多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧中村

南中(みなみなか)

 いつの世でも、人々が生活共同体を営んでいくからには、これを統率する者がなければならないが、当地方は古い時代から各史書にその名をとどめているだけに、数多くの支配者の名が伝説として、また古文書の中や史跡にも残されている。
 すなわち、平忠常・中村太郎忠将・同常方(中城主)・千田胤貞・中村但馬守等である。しかしこれらの中世武将については、他の項に記述してあるので重複を避け、近世の支配者についてを記してみる。
 松平氏による統治
 近世における支配者として、その出自・系譜・事蹟等が歴代にわたって詳しく知られているのは、寛永十二年(一六三五)から明治に至るまでの二三〇年余を、領主として君臨した多古藩主松平(久松)氏である。同家についての詳細な記述は別項でなされているので、ここでは、当地区・村に対してどのような行政を行ったかを、史料をとおして考えてみたい。
 次に示す一通の文書は、多古藩として最後のころ、年貢徴収に当たって発行した納付明細書ともいうべきもので、南中全村で納める年貢についてを、村役人に宛てて指示したものである。
 
     卯御年貢勘定目録
             南中村
  一、米 九百七拾七俵三斗九升六合六勺 本米
  一、米 弐拾六俵壱斗七升弐合壱勺   口米
   合米 千四俵壱斗六升八合七勺
    内糯米 拾俵    不残江戸廻シ
     右納次第
  一、米 六百五拾四俵壱升五合  [小見川津出シ 御廻米]
    内糯米 拾俵
  一、米 弐百俵        御陣屋入
  一、米 六拾四俵       御囲米三百俵之内 籾ニ而百弐拾八俵郷倉詰
  一、米 五拾俵        御用意当分御蔵詰
  一、米 弐拾四俵六升弐合六勺 定式引
     内米六俵        [名主給米被下 内壱俵三左衛門被下]
      米壱俵          納人扶持
      米壱俵壱斗五升弐合三勺  島廻り溜井永引
      米弐俵弐斗八升弐合七勺  上中田荒地皆引 畑成半毛引
      米四俵五升     [大豆八俵壱斗納代米 違作ニ付半納 内八俵江戸廻シ壱斗御陣屋入]
      米弐斗六升八合六勺 [小豆壱俵壱斗弐升納代米 但三斗五升入]
      米五俵       日本寺御寄附米
      米三俵       峯妙興寺御仏供料
                内壱俵 文政十四丑年より増
      米壱俵       [亀塚堰代米 寬政八辰年より引石]
      米九合       牛房三抱納代米
  一、米 拾弐俵九升壱合壱勺
     内米四俵壱斗七升   [柴田鉄太郎一人扶持 当卯之一ケ年分被下]
      米四俵三斗八升八合壱勺  夫人六人懸米
                平均両ニ弐斗弐升九勺
      米七升九合五勺   [百姓磯右衛門 八右衛門 持之内破留引石]
      米弐斗五升三合五勺 中島亀塚荒田地文政十亥年より追々願継
                慶応二年寅年より午年迠五ケ年引石
      米壱俵       所左衛門母八拾八歳被下米
   納合
    米千四俵壱斗六升八合七勺
   右之通米来ル霜月廿日限 勘定無相違急度可令皆済もの也
     慶応三丁卯(一八六七)
      多古
       役所 印                   右村
                                名主
                                組頭
                                百姓代
 
 これを見ると、当村の正税(本米)が九七七俵三斗九升六合六勺、付加税(口米)が二六俵一斗七升二合一勺である。そして六五%に当たる六五四俵余の米を小見川から江戸へ送り、陣屋入米としては二〇%弱の二〇〇俵が記されている。
 囲米は、囲籾ともいって備荒貯蓄・米価調節・軍事用などのために貯蓄しておくものである。定式引は、例年のように定めに従って還元される。所左衛門の母が八十八歳と高齢であり、これに対して米一俵を下賜しているが、これも当時の風潮であったようである。
 また「柴田鉄太郎 一人扶持」として四俵一斗七升の記載があるが、これは、当時朝二合半・夕二合半・合計一日に玄米五合とし、それに三六〇日を乗じたものが一人扶持の基準とされていたが、ほぼそれと同様の量である。
 年貢の納入については、このように詳細な指令書に基づいて徴収されたわけであるが、一般行政の面では、栗山川以東の領分内村々を「川東」と称し、申請書・願い書などの取扱所が南中に設置されていた模様である。
 その様子を示す代表例を次に記すが、山林の立木売買についての許可申請から、冥加金といわれた税金の納付までを記録したもので、役所の仕組みを知るうえでも興味のあるものである。
 
