多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧中村

南並木・中村新田(みなみなみき・なかむらしんでん)

 旧中村の他集落と同じく、仁賢・武烈両天皇に仕えて功績のあった物部小事大連が匝瑳郡を建てたころ、既にこの地方一帯に集落が形成されていたであろうことは多くの人が知るところであるが、仁賢・武烈帝といえば、四八八~五〇六年のころである。
 しかし、それ以前にも隣接の南借当集落に見られる如く、景行天皇東征に際しての「膳臣」にまつわるいい伝え(一二三年ころ)もあるので、古代期の人たちがその時期に生活していたであろうことも容易に理解される。
 また、『姓氏録』に「中村連(むらじ)は天乃古矢根命の後也」とあるが、同命の子孫がいた所であろうか。さらに古くは、栗山川沿岸中村新田のすぐ近くからは丸木舟の出土があり、これは二千年以上も前の縄文時代に、人々がその生活を営んでいた証明といえる。
 大宝三年(七〇三)七月、上毛野朝臣男足(かみつけぬあそみおたり)が下総国司に任ぜられて以来、当地方は物部匝瑳連足継、其の子匝瑳連熊猪、孫の匝瑳宿袮末守などが代々功を立て、陸奥鎮守府将軍となり治世に当たっていたといわれている。
 後、戦国時代に入って世は群雄割拠の混乱が続くのであるが、高望王の子平良将・良文の所領となったときはその支配を受け、また、「将門の乱」(九三九~九四〇)においては将門に、忠常による「長元の乱」(一〇二八)では忠常にと、それぞれに所領されるところであった。
 千葉一族の内紛
 治承四年(一一八〇)九月、源頼朝が安房で挙兵して上総へ入ったとき、上総目代(国司の代官)を下総介千葉常胤に命じて討たせた。このことを知った千田庄の領家判官代千田親政は、軍兵を率いて常胤を襲おうとしたが、かえって常胤の子成胤に捕われてしまい、千田氏の所領は常胤へと移ることになる。そして六代を経て宗胤(千田太郎)、その子胤貞へと受け継がれていった(このことについては地域史編他項との重複がある)。
 胤貞の時代、中央では建武二年(一三三五)八月足利尊氏が挙兵、京都を出て北条時行の兵を鎌倉に破り、新田義貞を討つとのことで鎌倉に拠った。一方朝廷では新田義貞に命じ、尊良親王を奉じて尊氏を襲わせた。
 このとき胤貞は、尊氏に味方して相馬親胤と共に、従兄である義貞方の将下総介貞胤の居城(千葉城)を城主貞胤の不在に乗じて攻撃している。
 この後も千葉氏同族間の争いは続くのであるが、中央の戦雲急なるをもって、胤貞は千葉城の攻撃をすてて鎌倉にはせ参じ、十二月には新田義貞を破ったのである。そして尊氏に従って西上して行くことになる。
 翌建武三年(一三三六)七月二十七日、土橋城で千葉一族の戦いが起こった。今度は貞胤軍が攻め寄せて来たのである。そのときの模様について、『金沢文庫古文書』は次のようなことを記している。
 
 ……千葉侍所(貞胤軍)二十七日を以て土橋城に打入り、朝より晩影に及ぶまでさんざんと合戦し、土橋城は落城となった。城内の人々敵が多く力及ばず十二人が討死した。
 大嶋よりも岩部よりもどうしたことか応援が来ず、遂に打落されてしまった。「並木の城」ももとのように千葉方で築き立てた……。
 
と。
 さて、土橋城は陥落したが、これをもって両派の戦いは終わったのではなかった。主将の不在中に拠城を奪われた大隅守胤貞の留守軍は懸命に勢力の挽回をはかったろうし、千葉介貞胤の遠征軍は「並木城」を修築し、ここを拠点として対抗したといわれる。

