多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧中村

南中(みなみなか)

宗教/神社・寺院

 墓地わきを通る旧街道に平行して、東側に一本の道があり、この道沿いに並ぶ一群の墓石中に、次の戒名を刻んだ一基の墓石がある。「〓林院了閣信士 文政十二丑年(一八二九)六月十二日」 (〓=〓=〓(オン)・・・恩)
 この墓が、わが国最初の人力車製造業者秋葉大助の祖父吉右衛門の墓である。
 人力車は、明治初年に西洋から渡って来た馬車にヒントを得て、日本橋本銀町の高山幸助、呉服町の鈴木徳次郎、箔屋町の和泉要助の三名が明治三年三月にその製造と営業の許可を申請、許可の後秋葉大助が工場を建て、その製造をはじめたものである。これらの事情について『大日本人名辞典』は、
 
秋葉大助。人力車の発明家・江戸の人・天保十四年高橋南紺屋町に生る。日本橋本銀町の人高山幸助・和泉要介・鈴木徳二郎の三人謀りて人を乗せて挽く車を作りたるは明治三四年の事なり。其形一定せず大抵四柱ありて家根を設けたり。同七年大助之を改良し母衣(ほろ)を付し、発條(ばね)を設け、後世の人車に似たる製(つくり)をなす。蓋し東京川崎間乗合馬車を営業とせしを以て、舶来の馬車の製を参考せしなり。
 
と記している。
 そして後にこれらの発明・製造によって社会に尽くした貢献に対し、それが顕彰されないことを惜しんだ茨城県選出の衆議院議員関信介が、明治三十三年二月十日の第十三回帝国議会においてその顕彰方を議案提出した。その結果、同年三月三日付をもって賞勲局から三名の遺族に対して二〇〇円ずつの賞金が下賜されている。ちなみに、同年の米価は一俵が三円七六銭である。
 この秋葉製の人力車は評判がよく、注文が殺到したため、客はクジ引きで手に入れる有様であったといい、郵便電信局や貴族院・衆議院から馬車・人力車御用を命ぜられて事業は隆盛の一途を辿り、大助も東京諸車製造組合の総代、その他業界の幹事に選ばれるなど、その活躍は目覚ましいものがあった。
 明治二十七年六月九日に病気のため五十一歳で没したが、二代目大助(信二)が同三十一年その後を継いでからも、たとえば同三十四年には五二六〇輛を生産したうちの七五%・三九一〇輛が輸出されている。これは全輸出車輛に対して四五%を占める割合である。
 しかし、最盛期には全国的に二〇万台を越えた人力車も、その後の電車・バス・タクシーなどの交通機関の発達に伴って次第に押され気味となり、二代目大助も経営の多角化をはかり努力したが時代の波には抗し切れず、大正十二年の関東大震災のために銀座の店舗も、本所の工場も全焼という致命的な打撃を受けて以来、「馬車人車製造所」の看板が再び掲げられることはなかった。その後幸運に恵まれることのないまま昭和十八年四月二十六日、六十七歳で亡くなった。
 秋葉家の墓所は東京台東区谷中の本光寺にあり、次のように記されている。
 
 一、是即院法秀日行信士 天明八年(一七八八)正月没 (下総屋忠三郎)
 二、恩輪院領覚信士 文政三年(一八二〇)六月没 (吉右衛門。没年に相違が見られる)
 三、遠量院顕実日成信士 明治十一年十月二十二日没 (助三郎)
 四、大興院円道日乗居士 明治二十七年六月九日没 (大助・富三郎)
 
 また、初代大助(富三郎)は明治十七年十月、養父助三郎の七周忌に先祖の永代供養を行っているが、そのときの墓碑に次のように刻んでいる。
 
  初代 是 下総国香取郡南中邨ノ人 江戸下谷池ノ端ニ住ス(忠三郎・下総屋)
  二代 法 下谷池之端ニ生ル 老後南中村ニ帰住 墓ハ同村檀林日本寺ニ在リ(吉右衛門・車大工職)
  三代 遠 祖先ノ郷里南中邨ニ生レ 青年志ヲ立テ東京ニ来リ銀座四丁目ニ住ス 明治ノ初人力車発明ノ祖人ナリ
       (助三郎・大工請負)
   右三霊永代月牌料 金五拾円納之
     明治十七年十月廿二日
          四代目 秋葉大助(富三郎、江戸生れ、武具・馬具製造業荒井卯八の子で助三郎の養子となる)
 
 いずれにせよ、明治における交通機関として一時はその花形であった人力車にゆかりの人が、この墓地に眠っているのは、いわくのあることといえよう。
 次に、当墓地内には各寺院の例によるごとく多数の板碑が散在しているが、その中で刻字が比較的鮮明で南北朝時代から室町時代初期にかけてのものを挙げてみた。
 
 板碑一
    為一結講衆等七分全得也(後刻「世話人 吉左衛門」)
        (後刻か「妙実」)
  南無多宝如来
       (後刻「一性院宗修日得」)
  南無妙法蓮華経 (蓮座)
        (後刻「春光院妙融日性」)
   南無釈迦牟尼佛
       (後刻「宿高田郷部唐竹林」)
             (後刻「一結」)
   (後刻「従竹林山送古石開眼 廿世日匡代」)
       観応二年(一三五一)十一月日 敬白
 板碑二
           (後刻「施主林氏」)
   右志者為相当経法七ケ年也并悲母同継母
   南無多宝如来     平九郎
              左近太郎
              松御前
  南無妙法蓮華経
              祖父祖母
              内外親類
              成佛得道
   南無釈迦牟尼佛    有縁無縁也
       応永第九天壬午(一四〇二)極月十四日 孝子 敬白
 板碑三
        右為妙 逆修也
       南無上行無辺行菩薩
      南無多宝如来
     南無妙法蓮華経
      南無釈迦牟尼佛
       南無浄行安立行菩薩
         文明十四天(一四八二)二月十日