   乍恐以書附奉願上候
 名処 勝負入台
一、松木山 壱ケ所   壱尺廻り 百本
            壱尺五寸廻り 五拾本
            弐尺廻り 五拾本
  〆木数 弐百本
 右書面之松木売木仕り度奉願上候 伐採候上者早速植付可仕候 願之通り御聞済成下置候ハヽ難有仕合奉存候
   弘化二年巳(一八四五)四月
                              願人 南中村
                                  善左衛門
                                  名主
                                     印
                                  組頭
 
   覚
 北中村地内名所 勝負入 南中村
一、松木山 壱〓(ママ)   善左衛門持
     代金壱両ト銀九分
 御冥加金壱分也 九分御用捨御願申候
           落札 同村幸右衛門
 右払山入札仕候処 書面之通り落札ニ御座候 依之四分一御冥加金御上納仕候 御慈悲之段難有仕合奉存候   已上
     巳五月五日御上納
 
 以来山見分之節、出役衆江馳走等致間敷候。御領分都而何事によらず願伺届筋者、柴田長太夫方江可申出、同人差図之上役所江可申出候。右之趣者村々江兼而申達置候得共、今以不心得之村方茂有之哉ニ相聞候。此度割元会所出来ニ付猶又申達候間、村々以来心得違無之様可相心得候。尤廻状早々順達、留リ村より可相納候。以上
   五月七日
          役所
             川東村々
 
 以上、松平氏の南中における治政の一部を記してみた。
 ここで、時代は前後するが、中世における支配者として、また、現在に続く地方の名家として見すごすことのできない氏族・平山氏とその五軒党について、南中とのかかわりを中心にまとめてみたい。
 平山五軒党
 日本寺境内と墓地の間にある旧街道を北に進むと、台坂下り口の東側に北面して道祖神が祀られている。その社前を東へ入ったところが墓地になっていて、その中央に質素ながら風格のある墓石が建てられている。これが最後の壺岡城主で、後の五軒党の祖といわれる平山六郎右衛門尉季邦の墓石である。「法蓮院殿光伝日潤 蓮池院殿妙院日浄 平山六郎右衛門尉廟 慶長七壬寅(一六〇二)四月二十三日」このように刻まれているが、「蓮池院」は季邦の夫人(玉造城主野平伊賀守の二女で、夫に先立ち文禄四年(一五九五)一月十二日没)のことである。

平山季邦の墓

 季邦は、兄光義(北条氏政・氏直に仕え、天正十八年(一五九〇)七月十一日山中城討死とも)に子がなかったので父季助のあとを継いだわけであるが、平山氏祖先の地・武蔵国日野原(東京・南多摩郡桧原村)にある氏神日奉大明神の石筥(はこ)の上書誓文によると、
 
 父兄ニ随テ小田原軍ニ在リテ 数々戦功有リ 光義季邦カ勇気凛々トシテ群ニ抜キンヌ 首級ヲ得矣 秀吉君光義季邦カ之豪傑ヲ聞テ 光義ヲ召シ七千石ヲ以テセン 光義義ヲ守テ受クヲ肯ゼズ 遂ニ相州山中ニ入リ 跡ヲ鑠(と)ケ(か)シテ見ス 或ハ曰ク仙シ去ル 季邦小田原没落之後季助ノトモシテ本国ニ帰ル
 
と説明しているが、季邦が十二歳のころのことである。
 平山氏は、遠くは高皇産霊尊より出た日奉(ひまつり)宗頼が武蔵守となり、武蔵七党を率いて「日野ノ宰相」といわれたときからその系を明らかにする。宗頼から七代後の直季は義家に仕え平山村に居城したところから、姓も平山氏を名乗るようになった。日奉大明神への崇敬が厚かったようである。
 その子季重は武者所(後白河院御所警衛)となり、義朝・頼朝に仕えて戦功があり、数度の恩賞を受けている。前記上書誓文によると、
 
 季重時代三万五千石領地ス 民武大輔時代鎌倉将軍家ニ仕テ十八万石領地ス 武蔵国平山城地ノ辺ニ浅川ト曰フ所ノ近所ニ食面(ヂキメン)ト曰(イ)フ 是レハ季重ニ鎌倉殿ヨリ名犬ヲ玉ワル時 右ノ犬ノ食料トシテ玉ワル所 今ニ食面ト曰フ
 
