多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧中村

北中(きたなか)

宗教/神社・寺院

 さきに、牛尾胤仲が当寺を祈願所としたことを述べたが、それ以前の有力な支援者に壺岡城主平山氏のいたことを記さねばならない。
 武蔵宰相日奉宗頼の後裔が、平山姓を名乗って宮の壺岡城にいたことについては、既述の項との重複を避けるためここには詳記しないが、十三代後の季信について平山家系図は、「左衛門尉 日擁入道 居中村壺岡城 属北条氏小田原 食邑十六貫二百二十八文 相州入西郡 武州多摩郡平山村 下総中村」、「西郡 日原 平山三箇所ニ 下総中村郷松山近辺 壺ノ岡二箇所」と記し、また同家過去帳に「平山季重七代 左衛門尉季信公 北中村法性山浄妙寺開基祐師之門 法性山草創之君 応安五年(一三七二)七月十日没 日擁上人」
 とあり、浄妙寺過去帳には「当山草創大旦那 応安五年七月十日 日擁聖人 平山左衛門尉 祐師弟子」と書かれてあることなどを見ると、日祐の説法に帰伏した日整が改宗して、寺号を浄妙寺と改めたころに、この季信が大旦那としてその創建を援助したものと思われる。いうまでもなく現在地に移る以前の、法性台の地においてである。
 この後の慶長三年(一五九八)に、飯高檀林講首の日道が身延山に転じ、その後任として日円(慧雲院)が推されたのであるが、日円はその任ではないとしてその身を引き、ひそかに浄妙寺に入った。しかし日円を慕う衆徒たちは当寺に集まり、次第にその数も多くなったので、翌年(一五九九)日本寺に移って講を開いた。これが中村檀林のはじまりといわれている。
 日円は当寺の歴代ではないが、その教理は代々受け継がれていった。
 季信からさらに十一代を経た壺岡最後の城主季邦のとき、帰農して郷士となるが、季邦の弟八郎右衛門尉義高の二子がそれぞれ同寺九世・同十二世の日舜・日充兄弟であり、自らの嫡子季家は同寺の荒廃した様子を見て深く恥じ、その財を投じて復興に努め、今まで絶えていたものを興し、廃れていたものを続けるようにしたという。
 これは、各地に群雄の割拠する戦国の世で、戦火に明け暮れた時代が続き、城主・将兵・農民たちのすべてが疲弊し、菩提寺でありながら今までその補修費用を負担することができなかった、というのが実状であったろう。戦火のおさまった後、武門を捨てた平山氏宗家の季家が、郷土の繁栄を祈り祖先の慰霊のためになした供養であるともいえよう。
 十二世日充については「日充聖人墓所」に記述してあるので省略し、九世日舜にまつわる挿話を紹介しよう。
 すなわち、ある夜日舜が堂上で読経しているとき、堂の後にある樫の木の下で、光明を放ち、同師の声に合わせて経を唱えるものがあり、そのことは毎夜のように続いたのである。檀越の平山季邦や村民はその不思議なことを師に問うたので、村民に命じて掘らせたところ、金銅の多聞天(毘沙門天)、吉祥天、禅尼童子三像が出現したという次第である。
 このことを古文書は、次のように記している。
 
   毘沙門天王金銅像記
当山毘沙門天・吉祥天・禅尼童子者土中出現之像也。先師日舜或夜在堂上誦経于時、堂後  下放光明師同音声、為諷誦妙典毎夜也。檀越魁平山右衛門尉法号光伝及村民甚怪問、師曰有 下必神人可掘焉。即村民命而令掘、乃得金銅多門天・吉祥天・禅尼童子像焉。師乃新荘厳安之永為寺鎮而已。  相伝有徳 道為上人也。
  追加
東照神君及大久保氏等、有故尊信於当山天正年中見賜御朱印。寺主日憲命而令祈国家安全武運長久焉。師 此尊像為祈願也。
 
