多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧中村

南中(みなみなか)

宗教/神社・寺院

 由緒については、元禄八年(一六九五)に二十八世日是が水戸光圀の求めに応じて提出した文書の控えが現存しているので、まずここにその全文を掲げ、概要を見てみよう。
 
   正峰山妙興寺由緒〓礫
 北総香取郡中邨鴻巣台嶺妙興寺者、日蓮菩薩之門人、大阿闍梨越後坊日弁上人開基之道場也。師姓藤原幼名寅丸、父中納言信成卿母官女宮内郷(ママ)。幼而薙染登叡嶽、学成後為峻之富士郡下方瀧泉寺之別当、住越後房因称越後阿闍梨焉。嘗日蓮菩薩延嶽退蔵之後、一日師往討論宗義法幢忽折、終成蓮師之門徒。于玆下方令平左近将監入道行智、鷲巣記曰、瀧泉寺 頂平左近入道行智 別当越後房 行常   法務伊予坊ト有リト云云。     行智悪之訴鎌倉追。弁師師之旦越内記者、助師到南総鷲巣建一宇為一乗道場、長国山鷲山寺是也。師初同富士山日興立迹門旡得道邪義、後 洛之妙顕寺日像上人改皈本迹一致之正義誓状妙顕寺宝庫中今尚存然後来北総大嶋城創一寺、曰正円山妙興寺。嘗初日蓮菩薩弘安二年四月所授与弁師大曼荼羅、安国論草稿、蓮師遺骨、座像釈尊一躯伝曰仏工運慶作、蓮祖肖像弁師作、護持之為寺鎮伝在于今。尓今四百年于玆也。元是一個之本寺而与鷲巣両寺一寺曰。然所以今属正中山流派者、従来正中山者当国旧寺而、此境末派寺院頗許多也。故惣妙興寺掌其指揮由之数通于中山。時移物換法尓而如末寺終録中山末寺之名簿、雖然以同蓮祖門弟故中山無座次亦無諸役 如中山日瑞僧正証蹟。往昔国中兵乱、近来宗義之乱、就荒廃霊宝資貨過半散失、旧記亦亡矣。是故能未詳其来歴集散布諸記聊録其梗概而巳
   元禄八年乙亥(一六九五)六月
 応于 常陽水戸中納言源光圀卿之需集録云
                                     正峰山廿八世日是記
                                          勝光院日耀証之
一、高三拾石      従往古除地
一、境内        凡三千坪
一、塔中        一軒
一、末寺        九ケ寺
一、支配下       廿七ケ寺
   霊宝資財之部   (以下後記)
 
 また、明治時代に書かれた『中村寺院明細帳』によると次のようであり、由緒についてはその内容が同じである。
 
   千葉県管下々総国香取郡中村南中字横宿
                                 法華経寺末
                                 日蓮宗   妙興寺
一、本尊   釈迦牟尼仏
一、由緒   正安二年(一三〇〇)日蓮上人ノ門弟日弁開基ナリ。日弁ハ藤原ノ信成卿ノ孫ナリ。元天台宗ノ僧ニシテ、富士郡下方ノ瀧泉寺ノ別当タリシ時、日蓮上人ハ宗旨建立ノ際ニテ、数々宗義ヲ討論シ終ニ日蓮上人ニ帰伏セリ。依之下方ノ令主・平ノ左近将監入道行智怒リテ、日弁ヲ公場ニ訴ヘ擯逐ス。奥ニ檀徒内記ト云フ者アリ、日弁ヲ助ケテ上総国鷲ノ巣ニ至リ、一宇ヲ建立セシ即チ長国山鷲山寺是ナリ。然シテ後、下総国大嶋城ニ到リ一寺ヲ創立シ、正円山妙興寺ト名ク。其後日弁ノ直弟日忍ナルモノヲ同国中村ニ移シ、山号ヲ改メテ正峯山妙興寺ト名ク。尓来六百年ニ垂ントス。故ニ弘安二年(一二七九)四月日蓮ヨリ日弁ニ授ケラレタル大曼荼羅、安国並ニ日蓮上人ノ直筆ナリ等今ニ当寺ニ存在セリ
一、堂宇間数 間口七間 奥行七間
一、庫裏間数 間口六間 奥行拾間
一、客殿間数 間口九間 奥行七間
一、鐘楼堂  間口弐間 奥行弐間
一、惣門   間口三間 奥行弐間
一、山門   間口六間 奥行四間
一、経堂   間口二間三尺 奥行二間三尺
一、境内坪数 三千百四坪 官有地第四種
一、境内仏堂 壱宇
  妙見堂
   本尊 妙見大菩薩
   由緒 宝暦年(一七五一~六三)ノ創立
   建物 間口六尺 奥行六尺
一、境外所有地
        (別記)
一、檀徒人員  五百人
                                             (以下略)
 