 また、
 
 居武蔵多摩郡平山館 源平ノ役有戦功 食邑三千八百丁
 
とある。
 季重の孫の一人重親は、上総介秀胤・三浦泰村に応じて北条氏との戦いに敗れ、宝治元年(一二四七)に一ノ宮大柳城に籠城して自害するが、この子孫が飯高平山重兵衛系の祖となって鏑木平山系とともに現在に続くのである。
 季重より六代を経て季信となるが、この時から季助に至る間北条家より食邑一六貫二二八文を受け、相州入西郡・武州多摩郡日原・平山・下総中村郷松山近辺・壺岡辺二カ所、合わせて五カ所を領地し、壺岡城を築いてこの地に居住した。また日祐に帰依し法性山(浄妙寺)を建てたのもこの人である。『平山氏過去帳』に、「日擁上人 平山季重七代左衛門尉季信公 北中村法性山浄妙寺開基祐師之門 法性山草創之君 応安五壬子(一三七二)七月十日」と、そのことが記されている。
 その子孫たちは、戦国期のことであり、北条氏に属して居所も定まらぬまま各地の戦いに加わったが、季隆(三河守)は壺岡城におり、その子季助(和泉守)のとき小田原役に二子(光義・季邦)とともに参戦したため、城は家臣がこれを留守し、小田原で北条が滅亡したのに伴い廃址となった。
 本国へ帰った季邦は、後に家康からの招きにも応ぜず隠棲して帰農した。弟八郎右衛門尉(義高)は後に浄妙寺九世となった日舜と、同十二世・中村檀林八世で身池対論後奥州へ流罪となった日充両僧の父である。同じく弟満政は島村塙台へ移り、後に鏑木(干潟町)に土着して鏑木平山氏の祖となった。
 季邦の長男季家は、父とともに本田上野介を通じて家康より招かれたが、「仏道修行を専らとする」ということでそれに応えず、飯高宗祐の娘を妻とし、里正(名主)となり慶安三年(一六五〇)七月十日、六十九歳で没した。法名蓮光院日崇。
 この季家に九人の子供があり、その内の四人が分家し、本家を含めて五軒となった。これが「平山五軒党」の初めである。
 長男季光は家を継ぎ藤右衛門を名乗り五郎作とも称した。このころから農人郷士として定着したようである。父の後、里正となり、多古藩主松平氏(初代勝義)から称氏帯刀を許され、寛文十一年(一六七一)五月七日に五十七歳で没した。
 二男有盈(ありみつ)は清蔵・丸右衛門を名乗り、元禄九年(一六九六)八月七日没。夫人は八日市場門前十二軒党日色玄蕃の二女である。
 三男友則は市重郎・治五右衛門ともいい、酒造業を営んで正徳元年(一七一一)十一月八日に八十九歳で没している。なお、友則の次男定則(治兵衛)は分家して後に里正となり、台の祖といわれる。
 四男有純は三之丞を称し酒造業となるが、子供がなかった(無妻とも)ことから鏑木平山氏満貞の二男満晴を養子とし、以後同平山氏との縁組みは相互に行われた。元禄十一年(一六九八)六月二日没。行年七十一歳。
 七男吉重は五郎兵衛・理兵衛ともいい、季家隠居所の跡を相続したことから「隠居」とも称した。享保四年(一七一九)八月十四日に八十七歳で没している。吉重の六男、求儔は伊左衛門を称し、別に一家を興し醤油醸造を業とするようになった。
 以上の五人をもって五軒党としたわけであるが、一家を成さなかった他の四人は次のようになった。
 五男は出家して浄妙寺十四世了遠院日寛大徳となり、延宝六年(一六七八)十一月六日に五十二歳で没した。
 六男満貞(庄九郎)は鏑木平山氏忠兵衛満仲の養子となり、唐竹妙光寺の妙見堂を建立。寛文十二年(一六七二)六月十七日に四十二歳で没。
 八男は出家して沢(栗源町)蓮寿山真浄寺十四世(また十二世、十五世とも)了寂院日然大徳となっている。真浄寺は平賀本土寺の末寺で不受不施派内信寺である。貞享三年(一六八六)八月二十三日に五十一歳で没しているが、不受派僧として弾圧を受けた記録は見られない。
 長女(九子)チヨは、松山村(八日市場市)の湯浅平太夫に嫁し正徳二年(一七一二)八月十日、七十四歳で没している。
 平山氏と不受不施派
 ここで八男日然のことに関連して、平山氏と不受不施派とのことについて触れておきたいが、まず不受不施僧であることがはっきりしている者として、西沢庵法中であったこの日然があり、季助の子八郎右衛門尉(義高)を父とする遠寿院日充は流罪になっている。有盈の孫有明(恵正)・市兵衛(是相)兄弟については後述するが、友則系では孫の清兵衛(理明院日順)があり、後年多古侯に仕えた藤右衛門季孝は、円輝院日琳(妙福寺十一世・飯塚法中・玉造村)について「予カ開師ナリ」としている。過去帳の中にも不受不施僧の名が多数記されており、当時の状況からして、書き止めることはしないにせよ、相当数の信奉者がいたことは容易に考えられることである。
 ここに一通の古文書がある。
 