 そして、同寺過去帳には「当山九代 平賀十四世 日舜聖人 出現多聞天 寛永元甲子(一六二四)七月廿九日」。
 同じく歴代譜には「平賀十四世也 充師兄也 此代多聞天出現」と、それぞれ多聞天が土中より出現したことを記している。なお日舜は後に山口防府本因寺の開山となるが、不受不施僧であった。
 平山氏は、季邦の嫡男季家が後を継ぎ、里正を勤めて同寺の復興に力を注いだ。その子供たちが長じてそれぞれ「五軒党」を称するようになるが、五男は出家して了遠院日寛といい、当寺の十四世となった。そして過去帳に「平山季家五男法性山十四世住 塔中浄性院初祖 号了遠院 延宝六年(一六七八)十一月六日 五十二歳化」とあるように、塔中(塔頭。山内の寺院)の初祖となっている。この浄性院は前記のとおり七世日肇のときに建てられたものである。
 日寛の弟(季家の八男)が了寂院日然で、同じく過去帳に「平山伊兵衛季家八男 沢蓮寿山真浄寺十四世 貞享三年(一六八六)八月二十三日 五十一歳化」とあるが、真浄寺は平賀本土寺の末寺で、不受不施法中として当地方における中心的な寺院であった。
 これまでの平山氏についての系譜を略示すると次のようになる。

 

 続いて日念・日逮を経て十七世日詮は、回向料として長町田地を寄付。十八世日竜は日本寺玄講でもあり、法性台に松木一万本を植えた。十九世日明は京都本法寺三十世・中山本山六十五世の歴代で、この代に書院を建立し日祐師本尊を寄付している。
 次の二十世日清は「号遠成院字友弁 田地寄附 玄関建立 納金十両」と歴代譜に記されているが、天正のころ当地方を侵攻して峯の妙興寺に制札を下した房州里見家臣正木大膳の後裔であるという。そのことについて次の文書を見てみよう。
 
当山廿世嗣法遠成院日清聖人者美濃州岐阜之産矣 父曰正木弥五左衛門早遁世落髪改喜月院宗永日随 其先者曰正木大膳即房州里見家是也 委出甲陽軍第十五巻 其子曰正木弾正尾州清吹之城主織田信長公招之為旗下 居于同国里小牧邑於斯弾正終討死 爾後妻厭其憒乱携幼稚之男子 移于濃州岐阜養育 累歳長曰正木藤左衛門 其曽孫所謂宗永翁是也
 数代帰吾宗深信法華矣 于玆宗永翁幽居于岐阜 見山谷之風景楽清閑読和漢之史翰 友古人偶読 書和解宿因所薫 頻有感謂数万読誦之行我難及于上古伹是生信 為澆季亦不可劣 即誓信吾如金剛読誦以期死自 従是来無敢他業常専読誦 毎欲読誦先奉請当厥日番神禱 無故障練行功積毎日読誦二十五部 累年重月一日無廃曽極堅固梗概如斯
 享保第六歳次辛丑二月十四日無異平日読誦之半如眼而寂 春秋八十有一焉 凡所記部数九万六百五十五部至終焉 年無記其数将開結之読誦妙経之書写唱題之部委不記之矣
 一時日清聖人語予曰 斯二通之書者亡父宗永翁筆以欲蔵廟塔下 予曰惜哉虚埋土中 若当山収之永為至宝者後来経一見輦非但結勝縁復生信進行若爾者其功莫大者乎 依之不得固辞認于一軸永為什物 庶幾後哲永々勿失之云爾
   寛保元辛酉年(一七四一)十月日
                               下総国北中村法性山浄妙寺
                                    二十三嗣法 日貞(花押)
 
 この文書によって正木氏系を図示すると次のようになる。

 

 日清とその父宗永についての文書を残した二十三世日貞については、「字順我号本是院 京都本法寺並本山歴祖」と記されているが、本法寺三十三世・中山本山七十世・日本寺九十五世を歴任し、明和元年(一七六四)十月十四日に六十七歳で没している。
 この日貞のとき、後世に残る大事業がなされた。それは梵鐘の鋳造事業であるが、特にその鐘銘は古今の史書にも知られ、広く賞讃された銘文である。
 まず撞鐘の注文と請負ったことに関する文書を見ると、
 
