多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧中村

北中(きたなか)

人物

 村岡良弼(よしすけ)
 弘化二年(一八四五)二月十日、北中四十二番屋敷(現在の字谷津一一一九番地)に渋谷義孝の次男として生まれた。幼名を利助、また五郎といった。

村岡良弼翁


村岡良弼略系譜

 以下翁直筆の略歴書を主軸にその生涯をたどってみることにする。
 まず嘉永六年(一八五三)八歳のとき、飯高檀林に入って僧侶の修業を始め、翌安政元年(一八五四)に剃髪して名を日敬・泰神と改めた。以来四年の間法華玄義・文句などのほか儒典を学んだ。
 安政五年(一八五八)江戸に出て二本榎・朗惺寺の住職日度のもとで仏理を学び、そのかたわら薩摩藩士水本成美(樹堂)に儒道の教えを受け、書を一橋家臣鈴木成斎に習った。水本氏での同門に紀州の陸奥宗光、薩摩の川路利良、上総の中村義利などがいる。同六年(一八五九)朗惺寺が本門寺派の触頭になったとき、役僧上席となって、寺社奉行からの指令などを同派寺院へ通達することを扱い、文久元年(一八六一)四月に師の日度が没した後も次世日視に仕え、引続き同様事務を執っていたが、十月に駒込の蓮久寺に移り、日薩から天台宗の宗義を学ぶ。同二年(一八六二)水本氏に詩文を学ぶことに加えて姫路藩士奥山菫に儒学の教えを受け、この年の十月から飯高檀林の内史の役を依嘱されて、春秋の二カ月檀林において仕事をした。
 元治元年(一八六四)十二月、武州奥戸の妙法寺住職となる。十九歳のときである。慶応元年(一八六五)上野・越後・信濃・甲斐・駿河の諸国を巡り、旅行記『断金録』を書いたが、明治元年(一八六八)に胸を患って奥戸において静養することとなった。
 同二年正月、二十四歳にして意を決して還俗。祖先が鎮守府将軍平良文であり、この良文が相模国村岡郷に住んで村岡姓を称したことにちなみ、その二十九世の孫でもあるところから、姓を村岡、名を良弼と改め字を賚卿(らいきょう)とし櫟斎(れきさい)と号した。四月に昌平大学明法科に入学(特待生)して和漢の制度律令を専攻したが、十一月に政府より刑部史生に任ぜられ、新律綱領編修にたずさわることになり、やむを得ず大学を去る。そして明法博士岡村甕谷の塾に寓して公務の余暇を学問に費した。翌三年五月、中博士箕作麟祥の塾に転寓してフランス書を学び、西法と国法との比較研究に当たった。
 同四年八月に司法省が設置されて同省権中録となり、九月に明法寮権少法官に任ぜられて修志局附に補せられ、上世以来の刑制沿革を纂録する。同六年刑法沿革誌編修局長となり、四月十四日浜松の田中よしと結婚した。二十八歳のときである。
 同七年一月長崎裁判所勤務となり、在勤中池原香穉・坂本秋郷について和歌・古文を学んだ。
 同八年五月二級判事補となり十二月に東京へ帰任。同九年一月司法大録に昇任して刑法編修に参与することとなったが、同時に伶官(音楽を演奏する官史)辻高節について音律を学び、笙(ふえ)・箏(こと)・琵琶(びわ)を修めた(後、明治二十六年に大曲(雅楽曲で格式の高い曲)を伝授された)。同十三年三月に太政官一等属となり法制局に勤務、法令の起案などに当たった。そしてこの年正七位に叙せられた。
 同十四年十一月参事院御用掛を拝命、奏任官となる。同十五年参事院議官補となり、同十六年御手元編纂委員を兼ねて大政紀要を纂録し、同十七年二月図書寮御用掛を兼務し帝室に関する古制を類纂した。現在の『図書寮記録』である。この年市ケ谷に新居を建てた。
 同十八年十二月に参事院が機構改革のため廃止となったが、同二十年内閣ができて記録課長となった。このとき維新以後における政令類纂の総裁として、『法規分類大全』を後世に残した。瑞宝章を賜ったのもこの年である。そして同二十五年七月願によってその官を免ぜられ、官界を退いたのである。四十七歳のときであった。
 翁はいつも、わが国における地理書誌が不充分なことから、明治七年以来、得るところの余財を投じて諸書を購入し、公務のかたわら研究に当たってはいたが、ここで職を辞して著述に専心することになったわけである。初志を抱いてから三十年余を経た同三十七年に、和装七十二巻の『日本地理志料』を完成させた。
 続いて六国史中で脱漏などが特に多い『続日本後記』の訂正にかかり、同四十五年にこの作業を終わり、世に問うた。この著を賞し、学界に対する功績が顕著なゆえをもって、大正二年七月、帝国学士院賞と恩賜金千円を受けたが、院賞発足の翌年で、第二次の賞賜者となったわけである。
 同五年四月に亡父の三十三回忌に当たり、前年病んだ病後にもかかわらず郷里へ帰って法要を営み、帰京後同年秋から再び病勢が改まった。そして翌六年一月三日ついに帰らぬ人となったのである。七十三歳であった。
 翁の著述した主な書は次のとおりである。
 
