多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧中村

南並木・中村新田(みなみなみき・なかむらしんでん)

路傍の小祠・石宮など

 道祖神 光明寺を出て、南中方面へ通ずる町道を行くと、坂上の左折する地点に道祖神が西面して祀られている。字墓前一〇一〇番の場所である。二基あってその一つは五〇センチのもので「元文五庚申年(一七四〇)十二月吉良日」の年号が読める。他の一つはこれよりやや低いが幅が広く、昭和三十九年六月に南並木区として奉祀したものである。共に疣取りに効能ありとされ、借りた石で疣を撫で、治ったらその石を倍にして返すという風習は、他の例にも見られることである。そのためか、この周辺には玉石が無数にある。同所には椎・樫の古木の下に鳥居があり、手洗石が二つ置かれている。その一つに「奉納 安政六未(一八五九)七月日 飯田金左衛門」とあるが、他の小型のものは無刻である。
 芭蕉句碑 道祖神わきにあるのが芭蕉の句碑である。高さ九〇センチ、横七六センチの板碑状のもので、「雲おり/\人を休る月見哉 はせ越(芭蕉)」と刻まれている。そして裏面には、
 
  奉納 芳薫亭梅堂 秋陽庵蘭香 千音
     雙鳥 雲道 森月 扇凮 橘堂
     山月 露枩 白葉 聲々   
     杏斉
        天保十二辛丑(一八四一)孟春
                       石工 儀助
 
と奉納者俳人たちの雅号がある。
 前林荘輔碑 この句碑から北進すると、三、四〇メートルほどのところから道路西側に墓石が林立している。字大谷台一〇〇八番の一から同二にかけての場所である。昭和二十七年十月に建てられた「太平洋戦争戦没者記念碑」あり、筆子中による建立の「飯田長右衛門墓碑(俳号秋陽庵嵐紅・芭蕉句碑にその名が見える)」あり、「馬頭観世音菩薩 大正四年四月二十六日」あり、という中に、中村小学校初代校長、連合村戸長から中村の初代村長に就任し、永年にわたって村政に尽力した前林荘輔の碑が立っている。
 正面に「妙法 玉寿院梅香日粧居士 玉粧院妙操日艶大姉 門弟中」と夫妻の法名があり、左側面には「玉粧院姓江波戸氏匝瑳郡共興村東小笹江波戸保兵衛長女名絲 玉寿院之配也 明治二年四月来帰 三十四年八月十八日病没 行年五十一歳」と、夫人について記されている。
 そして右側面に刻まれているのが、村岡良弼撰・並木栗水書になる碑文である。ここにその全文を記録する。
 
     前林君寿壙碑
                                 散位 邨岡良弼撰
君名栄盛通称荘輔前林氏以弘化四年正月生于総之香取郡中村 考名弥助妣行方氏世為里正 君幼頴敏執贄平山元徳並木九成二氏 業已成開塾授徒多出孝弟力田之人 明治八年拝中村小学助教尋兼校長十五年転戸長帯校長及学務委員如故以臻今日 云君守軄匪懈蒞下如隠人各居業絶無争訟所謂無而治者邪学校之壮道路之修足以観其用心之深 官賜物賞功前後凡十数次可謂栄矣 頃者門人疋議将営寿壙以紀其恩謁 予為文乃拠状銓次其梗概如此
   明治三十五年七月上澣
                                 栗水 並木正韶書
 
 なお、これに補足して『香取郡誌』における一節を付記しておきたい。
 
――明治二十二年町村制発布より三十八年五月八日に至るまで、任期四期の間継続選挙せられて村長の職に在りしは郡中亦稀れなる所なり。随て其村治に尽せし功績も少からず村人の称道して已まざる所なり。
 
 前林氏については当編の各所に、旧中村の歴史と共にその名が見られる。
 宇兵衛碑 この前林氏寿壙碑からも墓石の列は続くが、その中に、前記芭蕉句碑の奉納者筆頭に見える俳人芳薫の墓碑があり、「本家飯田市郎兵衛 分家三代飯田宇兵衛」の刻字が読める。紀年等は刻まれていないが天保のころと推測される。筆子中によって建てられたもので、そこに「辞世」の二句がある。
 
   娑婆ゆくと 今日越目出度
                 可那
   面白き浮世と 
        宿りか南
            蕉門俳家
              四世坊社中
              芳薫亭
 
 ここに刻まれた「分家三代飯田宇兵衛」とは、多古藩主松平氏に漢学を指南したといわれる「宇兵衛」その人である。
 なお春日神社西方五〇メートルの路端には、国土地理院が測量の基準とする三角点があり、海抜三四・二メートルとされている。
 また、これは地上の造物ではないが字塙の山中に、その昔田畑荒らしの不届者を懲らしめるために掘られたという、直径一メートル、深さ三メートル程の穴がある。後には死んだ牛馬を捨てていたようで、そのことからか「斃馬捨場(そますてば)」と呼ばれている。
 中村新田墓地 この並木台地を下って国道二九六号を越え、中村新田の集落東方約二〇〇メートルの所(字亀子五三番)にもと火葬場としても使用した墓地がある。いうまでもなく新田開拓に入植した人々のものであるが、延宝六年(一六七八)、元禄二年(一六八九)、宝永二年(一七〇五)、正徳三年(一七一三)などの年号が見られる。そして草分けの一人である印藤氏の墓石には「南中村新田者延宝元癸丑年也 村初之人 印藤市右衛門 元禄十三年」とあり、開拓の始まりが延宝元年(一六七三)で印藤氏はその当初からの入植者であることを示している。
 また同所には元禄二年(一六八九)の年号を刻んだ寺田氏の墓石があるが、印藤二軒、高野・鈴木・板倉各一軒ずつ、合わせて五軒の開拓者と共に寺田家もこの一員として参加したものであろう。なお、同家の墓石は前記大谷台の墓地内にもある。
 このように、各所に点在する小祠・石塔・墓石などから実に多くのことがらについて示唆を受けるわけであるが、さらに新しい史料が見つかり、そのことによって当地方の歴史がいっそう深められて行くことを望みたい。