   八丈島流人
一、松平大蔵少輔様御領分 下総国香取郡南中村 百姓半兵衛惣領 恵正
一、同御領分同国同郡同村 百姓半兵衛三男 是相
 右両僧は、島流人善右衛門を不受不施ニ相勧御科ニ仍、当三(御)蔵島へ島替為仰付、当七月四日渡、三宅島に江戸便船ニ而相送リ申候。島替証文ト引替請取之当島ニ差置申候。御受為申上如斯御座候 以上
   元文四年(一七三九)九月十四日
    斉藤吾六郎様御役所 御蔵島
     稲瀬助左衛門様                          神主 蔵人
     度合幸助様                            後見 平左衛門
     高木金五郎様                           名主 甚右衛門
                               (御蔵島村役場古文書写、栗山惣吉氏)
 
 これは恵正・是相の両僧が享保六年(一七二一)十一月に八丈島へ流され、流罪の身ながら流人の善右衛門に不受不施を勧めた科(とが)によって、元文三年(一七三八)八月に、御蔵島へ島替えになったときの記録である。八丈島に十七年、御蔵島へ移されてからそれぞれ三年と十七年の後に死亡、墓碑は同島に現存している。
 この恵正・是相両僧は五軒党の一つ有盈系から出た不受不施僧である。有盈の子有恒は半丘衛(後に丸右衛門)といい、その長男有明が恵正、七男市兵衛が是相なのである。系譜および過去帳によると恵正は、幼名三之助で後に吉兵衛といい、三十九歳のとき僧となっている。「恵正法師 平山有恒長子吉兵衛有明事 寛保元年辛酉(一七四一)正月二日 六十二歳没」。是相は幼名亀之助、後に市兵衛(市平)となり、二十八歳のとき出家して中村檀林に学んでいる。過去帳には「是相法師 平山半兵衛有恒七男市兵衛 二十八歳自法師ト也 宝暦五乙亥(一七五五)五月二十三日(又五日)六十一歳没」とある。出家とほぼ同時に八丈島へ流されたことになる。
 不受不施派に関係した証拠のすべてを破棄、隠匿した時代のものとして残された貴重な史料であるが、平山家に伝わる過去帳の中でこの恵正・是相についてはそれぞれ名前の一字を削り、恵相・是正とその名が書き替えられてあることを付記しておきたい。
 平山宗家の足跡
 次いで、五軒党のそれぞれの系譜については後に記すこととし、その宗家である平山藤右衛門家の足跡を辿ってみると、
 季光の子光秀は、父の跡を継いで称氏帯刀・里正となり五人扶持を受けて多古藩の被官(大・小名の家臣となった土豪。その主従関係はそれほど強いものではなかった)となった。享保五年(一七二〇)一月二十四日に七十一歳で没したが、先妻が若くして死去したことから後妻に上総・小堤村(横芝町)神保大蔵宗久の二女を娶り、この代から後の伊能忠敬とのつながりができたのである。
 その子秀暁は酒造業を営み、多古藩の郷士であったが、延享元年(一七四四)三月七日に五十七歳で没した。夫人は同族五郎兵衛吉重の五女であるが、二十五歳で亡くなった先妻は伊能解由景雄の三女であった。
 弟たちはそれぞれ分家して一家を興し、光賛(藤治郎又源兵衛)は儀左衛門の祖、守典(平左衛門、藤助・因竹翁)は東・藤重郎の祖、守休(五郎八)は新田・七郎兵衛の祖と、それぞれ独立した。
 秀暁の子季忠は江戸昌平校に学んで林大学頭に師事し、詩文、特に和歌に長じて歌集もある。郷士であり称氏帯刀はいうまでもなく、多古藩の被官となっている。安永四年(一七七五)二月二十七日に六十六歳で没しているが、伊能忠敬の測量事業を援助すること極めて大であり、季忠がいなかったらかの偉業もなし得なかったであろうとさえいわれている。それも妹タミが佐原伊能長由に嫁ぎ、その娘みつに迎えたのが忠敬であることのゆえであろうか。
 江戸で学んだ文人でもあることから、宝暦十二年(一七六二)に江戸湯島で諸国の薬物・玉石・鳥獣・異類異形の品を集めて「群産会席」と称する催しを開いた平賀源内とも親交があったらしく、この年の四月から五カ月間、東海・奥羽・北陸の旅をしてその毎日を書き続けた播州(兵庫県)高砂の大庄屋・三浦迂斉の『東海済勝記』の一節に、そのことを次のように記している。
 