  日本地理志料 七十二巻
  日本書紀定本 三十巻
  続日本後紀纂詁 二十巻
  文徳実録纂詁 十巻
  法制志 六巻  楽器考証 九巻
  渋谷譜略 一巻  安房国神社志料 一巻
  下総国荘園考 一巻  上総国神社志料 一巻
  北総諱史 二巻  北総人物志 三巻
 
 このほかに二四書があり、校正した書目としては、香取文書纂一八巻、下総旧事考一五巻、ほか六書がある。
 これら著述および多年にわたって収集された蔵書類は、戦災による焼失を懸念した遺族によって、第二次大戦末期にそのほとんどを香取神宮へ寄贈されたということである。
 翁が死去の二年前、おそらく余命の長からざりしを知ったとき、自撰の碑文に筆を執った。遺稿ともなったその文を次に掲げ、先碩に合掌したい。
 
村岡良弼字賚卿号櫟斎本姓渋谷後改今氏。考(父)諱義孝妣(母)勝間田氏。弘化二年二月十日生下総香取郡中村。幼遊江戸受業樹堂水本先生。明治二年入大学修明法科兼講邦典、其十一月承乏法官與撰新律綱領、尋修刑法沿革志。十三年任参事院権議官叙正七位。十六年兼内廷修撰大政紀要。二十年転内閣記録課長賜瑞宝章、彙輯維新以来制度法令即法規大全是也。
二十五年辞官専力著作、書凡数部其地理志料最致思者。曽有水戸定公嘱修国郡志大日本史至是完矣。四十五年奉旨復出校訂六国史蔵在秘府前此続日本後紀纂詁成、学士院為奏賜賞牌及金千円。吁庸愚與時乖所為于此可愧已。
孺人(妻)田中氏名禧子、征夷府奥詰銃隊士諱重威之女也。嘉永元年八月二十五日生江戸駿河台、明治五年来帰于余、為人貞順勤倹自持克治内政慈愛及物。挙三男一女倭文(シズ)殤、長美麻(ウマオ)大学生先歿、仲安(ヤスシ)陸軍歩兵大尉、嗣季良臣(ヨシミ)掌典補、別成家。
今玆乙卯営寿壙於京北染井之原、建石誌之。良弼時年七十一禧子年六十八。
   大正四年歳次乙卯十一月
                                         平朝臣良弼自記
 