   撞鐘之注文
一、口指渡弐尺五寸   撞鐘壱本
  仕様上々銅ニ極上  錫壱割弐分たし土銏三分たし可申候 但寸法之儀御注文之通大方相違無御座候様ニ可仕候
    惣貫目百五拾貫目附
    代金六拾弐両弐分ニ相定申候
     内手付金五両慥ニ受取申候
 右之通随分入念 好能鋳立可申候 尤不出来之候ハ何ケ度も鋳直し御意ニ入申候ハヽ相渡可申候 尤其節請合証文相添差上可申候 且又鐘鋳立日限来二月十五日迠ニ出来差上可申候 為念如此ニ御座候以上
                                  神田幡町鋳物し
                                        粉川市正
   亥(一七四三)正月十九日                          同 久左衛門 印
    浄妙寺様
    平山三郎兵衛様
    同 庄左右衛門様
一、金三分      撞鐘鈎鐘 壱本
   右者随分重目仕差上可申候
 
と記されているが、直径七五センチ、重量五六〇キログラムをそれぞれ超える梵鐘は翌月完成し、代金六二両二分を支払ったのである。そのときの文書は
 
   撞鐘請合証文之事
一、口指渡弐尺五寸   撞鐘壱本
    此貫目百五拾貫附
    代金 六拾弐両弐分ニ相定
右之通鋳立差上申候 則代金不残慥ニ請取申候
此鐘拾ケ年之内万一鋳疵等出来仕候歟 又音悪敷罷成候ハヽ 何時成共其鋳手間並ニ足銅等一切不請申 御存分ニ急度鋳直シ差上可申候 其節一言之儀申間敷候 為後日請合証文 仍而如件
                                    神田幡町鋳物師
                                         粉川市正 印
                                         同 久左衛門
   寛保三年亥(一七四三)二月十八日
  下総国北中村
      浄妙寺様
      平山治兵衛様
      同 三郎兵衛様
      同 庄左右衛門様
 
とあって、一〇年以内に疵(きず)ができたり音が悪くなったりした場合は、手間賃や追加金など一切無料で改鋳するというわけである。
 このようにして鋳造された梵鐘の鐘銘は、学問的にも高く評価される内容を持つものであり、当然のことながら当寺の由緒縁起にも深く触れているので、ここにその全文を原文のまま再録する。
 
   法性山浄妙寺鐘銘並序
 下之總州香取郡法性山浄妙寺者 草創年舊興法逾盛矣 竊尋厥開闢昔者聖武皇帝遙聞鑑真風範 遠遣僧於大唐国招彼和尚 天平勝宝之年鑑真應勅與使僧来 帝深歸仰創立戒壇於東大寺王臣衆庶始受毘尼 天平宝字年中鑑真遊履諸州 爲到當国建二精舎曰中村東耀寺曰土橋村東漸寺也 而後鑑真還于南京遂取滅於招提蘭若厥後多歴載月
 永仁年中當寺主名法印了整東漸寺主名宥整而捨律宗忽成密徒 貞和二年正中山第三祖日祐上人在安久山村盛談 諸宗無得道之法門 當寺了整發憤構七難撃之 祐上人遂一答釋邪難氷解 自記二十七條之問難以駁 了整茫然不知所云 遂伏祐師信一乗捨邪歸正因迎上人於已精舎供養慇〓焉 上人爲之改名日整改寺号爲法性山浄妙寺 日整即推師爲鼻祖自居
 第二祖爾来傳燈相續至于今日焉 然堂宇稍備未有梵鐘 前住只心院日偏乃發巨欲鎔冶之而有事縁遠移他山不遂其願 當住本是院日貞紹継其志 普募檀縁得銅鐵功自至武州廼雇冶工金鐘不日而成矣 乞銘于余雖辞不聴因作鄙銘 以塞其責銘目
 秋津洲中韙関之東開闢歳舊有古梵宮 山號法性常寂塵空寺名浄妙大法圓通佛寺 稍備只缼鳬鐘聿募檀信佳謨冶工洪器遂成 鯨音最雄下徹黄泉上震蒼穹警條早晩啓衆盲聾 閨床夢驚刀輪苦融聲眞教體善利無窮
                               洛陽大光山廿六葉嗣法大僧都日達謹誌
    施入面々現安後善所志霊魂證大菩提
     維時寛法(保)三年癸亥(一七四三)春二月良辰
                                     當寺現住本是院日貞代鑄造
                                     江戸神田住粉川市正宗次作
 