閏四月十三日
 伊勢屋・松本・永峯・中村等尋ねて帰る。この夜下総国中村といふ所にすめる平山藤右衛門といふ人、予が旅宿へたづね来らる。此の人も此度の会に出会せる人にて、きのふ田村先生の許にて参会しぬ。
 この人ハ平山武者所・季重の嫡孫にて、世々将軍家へも拝謁する人也。終夜ものがたりす。昔時、将軍頼家公御誕生の時、季重蟇目の役つかまつりしかば、装束の事につき、三浦義盛へ相談ありし事家記に侍り、然れば某とも世々通家なりとの物がたり也。
 下総国の産物、海鏡・石髄などめぐまる。即此度の会に出されし奇物也。海鏡はもろこしのミ(実)にありて日本にはなきものとおもひつるに、はじめて此もの日本にも産する事をしりぬ。石髄は宝暦庚申七月七日、上州境の里人大石をわりぬれば、内に水あり米泔(こめじる)のごとし、たちまち化して此石となるよし。希有の物なり。これ即木草の石髄なり。
予火照炮といふもの、其余珍奇のもの二・三種をあたふ。此火照炮は蛮産にて形榧子のごとき物也。尻のかたに火をつくれば頭より煙出て、そのけぶりの頭に火もゆ、ふしぎなるもの也。江戸にて高松侯・出石侯・阿部侯なども望ませ給ひて、奉りぬ。
 此平山氏逗留中、たびたび来とぶらハれつゝ和歌などめぐまる。
   やんごとなき都の人々になん、あひ奉りける日、家づとにもせよかしと、幾世々をへし長柄の槁の朽木、あるはいなのさゝ原のさゝの葉など、数々の賜たふべぬ、およびなき吾嬬のことの葉にいひ尽すべきにしもあらねど、三十一文字のすがたも問ひ奉らんと、よみてをくる。
  おもひきや吾妻のはてに住る身の
     遠き雲井の玉をミんとは
かく申されぬれど、その夜いたくふけ、事にまぎれて返しさへせざりし
 
 季忠の二男季孝は、兄季包が三十三歳で没したため宗家を継ぎ藤右衛門(文治郎とも)を名乗った。父と同じく林大学頭に師事し、多古侯に仕えて郡奉行下役を勤め、小堤の神保五右衛門林之二女サヲを妻としていたが、天明八年(一七八八)三月十六日に四十九歳の若さで亡くなった。
 この後を継いだのが季恭である。通称を五郎作といい後に郡蔵と改めた。久保木清淵に師事して学を積み、忠敬が沿海測量・日本地図作成の大事業をなしとげるとき、その測量計緯・計算の知識を生かしてともに山川を跋渉し、大いにそれを助けたが忠敬死去の翌年・文政二年(一八一九)十月二十七日に没した。四十二歳であった。
 また季恭の弟将季(権之助・宗平)も過去帳によれば「忠敬に師事し共に測量に従事、エゾ地測量に至っては概ね将季の力に頼れり」ということであり、後に銚子信田権右衛門の養子となっている。
 季恭の子が季英で、医師となり領主多古侯から特に「玄遠」の号を受け、万延元年(一八六〇)四月十九日に四十九歳で没しているが、妻(平野清右衛門女)との間に子がなかったため鏑木平山正義の子重三郎(季輝)を養子とした。この季輝は書・漢籍に通じていたところから、養父季英のために五〇〇字に及ぶ漢文の碑を献じている。平山氏系を知る上で深い意味を持つと思われるので、ここに碑文の要点を現代文に書き改めて参考としたい。
 
