多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧中村

南中(みなみなか)

宗教/神社・寺院

 いずれにせよ中村檀林は、その化主が身延・池上・中山などをはじめ、京都本圀寺のほか、各地の本山寺歴代としての交流が極めて深く、宗門最高の学府として多くの碩学・巨匠を輩出、日蓮宗門の隆興に寄与することまことに大であって、教学史上まれに見る足跡を印したといえよう。
 檀林の開講は春秋の二回で、春は二月一日から五月十日まで、秋は八月一日から十一月十日までの百日間である。そしてこの一期間をいずれも一夏といい、一夏ごとに講主の交替が行われるのを例としていた。すなわち、一年に二名ずつ歴代が誕生するわけで、このため他山に比べて歴代の数が多くなっている。
 教授の最高を文能、または化主・能化とも呼ばれ、次席が玄能、あるいは古板頭ともいわれて、共に上人と称された。いずれも一夏ごとの交代制であった。その下に上座部の、一老より五老までの助講があり、講義と同時に諸寺務も分担していた。
 学級の進級は物読み次第といい、名目・四教儀・集解・観心・直談・文句・止観・御書の各部・八階級に分けられており、これらを全部修学するには一四・五年かかったようである。これら講義とは別に、月に三~五回の諸行事・法要式が行われ、学僧として厳しく教育された。
 旧檀林当時の建造物については先述したが、明治四年ごろに売却されたという浴室について、前記平山亀之助の手記は興味深い内容をもっているので、次にその概要を記してみる。
 
 桧木造りで萱葺き、間口八間、奥行四間の建物で、その蒸風呂釜は九尺四面の厚い銅製のものである(五右衛門風呂式に、底から火を焚いて沸かしたものである)。湯気が立ちこもる頃学僧達が集まり、一月に四回ほど入浴したという。
 第一室で着衣を脱ぎ、第二室の流し場で体を洗い、第三室の蒸し室に入るのである。この室は、桧木の四寸角ぐらいの角材をサイの目に組みたてて壁とし、そのすき間から湯気が出るようになっている。ただ湯釜の上には一坪ほどの部分を桧板で張り、直接の熱さを防いだ。そして、その格子造りの縁の上に琉球莚などを敷き、その上に横に寝たりして体を動かし、湯気に浸ったのである。それでも長くは居られず、度々流し場に出て湯あみし、幾度となく入ったということである。
 
 浴室にしてもこのように三二坪の萱葺き造りであり、八〇棟三六坊の学僧寮、大講堂を含む宏壮な建造物、最盛期には五〇〇人を下らなかったといわれる学僧に対する経費はどうなっていたのであろうか。もちろん学僧からの授業料が大きな割合を占めたであろうが、その基本的なものは天正以来の御朱印地十五石である。
 これは北条氏時代からの既得権と寺格によって徳川幕府が寄付したもので、田地の管理権を任されて、耕作者に対する支配権を持つ旗本知行所と同格であった。この田地からの収入については幕府へ年貢を納めることを要せず、いわゆる「除地(ぢょち)」としての取扱いを受けたのである。
 また、寺社領内の山林に杉を栽培したのも、有事の際に役立てようとする配慮からで、檀施を仰がず自給自弁をねらいとしたものであり、単に風致林としての意味だけではない。そのため、学僧達が記念または謝恩の意をこめて、数本ずつ植えて行ったということである。
 村民達との間は、年貢などのことから、所有権者と耕作者という関係ばかりではなく、学僧と村民との間には当然ながら、心温まる交流も生じたことであろう。その一端を、寛政七年(一七九五)の智海執事等による日記『聚塵録・百拾三之巻』は次のように記している。
 
  四月十一日 曇天
一、空風呂示談。此度東谷又兵衛浄瑠理会仕候由ニテ満山番附廻り、依之中下不参リ様ニモ申渡候得共、左(さ)モ難成、両中頭ヘ申達シ、中下万一見物ニ参リ候共、決而諠誮(喧嘩(けんか))口論無之様相慎候旨申渡決ス。且亦東谷中之事故(ゆえ) 列内ハ見物ニ不参ル旨決申  (以下略)
 