 この文を書いた日達は、京都大光山本圀寺二十六世であったが、他に同求法院檀林三十三世、同鷹ケ峰檀林四十五世、中村檀林五十三世などを歴任した了義院(運智)日達その人である。
 梵鐘鋳造の大事業を行った日貞に続いて二十四世となった日孝もまた平山氏の出身で、過去帳および歴代譜によると「平山治兵衛定則四男 了光院名玆光 北法性山二十四世 宝暦十二年(一七六二)十二月十四日 六十八歳没」「字玆光正東山首座二老 二王門建立 号了光院」とあり、系図によって示すと次のようになる。

 

 墓石は南中・平山家墓地内の、最後の壺岡城主であった六郎右衛門尉季邦と同じ場所に、隣接して建てられている。
 寛保三年(一七四三)に当山開基日祐の尊像一軸を寄進したときの日孝直筆が保存されているが、それには
 
一、当山祐師開基本尊 一幅
右者拙生登山之砌 宿坊浄光院日普聖人江致談話 方丈特之近習以真浄院願上候処 其趣此方ニ茂相  者之候由 信書早速被下置候 則表具等 営之 永納什宝者也
   寛保三癸亥八月日
                                法性山廿四嗣法 了光院日孝(花押)
 
とある。
 日孝の代に「二王門建立」と歴代譜に記されていることは右に述べたが、仁王尊像の奉安は、二十五世日透のときのことで、次の文書に明記されている。
 
       覚
  一、仁王 御長六尺三寸  弐躰
       代金弐拾六両三分相定
   右之通り不残慥ニ請取相済申候所実証也 為念如此候
 
     宝暦十二年午(一七六二)九月十五日
                   江戸下谷池之端仲町
                    御大仏師 法橋高山 印
      浄妙寺
        日透聖人様

仁王尊像

 六尺三寸とは二メートルに近い高さであるが、この巨大な二体の金剛力士は、二二〇余年を経た今日もなお、変わることのない忿怒の形相で当寺を守護している。
 この日透について当寺歴代譜は、「号妙解院字弁竜 正東山化主(中村檀林一三二世) 二王新造 唐銅宝塔建立 多聞天本社新造 宝殿建立並本社拝殿彩色 赤銅瓦四百卅七枚納ル 寛政三年(一七九一)八月九日寂」と多彩な業績を記している。
 また、同寺境内にある「三十番神」は、日蓮宗を守護する三十の神を祀るものであるが、これも平山氏族によって元文五年(一七四〇)に尊像が寄進され、本殿建造は寛保二年(一七四二)のようである。保管されている棟札には、次のように季光・秀暁・季忠の名が見られる。
 
「南無三十番 当社者平山藤右衛門尉日奉季光 為当山繁昌 家門光栄建立之祈奉安置之三十番神矣 其尊像者秘而宝凾蔵之 自今  之外勿開之 今爰曽孫日奉季忠新奉造 之尊像以安置于 往昔尊像之 敬乞子枝孫葉永保松柏之栄家運門耀進蓋乾坤之久 
「  此祀始祭祀当寺大檀越平山藤右衛門尉
   日奉孫季光孫平山藤右衛門尉
上棟 三十番神[法性山浄妙寺]  (花押)
   日奉秀暁謹奉再興焉
   于時寛保二壬戌年四月仏生日 工匠行木吉右衛門」