 金村検校(かなむらけんぎょう)
 「検校」とは、室町時代になって盲人の最高階級者に付せられた名称である。
 第五十八代光孝天皇(八八四~八八七)の皇弟人康親王は二十八歳のとき視力を失い、翌年親王号を辞して仏門に入り法性禅師と称した。生来詩歌管絃を好んだところから、山城付近から筋目正しい瞽盲(ごぜ)を呼び寄せて管絃を事とし、これらの盲人に対して、同禅師がその所領である親王領での貢米・物成を賜ったのである。そして光孝天皇が仁和二年(八八六)に、親王法性禅師に近侍した盲人達に検校・勾当(こうとう)の官位を授けたことをそのはじめとしている。
 室町時代には明石覚一という平家琵琶の名手がいて、光厳・崇光天皇の叡聞に達するところとなり、検校・別当・勾当・座頭の四官を十六階に分かち、また七十三刻(きざみ)として、この覚一を総検校に任じて斯道を総宰せしめた。
 元禄年中(一六八八~一七〇三)から江戸と京都に検校を置き、江戸に住んで関東の盲人を支配する者を総検校、京都におけるそれを御職検校と呼んだ。これは享保十一年(一七二六)になって京都が総検校、江戸が総録検校と改められた。当時江戸では七~八〇人の検校がいたといわれ、この位は当然のことながら人物・技芸によって授けられた。
 金村検校は北中字谷津二六番屋敷(現在は一九八番地)に渋谷利兵衛恒三の三男として生まれ、幼名を文松といい文長と改めた。金山検校の門人となって姓を金村に改め、金山検校の娘を妻として江戸八丁堀に住んだ。
 検校職にある者が金融業にたずさわり、金貸しをしていたことは世に知られたことであるが、金村検校もその例に洩れなかったようである。資本金を提供しようと、田畑山林を売却して用立てた一族の中には、その後の棄損令によって家産のすべてを失った者もいた模様である。
 検校文長については、古文書関係の資料が少ないため多くを記すことはできないが、天保九年(一八三八)四月二十日に死去。深川浄心寺に葬られた。三十九歳であったという。なお、故郷谷津の一一四四番地にある墓石には「圓體院殿金村前[検校]明静日證大居士 天保九年四月二十日」のように刻まれている。
 そして、次のような文書があり、免許を受けた内容を知ることができる。
 
    裏組目録
   雲上曲 薄衣曲 桐壺曲 八段 乱
   新曲 御季友曲 花宴曲
   右之曲並口伝五ケ条令免許畢
                                  長谷川検校 印
    天保九年戌年(一八三八)六月廿四日
    金村 おひさ殿
 
 この「おひさ」とは、文長検校の兄東湖の二子で、後に文長の嗣となって江戸長谷川町に住んだ金兵衛文種の妻のことである。もう一通の目録には次のように書かれている。
 
    中組目録
   須磨曲 明石曲 末松山曲 空蟬曲 雲井朗文 九段 七段
   新曲 玉髪曲 橋姫曲
   右之曲並口伝五ケ条令免許畢
                                  長谷川検校 印
    天保十亥年(一八三九)八月十三日
 
 金兵衛文種のあとは養子恵之助文教が継ぎ、次いで光吉文雄となりその子孫は町内に現存している。
 渋谷嘉助(かすけ)

渋谷嘉助翁

 ここに一通の文書がある。
 
今回我渋谷家の祖 平朝臣重吉ノ三百年祭ヲ執行スルニ当り 中興ノ祖第七世良重及先考第十一世重匡 先叔忠昌ノ祭典ヲ併セ行フノ記念トシテ 別紙目録ノ通り中村財団法人ニ寄附致度候間 可然御処理相成度 此段及御願候也
   大正十年四月十五日
            東京市日本橋区本石町一丁目二十四番地
                        渋谷嘉助 印
  千葉県香取郡中村長渋谷藤次郎殿
   目録
一、第一回四分利公債証書 額面拾万円也
  但中村財団法人へ基本金トシテ寄附
    寄附ノ方法及希望
一、前記額面拾万円也ハ本年ヨリ向フ五ケ年間ニ毎年額面弐万円ツヽヲ寄附シ 仝期間内ニ得ル毎年ノ利子ヲ以テ 其都度仝公債証書ヲ購入スルコト
二、五ケ年満了ニ至リ公債証書ノ総額面拾弐万円ハ即チ基本総額ニシテ 之ヨリ生スル利子ノ壱割ハ基本金ニ組入レ 残余ハ規定ニ依リ使用スルコト 以上
 
