多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧中村

南中(みなみなか)

宗教/神社・寺院

 総門を入り左手の墓地入口近くに二基の小石塔がある。ともに三〇センチほどのものであるが、その一つがさつの墓で、「妙法 妙真尼 明和五年(一七六八)六月二十三日」とあり、他の一つは「妙法 妙貞信尼 寛延二己巳年(一七四九)十二月廿三日 俗名おさる」と刻まれている。これはさつの召使いさるの墓である。

鏡山おはつ墓

 これとは別に、本堂東側の奥に平面石の碑が建てられていて、「忠婢妙真法尼 通称鏡山をはつ事本名さつ女 明和五年六月二十三日 大正三年四月二十六日建立 正峯山五十六世日寿代 発起人神田八搆総代三須安五郎 東京十搆総代大貫忠次郎」と刻字されている。
 大正の初め、さつの事績と亡くなった地を後世に伝えようとした人々が、この平面石を建て、隣接の小堂に右二基の墓石を移してその保全を図ったのであるが、何故かその関係者に不幸が続いたため、その計画は中止された。それは、自から求めて草深いこの地に隠棲したさつ主従が、もとからの地を動くことをいやがったためであろうといわれている。
 このさつ(お初)を世に有名たらしめたのは、同女をモデルにして作られた歌舞伎狂言「鏡山をはつ」が大当たりしたからである。狂言は外題を「加賀見山旧錦絵」といい、天明二年(一七八二)容楊黛が戯作したものを、人形芝居の薩摩外記座が上演したのがはじまりで、翌年に歌舞伎化して森田座で披露された。
 江戸松平康豊の愛妾お道の方(中老・尾上)の出世を妬んだ先輩中老岩藤は、尾上が間違って自分の草覆をはいたことを理由に、大勢の前で恥をかかせた(草覆を投げつけたとも)。このことを恨みに思った尾上は翌朝自害する。尾上の召使いであったお初はこれをみて、主人が急病だと偽って岩藤を呼び、自害の短刀をもって同女を刺し殺してしまうのである。康豊は主を想う一念からであるとして特にその罪を許し、家に退居させたという。
 この演劇は「御家騒動狂言」の中で、「先代萩」と並んで代表作となり、現代も上演されている名作である。評判が高まるにつれ、特に尾上に扮する役者は興業の当たりを祈るため当地を訪れ、お初の墓前に詣でたということである。
 歌舞伎狂言では右のようになっているが、実際はどうであったろうか。時代考証家三田村鳶魚によると、長州府中藩五万四千石、毛利周防守康豊の江戸虎の門内の上屋敷において、享保九年(一七二四)に起こった事件であり、内容も狂言の筋書きと同じであるという。
 尾上は本名岡本滝野二十一歳。岩藤は本名落合澤池六十歳。お初は本名「さつ」で、毛利氏の支封長門国府中城主毛利甲斐守の小人組頭であった松田助八の娘。元禄十四年(一七〇一)三月三日生まれであるというから、事件当時は二十三歳であったわけである。
 事件後は、その忠節ゆえに罪を許され、「松岡」という名で毛利家奥女中となり、二十七歳のころ神尾某という武士に嫁ぎ、幸せな生涯を送ったということである。
 他の説として、『神奈川平塚市誌』によると、これは同じ時代に、大久保長門守の江戸屋敷で起こった事件で、お初は、平塚宿百姓松田久兵衛の娘「たつ」のことであり、事件後は故郷で暮らし、その墓は現在も市内にあって、
 「安室貞心信女 明和六年(一七六九)十月九日」のように記されているという。
 事件後の生涯についてはこのように各説があるが、当地方には次のように伝えられている。
 主人尾上と、殺した岩藤の冥福を祈るさつ女は、江戸牛込赤城の清隆寺住持日遵に帰依して剃髪し、尼僧妙信と改めた。日遵が妙興寺三十四世として転住するに当たり、多古城主松平氏は妙興寺の檀越であり康豊とは姻親の関係にもなるところから、さつ女にも勧めて享保九年の秋、久保の押田喜兵衛方(日遵は同家の生まれとも)を頼らせた。後に妙興寺境内に庵を結び日夜読経に終始し、この地で六十八歳の生涯を閉じた。その召使いさるも尼僧となりさつ女より先に没したが、ともにここに葬られたということである。
 右に述べて来たことに関する史料としては当寺の『由緒霊宝歴代志』に
 
 一、卅四世 通雅院日遵 誮誦一万二千部 説法千五百座 享保十一丙午十月朔(寂) 赤城清隆寺歴代当山入院ナシ
 
と、むしろ否定的な文面があるだけで、押田家も後年の火災によって古文書類も今は無いが、妙真・妙貞両尼僧の墓をわが祖先同様丁重に回向し続けていることは事実である。
 最後に村岡良弼詠む詩を載せて妙興寺の項を終わりたい。
 
   国侯台
妙興寺、号正峰山。亦巨刹也。永仁中、僧日弁開基上総国鷲巣、後、徙此地。千葉・里見諸氏文書、及、多古藩主墳塋在焉。
   遶堂喬木翠凌
   堪想当年香火紛
   惟有山僧奉遺例
   夕陽空仏故侯墳