 (前略)平山氏は武者所季重の後裔であり、代々武蔵多摩郡平山村を食封していたが、天正中に小田原の役の後衰え、その所領である下総香取郡中村に来住して藤右衛門と称し郷士となった。その人達は大いに精励して富を築いたが、今はその資産も次第に減るに至った。これは季恭が測量技術に優れ、幕府の命による忠敬の事業に加わって大きな成果を収めたが、賜わるところの給与では補い切れないものがあったことによるのである。季恭が没したとき君(季英)はまだ幼く(八歳)、母も二十七歳であったが、家はなお苦しくなった。(中略)わが家は名族であるとはいえこれほど困窮しては止むを得ないと、使用人も置かなくした。
 ここで、貧しくて人に仁恵を施すには医者が最もよいと考え、上総の原水俊蔵という人が医者として名声が高かったところから、その弟子となって数年、原水氏が亡くなってからは江戸の桂川月甫について医学を修業した。学成りて故郷に帰り開業、その優れた治療技術は遠くにも聞こえ、施療を請うて来る者も多くなり、次第に家運も隆盛となった。そして領主多古侯から特に玄遠の号を賜わったのである(後略)。栗水並木正韶撰、孝子季輝謹書
 
 季輝は重三郎・元徳とも称し、浅田宗伯について学んだ医者である。幼時読み書きの手ほどきを日智上人(浄妙寺三十六世)に受け、漢学を並木栗水、書を中沢雪城に学び、和歌は神山魚貫・鈴木雅之を師とした。
 明治九年、第十五大区三小区会議員となり、同十一年に郡制が施行されて同年十一月に行われた初の選挙で、千葉県議会議員となったが、三年後の同十四年八月二十一日に亡くなった。ときに四十一歳であった。
 父季英は多古侯から特に号を賜わったほどの人物であったことはすでに述べたが、それ以前の父祖にしても代々郷士・被官となり里正を勤め、かつては十八万石を領したといわれる神別系の武将である。
 これらのこともあってか多古藩主松平氏は平山五軒党について、今は帰農して百姓となったとはいえ、特別の処遇をしていたようである。その一つの証として、松平家割元名主の一人である五十嵐家の『備忘日記』(嘉永二年(一八四九)の分)には、その一節に次のように記している。
 
三月十五日
 殿様初而御入部夕七ツ時御着被遊、金紋御先箱ニて台笠立笠御行列、其節御堀之脇会所前江席札相立、先年者中町箱屋前江罷出候処、此度各々之席ニ相成申、御用人吉野揚八様会所前江御出張呼上ケ、大原内池の渕・御分家知行役人、奈良屋之前・野州小山御領分名主共、辰巳前・医師林玄龍 平山玄益 片貝花沢玄亭 片貝玄益 中里玄益都五人、新町新左衛門前・御領分役人共、天王前・御褒美書之者共、是者冥加金差上袴載〓(ママ)之者共、中町虎屋之前・御出入職人共、箱屋之前・中村五軒党、俵屋前・飯櫃村木内伊兵衛 南中村柴田鉄太郎、是者長太夫割元役故家稼忰差出、宇賀村前・東式部
根木名迠御出迎 多古村名主勘兵衛帯刀・組頭仁右衛門 組頭治兵衛 被官之者より五人、同断之者より四人江戸迠迎、是者御家老鵜沢牧太様徒士 御着之節御家老勝手迠恐悦申上候
 
 また、廃藩置県直前の明治二年文書で、
 
 別紙之通被仰出候間 為心得相達候
一、殿様来ル十八日東京御発途 同十九日被遊御着候 右ニ付村役人共並披官五軒党共 当節柄人数減少致し可被罷出候 此段茂為心得申達候事
          多古
            役所 印
   巳十月十六日
                                     多古村 印
                                     井野村 印
                                     南中村 印
                                     借当村 印
                                     並木村
                                       名主
                                       組頭
 尚々多古村へ申達候 御道筋格別之場所を取繕 往来相成候様可致 都而時節柄ニ付万事手軽可被致事
 
と記された廻達文書もある。
 こうして明治を迎えた平山家は、季輝のあとを長男季宣(謙次)が継いで、昭和二十三年八月十一日に七十七歳で死去。その長男輝夫は東大医学部を卒業して医師となったが翌同二十四年八月七日五十一歳で病没。子がなかったため南山崎(八日市場市)林氏の養子となった弟重三郎の次男郁夫を養子とした。郁夫は現在東京・三鷹市に住み、杉並において一級建築事務所を経営している。
 平山氏一族の拠り所であった壺岡城址は、北中字宮の東端に突出した高台にある。現在は山林となっているが、城址の北方に空濠跡が見られ、東南は大堀城方面に対して峻しい崖となり、借当川を経て遙かに吉田・篠本方面まで一望できる要害の地である。
 古老によると、
 
