多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧常磐(ときわ)村

南玉造(みなみたまつくり)

宗教/神社・寺院

 塚の左手にある低い塚に三基の石塔が並んでいるが、その左端の石に、「妙法 本妙院殿 顕常日住大姉 延享元甲子(一七四四)四月二十九日逝去 施主 蓮性院宇幸是日解 芸州大守娘川鰭(かわばた)三位殿簾中 甲陽源姓跡部一族霊魂 道喜居氏妙教了教慧光」とある。この「本妙院殿」とは、安芸国広島城主(四十二万六千五百石余)浅野安芸守綱長の六女で、公家の河鰭(かわばた)少将輝季へ嫁した人である。このことについての照会に対して、広島市から次のように資料を寄せられた。
 
        記
一、本妙院殿顕常日住大姉は、広島藩四代藩主松平(浅野)綱長の女充姫、初め種姫。元禄十七年(一七〇四)正月二十八日生。延享元年(一七四四)四月二十九日卒去。河鰭輝季の内室。
二、河鰭氏は、代々神楽をもって朝廷に仕えた公家の家柄で、本妙院殿が嫁したのは権中納言従二位河鰭輝季であり、宝暦五年(一七五五)六月五日に五十二歳で逝去とある。(公卿辞典)
三、跡部一族(日誉に帰依していた旗本)との関係について、寛政重修諸家譜等の系図に不詳。
四、日蓮宗不受不施派を保護した人物に、広島藩二代藩主浅野光晟侯の内室、自昌院が居られます。
 
 また川鰭氏について広島市立図書館は、次のように記している。
 
 カワバタ氏。河鰭氏。公家。本姓藤原氏。権大納言滋野井実国の二男参議公清、一家を創して河鰭と称す。
 代々神楽を以て朝廷に仕え、明治に至り華族に列し子爵を授けられた。
○公清―実隆―公頼―実益―公村―季村―公邦―実村―公益―実治―季富―公虎―基秀―実陳―季縁―実詮―輝季(本妙院の夫)―頼季―季満―実祐―公陳―実清―実利―公述―実文―公篤―実英
 
 広島藩主浅野氏は不受不施派の外護者であるが、二代光晟夫人自昌院は、幕府の諸藩に対する不受派弾圧に抗し切れず、元禄四年(一六九一)天台宗に改宗している。ただ、それが表面だけのことであったか否かは、今にしては不明である。
 また、常葉檀林(実相寺)は旧得城寺とともに広島国前寺の末寺であり、日誉の学識と活躍ぶりからしても、浅野氏の強い外護があったことと思われ、自昌院の血脈を引く本性院が日誉を尊崇して、高位の公家の内室でありながら不受派の内信を続けていたこともうなずけよう。
 この本妙院碑は、当地の不受派僧(あるいは日誉か)が広島の地を訪れたとき浅野家の恩義を受けたことから、その報恩の意を込めて、本妙院と日誉に帰依した旗本跡部氏の供養のため、日誉の二十三回忌に当って日解(蓮性院。林の法林寺歴代。寛政法難により同六年(一七九四)十一月牢死)が建てたものであるといわれている。