 中村基本財団の設立
 説明するまでもないが、渋谷嘉助が「財団法人中村基本財団」を設立して、一〇万円をその基金として寄付しようと、当時の村長渋谷藤次郎(嘉助の甥)に宛ててしたためた書状である。
 渋谷氏はすでに他の項にもあるように、常陸大守葛原親王(桓武天皇第三皇子)を祖とする氏族で、代々将軍家の武将として多くの功績を残しているが、重吉の父重知は天正十八年(一五九〇)六月三日、小田原において討死をした。このとき重吉はわずか二歳であったが、後年当地に移り住んで里正(村の長)となり、子孫も代々里正となっている。
 略系図を示すと、次のようになる。

 

 「中興の祖第七世良重」は玉造の秋山氏から養子になった人であるが、多古松平氏から称氏帯刀を許され、里正を二一年間勤めている。持高も三百八十石と増やし、詩歌雅楽の達人でもあった。
 父権之助(重匡)も里正となったが、金村検校に対する投資と棄損令によって、持高は相当に減っていたようである。叔父(後の養父)忠兵衛(忠昌)は既に江戸にいて銃砲火薬商としては五指に入り、諸藩の御用達を勤め、郷里への援助も多分なものがあった。
 次に、前記のような趣旨によって設立された財団が、どのような内容でどのように運営されていたかを述べてみる。
 まず定款の第一章第一条総則に
 
東京市日本橋区本石町一丁目二十四番地平民渋谷嘉助ハ 四分利公債証書額面十万円ヲ提供シ 生前処分ニヨル寄附行為ヲ以テ財団法人ヲ設立ス。
 
とあり、次いで主要条文をみると、
 
   第二章 目的
第二条 本財団ハ千葉県香取郡中村ニ於ケル公共事業ニ資金ヲ寄附シ 又は貧困者ニ救助ヲ与ヘ 且ツ広ク国民教化ノ事業ヲ助成スルヲ目的トス
第三条 本財団ハ其ノ目的ヲ達スル為メ 左ニ掲ケル事業ヲ執行ス
 一、教育費ヲ寄附スルコト
 ニ、天災地変ニ因ル貧困者ヲ救助スルコト
 三、兵役応募ニ因ル家族ノ貧困者ヲ救助スルコト
 四、鰥寡孤独(かんかこどく=男やもめと後家とみなし児とひとり者)又ハ疾病ニ因ル貧困者ヲ救助スルコト
 五、渋谷嘉助奨学並ニ社会事業資金ヲ設立スルコト
 六、前各号ノ外 理事会ノ決議ニ依リ必要ト認メタル事業
   第三章 名称
第四条 本財団ハ 財団法人中村基本財団ト称ス
   第四章 事務所
第五条 本財団ノ事務所ハ 千葉県香取郡中村北中九十一番地ノ一渋谷文庫内ニ置ク
   第五章 資産及会計
第六条 本財団ノ資産左ノ金品ヨリ成ル
 一、設立者渋谷嘉助ノ提供セル四分利公債証書額面十万円
 二、財産ヨリ生スル収益
 三、其他本財団ニ於テ取得スル財産
   第六章 役員
第十六条 本財団ニ理事五名監事一名ヲ置キ 理事ノ内一名ヲ理事長トシ 理事及監事ノ任期ヲ五ケ年トス 但再任ヲ妨ケス
第十七条 理事及監事ハ設立者之ヲ選任シ 理事長ハ理事が互選ニヨル 最初ノ理事長ニハ渋谷嘉助之ニ当ル
第十九条 理事長ハ本財団ヲ代表シ諸般ノ事務ヲ総理シ 理事会ヲ招集シテ其議長トナル
第二十八条 本財団ニ評議員十二名ヲ置ク 評議員ハ理事会ノ決議ニヨリ理事長之ヲ嘱託ス 評議員ノ任期ハ四ケ年トス 但再選ヲ妨ケス
第三十四条 評議員会ノ議長ニハ 評議員中ノ年長者之ニ当ル
   第七章 附則
第三十九条 本財団ノ存立期間ハ中村ト存続ヲ共ニシ 中途解散セサルモノトス
 