 由緒縁起についての重要な付記・証文などはいずれもその写が保存されており、参考としてその一部を次に収録した。
 
一、日蓮肖像について
 一、祖像口伝
 弁師御孝心深クシテ自ラ彫-刻シテ祖像請ヒ直御点眼ヲ給フ時ニ宗祖点眼シ給イ契約シテノ玉(タマ)ハク、殿ノ孝心予感スル事深シ、故ニ望ニ任セ点眼シテ日蓮カ魂魄ヲ込ル所也。弥々弘法ノ志ヲ励シ廣宣流布ヲ祈リ玉ヘト。祝シテ御持参ノ末廣ヲ賜ハリ、何地何国ノ末ナリトモ此ノ像ヲ安置シテヲワサハ、日蓮カ魂魄此像ニ止リ、法華ノ行者ヲ守護シテ二世ノ所願ヲ成セシムヘシ 云云
                                             日明記
 
二、日蓮御真骨について
   奉伝授大聖人御舎利事
     令知見法華経中仏〓(菩薩)給不存偽候
 右御舎利者、於武州池上荼毘之庭和泉公日法[号円性御房日弁之弟子]、悲歎恋慕之余竊於火中盗取之奉入当山[上総国鷲栖法華道場]畢凡正真之婆羅門、竊納仏舎利於爪中山弘法沙門忍得尊師御骨於火中爰自故、先師日弁以来二代相伝之間安置年久而崇敬日新、雖然任所願成就之旨所令分奉御舎利内三粒、下総国中山法花堂也。且為後輩之疑且為致崇重之誠載誓状之語録之者如件
   暦応二年太歳己卯(一三三九)十一月廿六日
                                        大法師日忍 在判
 依当山安堵立願奉御舎梨之内三粒 中山別当御房之時曰記為後日留之。日忍在判
 
三、立正安国論草稿について
   廿幅物之奥書
 右当本者、御高祖此論御撰作之時ノ御案文ニテマシマシ候由申シ伝ヘ候。然間、御高祖三十七八九之時ノ御筆タルヘク候歟。末ノ半紙紛失不申定テ其時ノ年号、御判等御座アルヘク候ニ、紛失申シ候。無其曲候。御高祖ヨリ弁師ヘ御付属ニ候。弁師ヨリ忍師ヘ御付属ニテ、忍師ヨリ当寺代々相伝申、只今日等頂戴申処也
   弘治三年巳(一五五七)七月三日
                                        行法院日等(七世)
 
四、由緒についての付記・異説
 イ 譲曰、鷲山寺ノ縁起ニハ、滝泉寺塔中四ケノ法務ノ中両人身延ニ行テ討論シ昼夜終屈伏シテ入道行智ヲ改宗セシメントス。行智怒テ四人ヲ責、両人ハ忽ニ真言ニ皈ス、二人ハ不伏、所謂日秀、日弁ナリ。日秀行智ノ怒ヲ恐テ本宗ニ皈ス、弁師不穏終ニ出行スト云云
 ロ 日忍下総ニ居住之事
  御本云、此申状ハ駿河国富士下方滝泉寺ハ日弁重代ノ所領也。法花経ノ故ニ被没収之時給ル此御案文合メ十紙ニテ畢ス、此内半紙アリ、但シ奥ノ三紙ハ別筆ト見ヘタリ、然ルニ入筆裏書ハ御自筆(日蓮の)也
    于時暦応四年辛巳(一三四一)十二月廿日
     於下総国千田ノ庄大嶋ノ城末代記之                日忍 在判
 ハ 大嶋ノ城ト者、船越篠本ノ間ニテ小嶋ト云処アリ、今ハ船越ノ内也。此処ニ円山ト云山アリ、当山大嶋ノ城ニ在ル時ハ正円山ト云ヒ、今ノ峰ニ移リテ正峰山ト改ルト云フ旧記ノ言ヲ以テ考レハ、初ノ正円山モ処ノ名ヲ以テ山号トスル歟。若尓ハ忍師暦応年中最初開闢ノ処ハ恐ハ此今ノ小嶋円山ノ内ナルヘシ。元ト大嶋ナレトモ後ニ訛テ小嶋ト唱ル歟。後日尋問ヘハ大嶋トハ今嶋村ノ事ナリト云ヘリ。若尓ハヤハリ今嶋ナルヘキ歟
    明云、前段ニハ其後峰ヘ移ル其峰ヲ今ハ田胡城ト云 云。若尓ハ峰ト云ハ元ノ田胡ノ城ノ地名ニシテ、峰ノ妙興寺ト唱ヘシ故今 地ニ来テモ峯ト云巨峰山ト云カ、但シ正ク今ノ地ヲ峯ト云カ。不審