 また、寺内で行われる諸行事には、近郷近在の老若男女が参集したであろうし、檀林とはいえ、一般庶民から離れての生活はあり得ないことであった。
 こうして住民とのなじみも深く、時の権力に迎合することもない気概を示し、開創以来四〇〇年の星霜を経て、連綿三二七代にわたってその法燈を掲げて来た中村檀林も、明治の改革によって廃檀となるが、その教義・精神は、後の立正大学へと受け継がれて行くのである。
 明治五年の廃檀後最初の住職となったのは、かつて三一二代でもあった下谷徳大寺の相川日譲で、重任である。廃檀の後も一カ寺としての格が確立されるよう努力したが、旧檀林ということからこの件はなかなか進展しなかった。また檀林所有の御朱印地をめぐり、これを村有と主張して杉材を伐採しようとした東谷・西谷区民との間に訴訟問題も起こった。
 この問題は次代の日光・日要と累年にわたったが解決せず、さらに、住職とはいえ名目上のものだけであったりしたことなどから、この間に寺の什器・宝物等の散逸も多く、廃檀に次いで大きな受難の十数年を経過した。
 これを聞いた京都本圀寺の釈禎は、先聖の墓碑に香華の絶えるのを憂え、訴訟問題の決着、一寺確立、その他山積した諸問題の解決を加藤日慶に懇望したのである。それに応え、明治二十年に管長特命住職として日慶(龍妙院)が第三三一世となり、日夜努力の末、年来の訴訟を和解し、争点となった山林を個人名儀によって官庁より払下げを受け、寺有に帰せしめて、再び村民と紛争の起こらないよう終止符を打った。
 続いて、これまでの講堂が破損著しく、修繕するよりは建て替えた方がよいということから、全面新築に着手し、明治二十五年にその落成を見た。ここで「一本山確立」の規模を達成したのである。
 再築の費用として、先輩諸賢たちが植え置き、今は巨木となった境内山林の杉木を売却したのであるが、奸商に欺かれて多く伐採し過ぎたとのことであり、そのため寺域の景観が損なわれたという。
 当時その森林がいかに繁っていたかを物語る小話がある。「東谷・西谷の家で、もし朝の副食が間に合わないときは、檀林の森へ行って大声をあげるとよい。そうすると、朝早く九十九里浜へ子烏の餌を取りに行って帰った親烏が驚いて、口にくわえている鰯を落とすから、それを拾って来て膳に乗せればよい」。それほど多くの烏が住む大森林であったのだろう。
 いずれにせよ日慶はその墓碑にあるとおり、「明治中興之祖」としての功績を残し、次の清水竜山・横井日顕・木村日紀に伝え、前貫首中条是竜師の没後は今井是観師が新貫首となり、歴代はなお続いていくのである。
 この間の大正五年、立正大学へ史料・教材として保管を任せてあった学徒入檀の際の誓状の巻軸三百余の他、古文書の大部分は、三月八日の同大学火災のために焼失。明治初年の荒廃・混乱期における経典類の盗難と共に、貴重な文献・資料を逸失してしまったことは、学界のためにもまことに痛恨の極みである。
 現在日本寺重宝として日蓮宗々務院・宗宝調査委員会へ登録してあるものの一部を記して記録に止めたい。
 
  一、俒師本尊   一幅 生年十三歳、大永七年(一五二七)十二月十四日、行木沙門日源授与之
  一、檀林学徒遺誡 一軸 慶長十年(一六〇五)正月十一日、円師筆
  一、東大頭秘書  一綴 元文四年(一七三九)七月十五日、東大頭々役普明誌
  一、祈禱瓶水抄  一軸 境如院日忍筆?
  一、御朱印函目録 一綴 文政三(一八二〇)二月日改
  一、霊仏来由記  一綴 享和元年(一八〇一)極月五日
  一、正東山文書第一 一冊 正徳二年(一七一二)九月二十四日
  一、正東山古文書第二 一冊 日空筆、宝永五年(一七〇八)五月
  一、古版頭帳   一冊 天保時代(一八三〇~四四)
  一、貞師消息   一幅 応安元年(一三六八)十二月八日
  一、円師本尊   一幅 慶長七(一六〇二)六月七日、為信女妙忍寂光往詣授与之
  一、祐師本尊   一幅 延文三年(一三五八)太歳二月日
  一、典師本尊   一幅 天正十三年(一五八五)三月二十八日、本竜院日賢授与之
  一、因師本尊   一幅 慶長十四(一六〇九)三月二十一日、為良南修学増進授与之
  一、伝教大師画像 一幅 狩野元俊
  一、化主用腰屏風 一双 狩野昌運
  一、化主用手爐  一個 和蘭七宝焼 中国風緞子風団付
  一、松竹梅大盃 三ツ組 梨地蒔絵 朱塗 裏文曰「一天四海皆帰妙法」
  一、境師所用五條    茶地 緑小紋
  一、満山制法大帖 二冊 元禄十六年(一七〇三)七月吉辰
              享保十三年(一七二八)四月良辰
  一、涅槃像    一幅 伊川狩野栄信筆
  一、日本寺古記  二枚 宝暦九年(一七五九)六月九日
              文化元年(一八〇四)冬十一月
  [一、常師御木像  一躯 日蓮聖人御作 一、高祖御木像  一躯 日常上人作] 弘安四年(一二八一)相互点刻
  一、天台大師木像 一躯 寛文七年(一六六七)十一月造
  一、祐師木像   一躯 同年造
  一、円師木像   一躯 正徳五年(一七一五)三月十六日造
  一、宝塔     一基 新説の時本尊とせりという