 これらのことがらと、次の五人の名前が理事として大正十一年七月二十七日に登記されている。「東京市日本橋区本石町壱丁目弐四番地渋谷嘉助 香取郡中村北中九壱番地ノ壱渋谷今助 仝村南中壱八〇九番地平山亀之助 仝村南借当四参五番地三枝桂次郎 仝村南中壱七四〇番地柴田有一郎」。
 次に収支の面からその活動状況を見てみよう。まず収入であるが、これは一〇万円の公債から生ずる利子(四%)の四、〇〇〇円がその主なもので、他に預金利子、社会事業助成奨励金がある。
 これを、基本金が満額になった大正十五年度を例にみると、公債利子四、〇〇〇円・預金利子一四四円三九銭、社会事業助成奨励金三〇円、前年度繰越金二、七九三円九四銭。合計は六、九六七円九四銭である。
 支出の主なものは「窮困救済費」三〇六円、「基本財産積立金」四〇〇円(公債利子の一〇%)、「教育費」一、二三六円(小学校機械代・正門階段及井戸修繕費等)、「建碑費」一、五〇〇円、「報恩費」二七五円(玄米二〇俵代)、「特別積立金」三、〇〇〇円などで、その合計は六、八一〇円七六銭となっている。
 ちなみに、大正十五年の米価を調べると、一俵につき一二円七〇銭(右の「報恩費」玄米二〇俵代金によって計算すると、一俵当たり一三円七五銭)となっているが、現在の米価によって換算すると、どのような金額になるであろうか。
 初年度からの決算書も保存されているが、その中で時代の移り変わりを思わせるものの一つに「入営出征兵餞別費」がある。昭和三年に総額で四〇円が支出され、その後十一年に七〇円となっているが、これが第二次大戦の端緒となった翌十二年には四三〇円、十三年が三〇二円であったが、その額は次第に多くなり、十八年一、〇〇〇円、十九年一、七〇五円、終戦時の二十年には七〇五円であった。これは現役志願兵(一人二〇円)、出征兵(同一〇円)、徴用挺身隊員(同五円)にそれぞれ支給されたものである。
 その他、大正十二年に一、三〇〇円と同十三年に一、二〇〇円の役場庁舎新築寄付金、昭和二年から設けられた村費寄付金として毎年五〇〇円から一、六〇〇円、同十四年に図書館費(臨時)として六、三七二円、同十九年には三、〇〇〇円が青年学校へとそれぞれ寄付されている。
 また、道路費、貯水池設置寄付、優良団体奨励費などの項目があり、公共的な面についてもいかに大きな貢献をしているかがわかる。
 さらに、教育については前述の他にも相当の額が毎年予算計上され、財政的援助を続けてきたのであるが、別に「財団法人中村檀林記念奨学会」を大正十四年十一月十九日に設立させた。これは「立正大学々生中より 道心堅固学業優秀の者を選抜して之を教養化育するを目的とす」の趣旨によって発足したものである。
 そして、渋谷嘉助理事長、日本寺清水竜山住職(後の立正大学長)、渋谷今助理事らが主として運営に当たり、額面一万円の五分利公債証書をもってその基本財産(五、〇〇〇円)として「日本寺住職の推せんと立正大学長の証明とに依り選抜して、毎年若干の学資を給与しその修業を指導監督」するようにしたものである。
 法人としての登記は大正十四年十二月二十三日になされ、事務所を南中の中村檀林内に置いて、所期の目的達成のために着々とその歩は進められていったのである。なお財団運営についての諸会議に当たって、その出席者は紋付・羽織・袴を着用したということである。
 このように、村民の期待と尊望をもって運営されてきた中村基本財団も、終戦と共に迎えた戦後の混乱期に入ってからはその活動も衰え、昭和二十年度決算書(同二十一年三月三日現在)の貸借対照表によると、一二万四五一一円五六銭の額が総合計として記録され、また中村檀林記念奨学会については、その受託者である三井信託銀行の同二十一年三月三日現在の残高証明書によると、一、二九六円八銭となっており、それ以後は、両法人とも登記簿上には存続しているが、活動の諸記録は残されていない。
 渋谷嘉助の生涯 以上のように、私財をもって財団を設立し、教育の振興と福祉援助を主柱に、公共に対して多大の貢献をした人・渋谷嘉助は、どのような生涯を歩んだ人なのであろうか。次にその概要を記してみる。
 嘉助は、嘉永二年(一八四九)七月二十六日北中村三九番屋敷(現在の谷津一一三一番地)で生まれた。父は里正を勤めた渋谷理左衛門重匡(権之助)、母は上総国飯櫃村名主木内伊衛門の二女きそである。兄弘次郎、姉やそに続く次男である。
