多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧中村

北中(きたなか)

 村の開拓を述べるうえで欠くことのできないものに、浄妙寺が現在地へ移る前に建てられていた場所、いわゆる「法性」周辺の開拓がある。八幡社の棟札によると、新しい開墾によって神行が一つの集落を形成するはじまりは天和二年(一六八二)、五代綱吉のときである。
 次は、これより四年後の貞享三年(一六八六)が村創めといわれる大鯉新田の開拓であろう。これについては多大の功績を残し、また当時の責任者でもあった多古藩家老服部与五左衛門の供養碑が、同所本福寺境内に建てられている。
 もともとこの一帯は坂並白貝古墳群に属し、墳丘数六九基を有する地域である。「大鯉坂並」とは、中村よりは大鯉と称し、南玉造よりは坂並と呼ぶ山林の字名である。『下総国旧事考』の中で清宮秀堅は『東鑑』を引用して、「治承五年正月一日戊申(ママ)卯刻、前武衛参鶴岡若宮給。事終還御之後、千葉介常胤献椀相具三尺鯉。(後略)」と述べている。すなわち、この前年(一一八〇)九月に、千田庄の領主千田親政を敗った頼朝から同地を与えられた千葉常胤は、新年の参賀を終わった後の祝賀の膳に、新領地から獲れた三尺もの大鯉を供えたということである。
 このことから大鯉の地名が生まれ、また、南玉造の人たちが「さかな見(み)ん(魚見よう)」と集まって来たことにより「魚見(さかなみ)」となり、それが「坂並」に転化し、ともに大鯉坂並と呼ばれたとの里伝がある。
 前記のように、古墳の点在する原野であって、ときには牧場・秣場などにもなり、明治初年にはなお猪・鹿などが棲息していたようである。その模様を『常磐村旧記』は次のように述べている。
 
 安永三年(一七七四)四月下旬、多古領主松平豊前守勝全殿、領分山倉村原野に猪狩を挙行せり。猪追いの其の勢、領分は勿論方田・川島・松崎・大角・岩部・田部・助沢等鐘太鼓等打ちならし、狩屋の前に陥穴六、七十掘り、其間々に綱を張り、玉造勢は大幟に大文字を書き、山崎・中村も同様。南中村は編笠の上に赤紙にて赤熊(シャグマ=赤く染めた毛髪)を被り、北中村は編笠の留めに藺(いぐさ)の赤熊を戴きけり。猪鹿共五、六頭を狩獲たり云云と。明治維新前後に於ても尚往々猪鹿を獲たることあり。
 
 また、『北中村役日記』には、鹿追いをして取り逃がしたことを、次のように記している。
 
     乍恐以書付奉御届申上候
  一、当二月五日
  一、同三月二日
  右両日村人足にて鹿追仕候処、其節取逃し打留不申候間、此段御届奉申上候。以上
     嘉永二酉年(一八四九)十二月
 
とあるような状況であった。
 次に、開拓で記録にとどめたいのは、明治十八年からその動向があり、大正四年に登記完了となった「御林」と呼ばれていた地帯のことであるが、これについては明細な文書があるので、それに基づいて記しておきたい。
 まず最初、慶応三年(一八六七)六月に、北中村小前村役人一同の惣代として、名主理左衛門・組頭利右衛門の両名が「幕府直轄領の御林・稲葉領の秣場のうちの、雑木部分と空地部分を開拓することによって、耕作地の少ない百姓たちの救済に役立てたい――」旨の嘆願書を提出した。しかしこれは、当時の政状不安のためか許可されなかった。
 次いで明治十八年五月になって、南中村外五カ村連合村戸長前林庄輔は、行方三之丞・押田太右衛門・小川忠兵衛・渋谷金司ら願人代表とともに、「左の土地(前回嘆願と同一地域)を村民の手に依って植林し、三十年の間は苅り取った下草を肥料としたり、枯木などを燃料としたりして農民の収入とする。その期間が経過した後は三官七民の比率に依って配分できるように取り計らって欲しい」との願書を出し、翌十九年五月に千葉県令船越衛によって許可された。その土地は次のとおりである。
 
  字大鯉一三〇九番地
     四町四反九畝五歩
  同  一三二四番地
     八町七反三畝廿五歩
  同  一三五二番地
     七町三反六畝廿四歩
  同  一三五三番地
     二町五畝廿四歩
  字信濃台一三〇〇番地
     一町五反七畝廿二歩
  字徳明一二〇〇番地ノ二
     六反一畝廿歩
 