並木城址

 しかし貞胤は義貞に従って北国に下り、途中で遂に節を折って足利氏に降ったから、そこで千葉同族間の紛争も解消することになる。同じ一族で、しかも従兄弟という関係でありながら対立し、深刻な争いを続けていた二人は、ここで数年ぶりに和解し本国へ帰ることになった。それは、下総においてはまだ続いていた動乱を鎮めるためであった。
 しかし、大隅守胤貞はその帰国の途中病にかかり、三河国美濃に留まって療養につとめたが、十一月十九日(二十九日とも)に没した。四十九歳であった(千葉大系図)。
 胤貞の死後、並木城は貞胤の所領に属し、氏胤・満胤・兼胤とその支配が続いたが、康正元年(一四五五)八月、千葉宗家の胤直・胤宣父子が原胤房によって千葉城を焼打ちされて土橋城に逃れ、父子ともに自害し果てた争乱のとき、留守を預かる武将たちもここで千葉氏方となって戦い、敗れたのである。
 このことは、「中村砦」にいた同族の中村但馬守が馬加氏に亡ぼされた(郡誌)とする年代と一致することからも、おおむね間違いのないものと思われる。
 ただ、飯土井付近における戦いには、この後も文明十年(一四七八)三月に千葉一族の内戦があり、多古城から宮川に出陣して戦闘があったこと。明応二年(一四九三)四月、坂田城が足利・里見の軍勢に攻略されて城主木内胤敬が討死したこと。さらに下って天正十年(一五八二)ごろ、多古城主飯土井氏と飯高城主平山刑部とが飯土井沼において数次にわたって戦い、その後牛尾胤仲が飯土井氏を亡ぼして多古城主となること(山室譜伝記)などがあるが、並木城にいた飯田右衛門、弟弾正ら十余人が討死したといわれる飯土井の合戦は、天正のそれと思われる。
 この飯田右衛門兄弟は千葉氏家臣飯田三左衛門の子孫で、代々並木城警備の武将であって、惜しくも討死ということであるが、他の一族が戦いの後もここに住み、武を捨て農に帰したものであろう。いわゆる並木十二軒党と呼ばれる人たちである。
 天正の後徳川氏の支配となるに及んでは土井利勝の領地となり、寛永八年(一六三一)転封の後は代官支配地として土方掃部頭・保科弾正が守護であった。松平豊前守勝義が江州より移って多古の地に八千石を領したのは同十二年(一六三五)十一月であるが、以来明治に至るまで松平氏所領が続いた。
 中村新田の生いたち
 「中村新田」については次の古文書によって当時の様相を知ることができる。貴重な記録であるので、ここに全文を紹介し多少の補説を試みたい。
 
   乍恐以書附を御訴訟申上候
一、下総国香取郡中村新田之儀、御公儀様へ御運上谷地に御座候。延宝元年丑之年(一六七三)御公儀様へ奉願御新田被仰附有奉存候。
 延宝三卯年(一六七五)御検地申受、高百拾七石余、此内六拾八石八斗七升六合ハ新田訴訟人ニ被仰附、同高四拾八石九斗余本村百姓へ被仰附候。今年迠御蔵入ニ而御年貢御上納申候御事。
一、中村新田之義、地免(面)谷地ニ御座候処、地免悪敷(あしく)御物成出来不申、其上栗山川辺にて、年々水損之場所に御座候故、親田壱畝歩も無御座候ニ付、他所江出作仕候。種等も他所江卸申候。殊ニ畑方壱畝歩も無御座候。依之地面不相応之悪場ニ而御座候処、此度御給所江相渡し申儀、惣百姓迷惑仕候御事。
一、御新田道普譜・河掛・居屋敷普請等土砂之儀、新田開発之砌里(り)御公儀様江奉願、並木村根方山土砂取候様ニ被仰付、今年迠自由ニ土砂取来申候。此儀も御給所ニ罷成候得者、何と可申哉、以之外ニ惣百姓迷惑ニ奉存候。
一、新田場用水之儀、唯今迠者嶋村谷地よ里、樋水ニ掛取来申受、旱魃之時分者川水堰上用水仕来申候。此儀も御給所ニ罷那里(なり)候ハバ、脇村よ里如何可申候哉、是亦惣百姓迷惑仕候。
  右之通里御新田之儀、只今迠御公儀様以御慈悲御新田之用儀仕来申候処ニ、此度御給処ニ相渡里申候ハヽ、新田之儀立兼可申と、惣百姓迷惑ニ奉存候。以御慈悲先寄之通り御公儀様御蔵入ニ被仰附下候ハヽ難有奉存候。
  委細之儀者御尋(ノ)上口上ニ而可申上候。以上
   元禄十四年(一七〇一)                        下総中村新田
 
 これによると中村新田は、公儀(幕府)へ運上(租税)を差し上げる谷地であり、延宝元年(一六七三)に公儀に願って「新田」を申し渡され、三年後の延宝三年に検地を受けている。
 石高は一一七石余で、そのうち新田百姓分は六八石八斗余、本村百姓分は四八石九斗余と定められ、元禄十四年(一七〇一)までは天領へ納める方法で年貢の上納をして来ているのである。
 以下その実態と、農民たちの訴えをもう少し明らかにしてみよう。
 