 文久二年(一八六二)十四歳のとき、すでに江戸京橋八丁堀高代町において小泉屋の屋号を持ち、銃砲火薬免許商五員の一といわれていた叔父忠兵衛を頼って上京、同家に商業見習いとなったのであるが、小泉屋には、後年同じく実業界で活躍し、親交の深かった男爵大倉喜八郎(その妹はつは忠兵衛の後妻となった)が修業中であり、後に明治四年二月からは弟の捨吉も年季寄留となっている。その後、苦労は他人の家でという叔父の言葉に従って、麻布飯倉の荒物屋へ住み替え、間もなくそこを誰にも告げることなく立ち去るのである。そのとき嘉助は懐中に天宝通宝銭二枚を所持していたのみであったという。
 そしてこれから十数年の後に病床の父の前で叔父と再会するまでの間が、多くの逸話を生んだ放浪の時期であった。
 明治四年編制の北中村戸籍帳を見ると、「三男嘉助、二十三歳。文久二戌年東京八丁堀高代町小泉屋忠兵衛方江年季寄留中出走、行方不相分」とあって、「脱籍」の処理をされているのである。
 昭和七年に発刊された『渋谷嘉助翁伝』によると、黙って立ち去った嘉助は、商業を志すからにはその中心地である上方へ上ろうと、大阪を目指して旅に出たのである。途中行きずりの山伏夫婦に危機を救われるなどのこともあり、小田原藩御旗奉行渡辺三右衛門に拾われて、その軽輩として禁裏蛤御門の警固に赴く主人と共に京都にたどり着いた。
 やがて武家の勤めを辞して大阪へと移るわけであるが、以後は博徒との付合いあり、土工人夫頭の生活ありの有様であった。明治五年阪神鉄道建設の事業に当たっては、工夫監督だけでなく、一部を請負っての仕事もするようになっている。
 克苦して多少の資金を得ることができたところで、明治九年に商業を大阪に営むこととなり、以後は順調に発展していったのである。これが二十八歳のときのことであった。
 故郷を出て既に十数年、未だ錦を飾るとまではいかないが親を想う情を抑えることができず、同年秋に帰郷したところ、父権之助は病床にあり、叔父忠兵衛もこれを見舞っていたのである。嘉助は不孝を詑びて最後の孝養に努めたが、十二月十三日に父は不帰の客となった。
 このとき、実子のなかった叔父忠兵衛に請われてその養子となり、小泉屋の後継者として以後の生涯を送るわけであるが、その内容は後記の頌徳碑文に刻まれているので、ここでは重複を避ける。
 いずれにせよ実業界における躍進は目覚ましいものがあり、同時に郷里からの多くの人材を育てている。そして後になって生まれた忠兵衛の実子権之助(嘉助の父と同名)に社主の座を譲ったのである。
 祖先崇敬の念の強い嘉助は、故郷の名刹日本寺境内に祖先・父母の塋域を新たにして、大正十年五月十五日に供養の大法要を営んだ。参列者に郷党の名士を網羅し、首僧として京都尼五山一寺である村雲尼公を迎えるという盛大さであった。
 実業家としてだけでなく、民生の福祉に力を注いだ功績に対し、大正八年五月には中村議会の決議に基づいて表彰の式典を挙行。地方富豪の範であることを政府にも認められて、昭和二年十月二日には紺綬褒賞受賞の栄誉に輝き、従六位を賜った。
 故郷中村に対する篤行は言い尽くせぬものがあり、その功をたたえ労を謝する意味から頌徳碑を建て、後世にその名を知らしめようとの企が村議会において可決されたのも当然といえよう。
 その碑は、高さ一丈二尺五寸(約三・八メートル)、幅八尺(約二・四メートル)厚さ一尺(三〇・三センチ)で、重量は五千貫(一九トン弱)という巨大さで、石材は甲州産山崎石である。そして、篆額は子爵渋沢栄一、撰文を文学博士三上参次、揮毫が林経明という第一級の人たちによって碑文が完成した。その工費は六、一二〇円余で、大正十四年十二月五日の村議会の議決より三年を経て、昭和三年十一月二十五日に竣工の式典が挙げられた。
 この碑に顕彰された嘉助の胸中はもちろんはかりしることはできないが、万感胸に迫る思いであったには違いない。それから一年二カ月あまりたった昭和五年二月五日、八十二歳の天寿を全うし、嘉助は逝った。
 碑は黙して語らないが、そこに刻まれた翁の心は、五十有余年を経た今日もなお郷里の名刹日本寺に、いつまでも揺らぐことのない姿でわれわれを見つめている。
 ここにその頌徳碑の全文を載録して翁の冥福を祈りたい。
 