 全部で約二五町歩に及ぶ地域である。
 さらにこの土地は、同二十三年五月になって、「国有林原野払下願」が林野整理局長に宛てて提出された。その理由に
 
 右国有原野ハ、第一号証乃至第三号証タル納税書ノ如ク、往古ヨリ、本区内ノ共有タル民有地ニ御座候処、明治八年地租改正ノ際、其ノ当時ノ村惣代人ノ錯誤ニヨリ、官有地タルノ届出ヲナシタルヲ以テ、尓来、官地ニ編入罷在候モ、区内ニ於ケル民有地尠キノミナラズ、極メテ枢要ノ土地ナルヲ以テ、明治十九年度ニ拝借ヲナシ以テ植林事業ヲ経営仕候。這ハ、主トシテ区内ニ於ケル公共的事業ノ用材ニ充当セント欲スルノ希望ニ御座候。加之、傍ラ植樹内ニ発生スル処ノ雑草ハ毎年苅取シ、以テ肥料ニ供用罷在候次第ニツキ、実ニ区内一般ノ共用トシテ重要欠クヘカラサルノ土地ナリトス。故ニ永久区内ノ共有土地トナシ、以テ区民カ生活ノ根元ニ供シ度候。
 故ニ一朝、右ノ原野ニシテ永久区内ノ共有タル事ヲ得ズンバ、実ニ区民生活ノ浮沈ニモ重大ノ関係ヲ及ホス義ニ御座候。然ルニ、幸ニモ国有林野法ノ発布セラレタルヲ以テ、玆ニ区民カ協議ノ上、惣代人ヲ以テ御払下ヲ申請スル次第ニ御座候。
 尤モ御許可相成候上ハ、充分ニ植林繁茂ノ道ヲ講シ、以テ区内公共事業ノ目的ニ備置キ、併セテ肥料苅取場ニ供用シ、永久区内ノ財原タラシメントスルノ希望ニ御座候。
 依テ、玆ニ特売ヲ申請スルノ事由ヲ開陳仕候次第ニ御座候也。
 
とあり、地租改正の際の誤りで官有地となったと記されているが、そのようなことは他の各地では見られないことで、それまでの年貢と呼ばれた米の現物納付から、新しく地租税という現金納付に制度が変更され、現金収入の乏しい農民たちができるだけ出費を節約しようとして、その所有権を放棄したのではないかとも思われる。
 いずれにせよ、この土地は北中村の共有地として認可され、明治四十二年一月十九日に全世帯主連名の土地権利書が作成されたのである。
 慶応三年に端を発した部分林の開拓・払下げに関しては、ここまでに四二年間を費しているわけであるが、いずれの事業についてもそうであるように、代表者たちの骨折りは容易なものではなかった。金銭関係を明白にし、請願・陳情に苦労した状況の一端を示すものとして、同三十年十月廿日の「部分林引戻出願入費」が書き残されているが、それには東京・千葉・八日市場への出張の明細が、宿の女中に対する心付けに至るまで記入されており、負担した人たちと金額は次のようになっている。
 
  一金五円  桐ケ谷良助
  一金五円  桐ケ谷巳之助
  一金拾円  小川朋吉外壱人
  一金拾円  押田啓蔵外壱人
  一金五円  渋谷繁蔵
  一金五円  桐ケ谷友右衛門
  一金五円  渋谷弘二郎
  一金五円  行方三之丞
  一金五円  鈴木庄右衛門
   〆金五拾五円
 
 そして次第に開墾は進み、制度上の改革もあってその沃土は私有地へと移り、現在に引き継がれている。
 以上述べたことは、新しく拓かれた土地で、ある程度史料的にも証明できるものであるが、久保についても、もとは平坦な原野地であった山王原(さんのうはら)あたりに小集落を成しており、のち、窪地にある現在の地に移り住んだところから「窪」→「久保」の字名を生んだといわれ、古文書の中にも「窪」の字を使用した例を見ることができる。
 産土社であったといわれる山(三)王神社跡もあり、開墾当時は多数の土器なども見つかったようであるが、現在では集落跡も見当たらず、史実的に実証できないのが残念である。