 壺岡城に平山仁兵衛玄蕃という武人がおり、廃城の後は僧侶となって同地の常顕院に住んだ
 
ということである。同寺は今はすでに廃寺となっているが、城址の西側台地にその跡が残り、手入れの行き届いた一角に歴代の供養碑が建てられている。
 平山一族のその後
 さきに、秀暁の弟三人はそれぞれ分家し、四弟守休は新田・七郎兵衛の祖となって独立したことを述べたが、その四代後に、多古他四十九カ村大惣代を勤め、南中村の里正でもあり、また五十六歳のときに隠居して有純系(新屋)を再興させた季光(三左衛門)がいる。
 その二男季則(亀之助・純史・素山とも)は村岡良弼に学び、特に和歌をよくしたが、里正でもあり中村檀林日本寺への貢献も多大なものがあった。季則が平山氏一族ゆかりの平山村・桧原村を訪れ、寺社を詣でて祖先の霊を慰めたときの紀行文が残されており、何より優れた解説にもなろうところから、その全文を紹介して平山五軒党のまとめとしたい。
 
   遠祖参詣紀行
 明治三十六年十一月七日。秋天肌寒ふして空薄曇り雲の晴間より時々日光を漏らしぬ。朝八時頃麻布桜田町岩淵医院(長女敏子の婚家)を発足し、四ツ谷信濃町停車場より午前九時列車に乗り気笛一声と共に汽車は進行しぬ。程なく新宿駅につきぬ、此駅は品川赤羽線の乗替の場所とて雑沓いはむ方なし。夫より大久保 中野 萩窪 吉祥寺 さかい 国分寺 立川各駅を経て日野に着きけり。
 此処にて汽車より下り、初めての旅なれは日野にて腕車(人力車)を雇ひ三、四十町斗(ばか)り行きぬればあさ川の岸に出でにけり。此川は多摩川の支流にて日野と平山の村界にて川の西側小高き一小丘あり。面積大凡二、三丁歩斗り、外廓を回らし東南あさ川を前に控へ真下を池淵と称ひ、これなむ外堀ならん歟。車夫の謂けるに、鎌倉右府に忠義を尽せし平山武者所日奉季重公居城の趾なりと。夫より古城に昇り一首を詠ず。
 城あとにのぼりて見れば浅川の
    水の流れの昔しのばゆ
 浅川を渡り東の方九丁斗り行けば平山村なり。山の麓に禅宗の寺あり宗印寺と称へ是季重公の菩提寺なり。午前十二時此寺に到りぬ。名刺を通し遠祖季重公墳墓参詣の由を述れハ僧尼一人出て来りぬ。住職の在るや否を問ひは僧尼申にハ、此春住持替り今は年若き住職なれは某寺に修業に行き、留守居のみなりと云ひ、されば僧尼の案内にて玄関より昇り廊下通り本堂に至り、先つ千体地蔵を拝す(又日捧地蔵トモ云)。此地蔵の由緒たるや、季重公一戦毎に一体を増し安置せし像なりと、右側と左側に五百体宛あり。
 其傍に位牌処あり、正面に大なる金塗の位牌あり、上に丸に二ツ引の金紋を付け、大福寺殿高庵伝名大居士尊霊とあり、是れ公の位牌なり。
 表門の右側にハ平山季重遺跡之碑と題する平石あり、徳川幕府撃劔指南男谷静斉撰文なり。嘉永四亥年(一八五一)平山正義(此人ハ香取郡鏑木村平山忠兵衛正義也)建設せられたるものなり。一首シて詠す。
   もののふの鉾の礎たてそめし
     この古里に残るいしぶみ
   武者ところいさをたてたる故郷を
     名ごりに伝ふ石碑のあと
 門外正面に一小丘有り季重塚と称す。其上に石造宝塔あり、〓(承)久元夘年二月十日卒とあり是れ公逝去の日を刻されたり。又宝塔正面下台より二番目の石に、季重廿五世之孫松本藩中平山季良敬白とあり。
 宗印寺のうしろ二つ目の山を丸山と称へ高さ二、三十丈(約六〇~九〇メートル)もあらん。絶頂に昇れは面積二十歩(坪)斗り、浅川、多摩川、八王子眼下に見渡し佳景いはん方なし。頂きの真中に周囲一丈四、五尺(約四~五メートル)の松有り一間斗り上より二股になれり、松の根に祠有り日奉明神を祭れり。是れ季重公の祖廟にして墳墓の地なり。曩祖を拝してよめり
   神いますこの丸山の松陰は
     心も清き玉川の水
   日奉の神やいますと息ふらん
     千とせの松は八重に茂りて
   丸山の千とせの松の下蔭に
     遠つ元祖の神いますらむ
 礼拝終りてまた宗印寺にかえりぬ。僧尼茶など仕沢して最と丁寧なる待遇をうけぬ。回向料を納めて暇まを告け豊田停車場にいたり、少し遅れし為三時の汽車  を残して過きけれバ、二時間茶亭に息ひ四時五十五分の汽車に乗り六時十分四ツ谷信濃町停車場に着きぬ。腕車を雇ひ岩淵宅に帰着せり。
 明治三十六年十一月七日夜窓の燈火にしるす             平山亀之助季則
 
