多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧中村

南並木・中村新田(みなみなみき・なかむらしんでん)


 

 国道二九六号が集落のすぐ直下を東西に走り、そこに八日市場・多古間の国鉄バス路線の「南並木」停留所がある。降り立って諸方を見渡すと一望の田園風景が見られる。
 その昔、借当川と合流する栗山川流域一帯が湖沼地帯であった地形の面影を今なお留めながら、美しい水田耕作地帯となり、丸木舟や縄文土器の出現で知られる「中村新田」がその中にある。そして、大堀・吉田・篠本・船越方面を経て本町中心部にかけては、緑濃い自然に恵まれた丘陵が連なって見える。
 北側を見ると、そこは突出した一部島状の台地となっている。これが「南並木」である。家並みは、平坦地に大部分と、斜傾地を利用しての幾軒かが、ゆったりした余裕をもって建てられている。
 さらに坂を上ると道祖神があり、そこからは一面の畠地となって「南中」へと続いていく。この道路では明治末期ごろまで草競馬が行われ、両側に桟敷を設けて酒盛りなどをしながら見物したという。これは道路両側の畠からの畝歩が出過ぎないようにするために強く踏み固めたものであるといわれている。
 西方「並木城」跡も今はおおむね耕作されて平坦な畑地となっており、その昔武将や農民がさまざまな想いを込めて歩いたのであろう道路も、どれがそうであるのか判然としない。このあたり一帯の標高は三四・二メートルである。
 伝承によれば、最初にこの集落に住み着いたのは飯土井の戦いから逃れた一二軒であるといわれ、春日神社付近には現在も屋敷跡を示す区画が残っている。同所に墓地があり、そこの下総式題目板碑には「永享六年(一四三四)」の年号が刻まれている。
 ここの戸数の変遷は、現在見られる資料によると次のようである。
 宝永元年(一七〇四)に七面大明神を建てたときの寄付札によると四四戸。次いで弘化二年(一八四五)の『関八州取締役』の控帳によると、
 
  高 弐百八拾五石六斗四升弐合 南並木村
  家数 六拾軒
     内
   高 弐百拾九石七斗五升七合  松平相模守領分
   家数 三拾七軒
   高 三十四石八斗弐升八合   西尾小左衛門知行
   無民家持添
   高 壱石五升七合       大森勇三郎知行
   同
   高 三拾石          日本寺領
   家数 弐拾三軒
   高 百弐拾弐石弐斗弐合    谷新田村・永井監物知行
   家数 弐軒
 
となっている。
 また、慶応元年(一八六五)春日神社の本屋を新築したときの棟札には「四十七戸の鎮守神」とあり、そして現在の世帯数は五八戸。二九一人の人口のうち男は一四六人、女は一四五人となっている。
 なお、地目別の面積は次のようになっている。(ともに、昭和五十九年十月現在)。
 
  宅地  五町五反五畝
  田   四三町七畝
  畑   一二町六反七畝
  山林  七町七反
  原野  四反七畝
  その他 一町五畝
   計  七〇町五反三畝
 
 一つの集落のうち八割が飯田姓で、他に前林・寺田姓がこれに続き、「並木の集落に並木の姓がない」などといわれている。
 丘陵突端から南西に目を転ずると、国道二九六号をはさんで数百メートルのところ栗山川沿いに、小さいながらも旺盛な活動力をもって知られた「中村新田」が見える。
 延宝元年(一六七三)の開拓といわれ、当初は印藤氏二戸のみであったが、現在は次のようになっている。
 
  宅地  七反八畝
  田   一五町一反三畝
  原野  九反九畝
  その他 九反七畝
   計  一七町八反九畝
  世帯数 九戸
  人口  三九人 内男二二人 女一七人
 
 人々の生活を支えている基盤は農業であり、その経営形態は他地区のそれと同じといえよう。この農地の江戸時代における米の収穫量は前記のとおりであるが、周囲一帯が極端なまでの低湿地帯で、当然ながら深田も多く、棒杭を田の底に沈めて足がかりとし、胸のあたりまでの水藻を払いながら、または田舟を使いながらの農作業、そして洪水や旱魃に悩まされての生活は想像を絶するものであったろう。さらに、水利をめぐっての争いには流血の惨事までおりまぜながらも、農民達は一粒でもの増収を悲願に懸命の努力を続けて来たのである。
 次の文は、昭和二十八年に当地区の耕地整理事業が完成したとき、南並木耕地整理記念碑の序文に柴田等知事が「本土地改良区々画整理の竣工に当り、これが経緯を刻み、本事業の因由と先覚者の功績を永遠に記念する」として寄せられたものであるが、当時の様子を知る一端にもなろうかと、ここに転載する。
 
 抑々当耕地は東西に借当川、西方に栗山川をめぐらし東西に繰り展げられた平坦な水田地帯にして、往時よりこの地は用排水に恵まれず、特に用水確保の一策として借当川中流に取入口、通称並木堰を設け僅かに引水し、かろうじて農耕を継続して来たのであるが、累年に及ぶ旱魃は農業経営に非常なる困難と不安を与え、加うるに東北方丘陵の湧水量遂年減少の一途を辿り、殊に太平洋戦争が熾烈を極めるや、激化せる軍用材の供出は、この地帯に対する唯一の水源たる山林の乱伐となり、旱魃の憂いは必然的に増大された。
 この危極に直面するや、郷土を熱愛する先覚者は、これが原始的耕地を最善の工夫と努力により近代的耕地たらしむべく、大いなる決意と勇気を以て、旱害恒久対策の樹立と合理的農業経営の基盤たる区画整理・用排水施設の完成によって、単作地帯を二毛作耕地とし、農村文化の向上と国家再建の基礎をなす食糧増産を期すべく、総合開発の精神に則り、本事業の着工に全精魂を打込むこと久しきに渉る。この先覚の烈々たる郷土愛に燃ゆる七十八名は、衆力を統集し万難を克服、目的貫徹に全力を傾倒したのである。
 斯くして六星霜、逞しい農魂と先駆者の努力は遂に此の大事を成し遂げ、ここに理想的耕地の実現を見た次第である。