相渡し可申、又金子拾両は子ども致出生産立之砌り相渡し可申、残金廿両は初之節句ニ相渡し可申候。
右金子を入、養女ニ進せ候上は、此方よ里違乱妨申儀は少も無御座候。千(ママ)一里よ儀御家風背き候儀、亦は我侭等仕御気ニ入不申儀有之候ハヽ、何とも御勝手次第ニ御執斗(とりはからい)可成候。為後日取替一札仍而如件
   年号月日                               実父 茂左衛門
                                      証人 伝左衛門
                                      媒人 郡内
    養父
      藤右衛門殿
 
 ここでは、婚礼のときに一〇両、子供出産のときに一〇両、その子供の初節句に残金二〇両を、分割して渡すようになっているが、このようなことが慣習としてあったようである。