一、中村新田は地面が谷地で悪く、地租を納めるにも作物が出来ず、その上栗山川辺で毎年のように水害を受ける場所であることから、親田の一畝歩もなく、他所へ出作をしています。種子も他所へ卸しており、殊に畑については一畝歩もなく、この土地はまことに悪い場所であるところ、此の度旗本支配に渡るとのこと、惣百姓は迷惑しております。
一、新田の道普請や、河川・住家の普請に要する土砂については、新田開発の際公儀に願い、並木村の「根方」から山砂を取るようにいわれ、今年まで自由に取って来たが、このことも旗本領になればどうなる事か――。もってのほかと迷惑に存じます。
一、新田場の用水については、これまで島村谷地より樋を用いて貰い水をしており、旱魃のときは川水を堰上げて用水として来た。このことも旗本領となれば、他村からどのようにいわれることであろうか。これまた百姓達は迷惑なことであります。
  右のように新田は、今まで公儀の御慈悲により(天領として)、やって来られたのですが、此の度旗本領に渡ることとなれば、「新田」としての諸様が成り立ち兼ねるものと、百姓は困惑しております。
  お慈悲をもって、今までのように御公儀様蔵入のやり方を仰せつけ下されば、有難く存じます。
  詳しいことについては、お尋ねのとき、口上にて申し上げます。
 
 注を要するまでもなく、当時の実態と訴えの内容が容易に理解され、特に天領から旗本領へ所属の替わることを極力忌避している様子がうかがえる。しかし、結局は旗本知行所となるのである。いずれにせよ、当時の領地支配・検地石高から土地の様子、生活のしきたりなどをここに知ることができる。
 右のことや口伝などによると、中村新田は延宝元年(一六七三)に印藤氏二軒が上総国鳥喰(とりはめ)村(横芝町)から移住したことをその起源とし、二八年を経て支配領地の移動などもあり、後に高野・鈴木・板倉の各家が加わって永年五戸であったが、昭和二十一年ごろ鈴木家より分家があり、現在は国道沿いの三戸を含めて九戸である。なお、板倉家は戸籍上の関係により飯田姓となっている。
 古老の言として、「印藤氏の遠祖は千田をその故郷とした武士で、当地方の多くの武士がそうであったように北条氏に属していた。小田原で北条氏が滅亡の後、海岸通りに逃れて千田へ帰ろうとしたが、既にそこは徳川勢力下となっていたため入ることができず、上総の鳥喰村に住むようになった」とあり、千田へ祖先の墓参に行く老人たちの姿をよく見かけたという。
 また、中村新田開拓以前は島村にいたともいわれるが、現在も島集落の墓地にその墓石があり、さらに、当集落の墓石は島から移したものであるとの伝承がある。
 いずれにしても、用水を樋水として貰っていたほどの親密な関係のある両村である以上、多くの面で、深い結びつきのあったことは事実である。
 これら開拓者の意気込みは旺盛で、たちまちにして一戸平均五町歩余も開墾し、さらにその手を伸ばして来たことから並木の村人は恐れをなし、幅二メートル、延長は栗山川までの約六〇〇メートルの堀を、一夜のうちに総動員で掘り上げてしまった。「これから先、この堀を越えて来ては相成らぬ」という訳であろう。これを「一夜堀」といったが、前記耕地整理のとき、一つの物語とともにいまは消えた。
 中村新田について特記すべきことは、集落全体が旧湖沼地帯の中にあって低地のため、毎年のように床上浸水などの被害を受けていたことである。河川改修工事によってその度合いは少なくなったが、昭和四十五、六年の両年にわたる水害に当たっては、当局の避難命令によって町の公民館にその難を避けたものである。このころから、県に対して集団移転を申し出てその援助を求めたが実現できなかった。ただ、それに代るものとして集落全体を嵩上げする工事が施工され、すでに第一期工事は完了。続いて二期・三期の工事が予定されている。
 このように水難の災いはあったが、当集落と栗山川は不即不離の関係であり、日常生活に用いる水はすべて栗山川の水であったし、人々の経済を支える手段としてもこの川が利用された。すなわち漁業と水運である。いうまでもなく水泳禁止となるような汚染された川であったろうはずはない。
 歌人若山牧水が多古の鰻をこよなく賞味し、度々来町したとのことであるが、その鰻はこの栗山川で獲れたものである。この川を上下する船も大きなものがあり、舳の一部に台所・座敷・寝室を兼ねた部屋を持つ水上生活者の姿も見られたという。
 
 「葦切りや 笊で米磨(と)ぐ 船の女(ひと)」
 
この句は、当時の様相をたくみに描写して詠みあげている。