   振風育徳
     澁谷嘉助君頌徳碑
       正三位勲一等子爵 澁沢栄一題額
 澁谷嘉助君、幼時父君に従ひて太閤記を読み、慨然として言へることあり。豊太閤は尾張の中村に生れ我れは下総の中村に生ると。此の語甚た簡なりといへとも其の意極めて深し。後進の人唯此の一語を聞くも、亦似て発奮するに足るゝものあらん。
 接するに嘉助君は、其の系鎮守府将軍平良文より出つ。良文七世の孫重国源頼朝に仕へて功あり。武蔵の渋谷に居り因って以て氏とす。将監重知に至り天正十八年小田原に戦死す。子修理助重吉下総中村に遁れ、遂に此に留まり後推されて里正となる。子孫職を伝へ以て第十一代里正理左衛門君に至る。理左衛門君木内氏を娶り、嘉永二年を以て嘉助君を生む。木内氏は上総の名族にして、故貴族院議員木内重四郎氏の宗家なり。
 嘉助君幼にして明敏胆力あり、夙に大志を懐き年甫めて十一、強ひて父に乞ひ江戸に出でて叔父忠兵衛君の家に居る。忠兵衛君は銃砲火薬を鬻き諸侯の用達を務む。時恰も幕末に当り海内多難なり。忠兵衛君機を察して大に家業に励み、兼ねて意を人材の養成に注く。故男爵大倉喜八郎氏の如きも、始め其の指導を受け銃砲の業に従ひ、以て成功の基を成しゝなり。
 君既に忠兵衛君の薫陶を得たりといへとも、家名を揚けんと欲するの念勃々として禁する能はす。上方に趣きて為す所あらんとし、元治元年忠兵衛君に告けす小田原藩士の従僕となりて上京す。尋いて仕を辞して大阪に奔り困頓流離備に辛酸を嘗む。然れとも難に処して弥々胆を練り、境に応じて益々智を琢く。明治五年阪神鉄道建設の工事始まるに及ひ、工夫監督の事に従ひて材幹を認めらる。幾もなくして自ら工事の一部を請負ふに至り、その名、儕輩の間に重んせらる。時に年二十二なり。既にして稍資金を得たるを以て、明治九年商業を大阪に営みて亦頗る其の産を殖せり。
 初め君の江戸を出つるや、僅に天保通宝二枚を懐にするのみ。未た錦衣を故郷に飾る能はすといへとも、異郷に在ること既に十余年に及ひ、思親の情転に切なるものあり。此の秋帰省したるに恰も父君の病篤きに会す。君深く奉養を欠くの罪を謝し、枕頭に侍して懇に湯薬を進め頗る最期を慰めたり。此の時忠兵衛君に懇請せられて其養嗣子となる。
 是より鋭意家業に従事て陸海軍御用達となり、後選はれて銃砲火薬商組合頭取となる。「ダイナマイト」の始めて我邦に輸入せらるゝや君最も力を尽し、先づ故男爵古河市兵衛氏の足尾銅山に試用して効力を認めらる。乃ち其の普及に務めて遂に各地鉱山に利用せらるゝに至れり。明治三十七、八年戦役に際し爆薬の需要大に起るや、君竊かに人を内外各地に派して辛苦して之を蒐集し、以て我軍に供給せり。抑君は営利の業に従ふといへとも、苟も事の公益に関するものに至りては、常に損得の外に超然たり。日清日露両役に於ける尽力の如きは之を證するに足れり。