 そして、これから三二年後に訪れたときのものが次の文である。
 
 昭和十年九月九日。東京市四谷区大番町一番地平山医院出発、信濃町駅ヨリ電車ニ乗リ立川駅ニテ五日市行ニ乗替午前拾時五十分五日市着。一時間壱円五十銭ノ約束ニテ貸切自動車ヲ雇ヒ、乗車シテ第一番ニ五日市町鳳凰山王林寺に参詣。此寺は山門 庫裏 本堂 鐘楼建て並ひ、境内の樹木繁茂し中々の古刹なり。
 鎌倉建長寺派に属し禅宗なり。元萱葺なりしが今は本堂銅葺ニ葺治し、庫裏は亜鉛葺なるも営繕行届き最も壮厳なる寺院なり。開基大旦那桧原城主平山新左衛門尉末重の建立なる由。本堂九間半四面の大迦藍也。
 正午桧原村着。御霊(ごりやう)明神是則日奉明神なり。北則高山にして南に面し、前ハ秋川の原流にして渓谷の激流也。古松欝蒼たる森林中ニ神社あり。鳥居をくゞり石段を登り正面拝殿 其奥に本社あり。三人の立像あり真中に立ちたるは日奉八郎直季ナランカ冠直衣爵を持ち、左は小供右ハ女体ナランカ、想像スル左ノ小供は季重ナランカ、右の女体ハ母御前ナランカト思ハル。
 社の後ナル神木古杉周囲弐丈余(六メートル余)、社前ナル古杉一丈六尺余(約五メートル)境内大凡如此。古杉二拾本有之  樫一丈(約三メートル)余ノ雑木アリ。
 日奉明神ハ、雨降る時晴れを祈願すれハ必らす天気になる奇瑞あって、今に崇敬厚く遠近の村里より祈願の人尠からずト云。
 一首よめる
   降る雨に濡れつゝ祈る里人の
     帰りは晴れて笠無もかな
   濡れつゝも晴れを祈れる里人の
     帰りは笠のいらぬことはざ
                                 季則
 
 季則は、実姉に婿として迎えた医師石井玄龍が明治八年十二月、妻とともに内山(八日市場市)へ帰って一家を興したことにより、季光の家督を相続した。十六歳のときである。初代有純は酒造業であったが、季則のころは醤油醸造に変わったようである。妻(同族五郎兵衛重綱二女)との間に五子あり、その長男として明治十五年一月四日に生まれたのが成之助(季弘・成淵とも)である。
 成之助は明治三十年八月東京医学専門学校済生学舎に入学、同三十二年十月一日に卒業して同三十四年三月に医師実地試験に合格し、その年の九月に自宅で開業、「仁静堂」と名づけた。このとき十九歳である。
 途中、明治三十九年二月から同四十一年二月までの三年間、医学研究のため東京本郷に居を移したことはあったが、医師として地元住民の治療に尽くしたのはもちろんのこと、昭和六年から同十一年まで中村長を勤め、また同三年一月には千葉県議会議員、同九年には県議会の議長となり、別に千葉県医師会長・日本医師会議員・理事なども歴任し政治家としても活躍したが、昭和三十一年十二月二十日に七十四歳で死去した。
 家督は長女静江に養子として迎えた利弘(千葉医大卒・医学博士)が相続したが、医院は別に経営し、現在は千葉市吾妻町において開業している。
 中村の仁静堂医院は、成之助の弟篤三郎が岩部(栗源町)の石橋杏隣へ養子となり、その長男常義が医師として経営に当たっていたが、昭和五十六年八月三十一日病没した。五十八歳であった。
 祖先の霊を弔い慰めることに意を注いだ亀之助・季則および、医院仁静堂を今に伝える成之助・季弘の業績は、平山五軒党を述べる以上欠くことのできないものである。
 数多の偉人・傑物を輩出した平山一族であり、そのすべてを語ることはできないが、今後いっそうの研究を期待し、先人の冥福を祈りながらこの項を終わりたい。
 なお、平山五軒党の一族で、本文に記された人物を中心にした略系図を、次のようにまとめてみた。内容的にみてご指摘やご指導をいただければ幸いである。

 


平山氏系譜