 君又陸前大船渡湾に大石灰山を有す。湾口に珊瑚島あり頗る景趣を添へ、風浪を遮断して自然に良港を成す。加之、湾内水深く大船巨舶直ちに岸壁に繋ぎ得へし。是を以て運輸の便は石灰質の美と相須ちて、今や年産実に数万頓に及ふ。而して珊瑚島は久しく君の所有に係る。然れとも君は、是れ天の沿岸赤崎大船渡両村民に賜へる所なり、個人の占有すへきに非すとして之を両村民に与へ、公園としての設備を整へて其の共有行楽の地と為さしむ。両村民積年漁区の争ありしも是より呉越の感自ら絶え、此の島永く融和の楔子となれり。此の措置の如き、亦以て君の性格の一面を見るべきなり。
 君又深く心を教化慈善の事に用ひ、屢々学校寺院等に義捐して紺綬褒賞並に其の飾版を賜はる。殊に力を郷里の啓導に尽し、文庫の設立、旧檀林日本寺の擁護、道路の修繕、其の他郷党の福祉を増進する為めに万金を投して吝む所なし。常に以為へらく、子の今日あるを得たるは真に祖先の恩に依ると。
 是に於て大正十年、其の三百年法会を修し養実父母の追善を営み、同時に中村は祖先の墳墓の地なるの故を以て、金拾万円を寄附して中村基本財団を設定す。乃ち利子の一部を以て救恤奨学等の費に充て、他は之を蓄積して鉅資となるを待ち、以て大に殖産興業の用に供し、又大学を設けて人物を養成し、社会の各方面を救済せんとす。其の志洵に遠大なりと謂ふへし。郷民の君を仰くこと師父の如くなるも亦偶然ならさるなり。
 君今玆齢八十。強健尚壮者を凌ぐものあり。是に於て郷民君を寿し、碑を日本寺の境内に建てゝ君の徳を頌し、其の事績を後に伝へんとして文を予に需む。
 惟ふに一郷の風気君の為に振興せらる。郷民建碑の挙は一に君の恩に報ずるものなり。既に報恩の心あり、進みて皇上の恩に報じ国家の恩に報ずるも、実に此の心に基かざるなし。此の心特に今世に於て尊むべしとなす。况んや後人、此の挙に依りて君の言行を知るを得て、必ず感奮興起する者あらんとす。是れ予が喜びて碑文の請に応ずる所以なり。
   昭和三年九月
                          臨時帝室編修官長正三位勲一等文学博士 三上参次識
                                      従六位勲六等 林 経明書