多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧常磐(ときわ)村

南玉造(みなみたまつくり)

宗教/神社・寺院

 南玉造字宿一二七二番地にある。宿集落中央の十字路から北へ長い参道があり、そのつき当りに位置し、同台地の突端である。

妙法山蓮華寺

 明治の『寺院台帳』に次の記録がある。
 
   千葉県管下下総国香取郡常磐村南玉造字宿
                  本土寺末(松戸市平賀)
                      日蓮宗 蓮華寺
一、本尊 釈迦牟尼仏
一、由緒 建治年中(一二七五~七七)ノ比 観音院ト号シテ真言宗ノ寺ニテ 弘安十年(一二八七) 日蓮ノ弟子中老日位ノ教化ニ依テ宗旨及寺号創立改称 其後応仁年中(一四六七~八)本寺九代目先師日意、東弘通ノ節、当地ニ及ヲ(ママ)営膳、安永九年(一七八〇)ニ本堂庫裡自火ニテ焼失 天明元年(一七八一)ニ再興ス
一、本堂間数 間口八間 奥行六間
一、境内坪数 五三七坪
一、境内仏堂 一宇
  鬼子母神
 本尊 鬼子母神
 由緒 享保五庚子年(一七二〇)創立
 建物 方一間三尺
一、檀徒人員 百五拾八人(他略)
 
 創草の歴史を語るものとして版木が保存されてあり、次のように刻まれている。
 
     宗祖大菩薩御真骨 縁起
 下総国香取郡妙法山蓮華寺に安置し奉る宗祖大菩薩御舎利塔乃来由越(を)委尋るに、当寺むかし建治の比観音院と号して真言宗乃道場なりし越 開山日位上人、宗祖大菩薩滅度乃後御遺骨越懐にして、弘安七年(一二八四)上総下総乃両国を化度し玉ひ、当寺乃主に対面あり難問数度に及びしかば、寺主たちまち凝惑の思越ひるがへし、渇仰乃涙とどめがたく、速に三密の門越出て、頓に一乗乃法に帰依し、日位上人乃御弟子となり名越日実と賜ふ、遂に上人をもて当寺乃開山として、山に名付て妙法といひ、寺越蓮華寺と呼ぶ。
 文保二年戊午(一三一八)四月二十三日に、上人遷化し玉ひしより法孫綿々として絶えず、星霜推うつりて四百有余年、開山上人乃携玉ひし宗祖乃御舎利、赫々として法燈乃光をかかげ長く当寺の什物とす、大檀那千葉氏黄金越かざり白玉を鏤め、高八寸広二寸ばかりの宝塔越つくりて帰附ありしかバ、移してこの中に安置し奉る。凡当寺の事につきて纔かに吉凶乃兆ある時ハ、あらかじめ霊夢乃告あらざることなし(以下略)
                                      下総国 玉造村
                                         妙法山蓮華寺
 
 さらに、『常磐村郷土誌』には、
 
 日蓮宗中本寺ナリ建治頃観音院ト号シ真言宗ノ道場ナリシト云フ、弘安七年(一二八四)日蓮ノ弟子日位総州布教ノ節当寺ニ来リ住僧実源ト会見数度、実源遂ニ改宗シテ日位ノ弟子トナリ日実ト改称ス即チ本山開基ナリ 弘安十年(一二八七)三月寺号ヲ蓮華寺ト称ス
 応仁二年(一四六八)本山本土寺九代日意東国布教ニ際シ当寺ニ来リ、檀林寺格ニ進ム、十六代日遵檀林(※玉造檀林)ヲ開ク、学徒四集シ檀運頗ル振ヘリ、廿代日浣ノ時宗派ニ就テ紛糾ヲ重ヌルコト数年、遂ニ廃檀シ寺運衰ヘ堂宇ノ頽廃甚シ、天和三年(一六八三)日清之ヲ再興ス、後安永九年(一七八〇)正月堂宇悉灰燼ニ帰ス、天明元年(一七八一)日道本堂ヲ再建ス(中略)名刹タレトモ破檀ノ際旧記什宝悉散乱シテ集録スベカラズ(後略)
 
とあるが、右の日浣は禁制不受不施派教宣の罪により、寛文六年(一六六六)五月、肥後(熊本)人吉に流罪となり、一〇年の後配流地で没している。
 そして、日浣の墓碑が当寺境内にあり、その五輪塔には「妙法蓮華経 明静院日浣 延宝四丙辰(一六七六)七月九日」と、没年が刻まれている。
 なお、玉造檀林としての歴代能化は次のとおりである。
 
  一世 長遠院日遵 開基
  二世 長真院日栄
  三世 東恩院日惣
  四世 揚善院日逗
  五世 明静院日浣 流罪。廃檀
 
 開基日遵は、身池対論のときは京都にいて、日奥を補けて同志の中心となり、関東と呼応して不受の宗義を宣揚していた。
 のち、信州伊那に流されていた池上本門寺の日樹(長遠院)を訪れたとき、「いつまでも京都に居ないで、早く関東へ行って不受派の門弟衆に対する学問をすすめるように」と諭され、中村・松崎の檀林に学んだことによりこの地方の事情にも通じていることから、寛永十年(一六三三)夏に、弾圧追放された諸跡の回復と不受派学徒育成のため、松崎檀林の能化となって関東に下った。
 そして同十四年(一六三七)三月に玉造蓮華寺に移り、領主酒井山城守のひそかな外護も得て玉造檀林を創設し、その開基となった。
 その後日遵は安房小湊の誕生寺に転じ、若い学僧達の強い支持もあって日栄(長真院)が檀林二世を継いだ。この代に、中山法華経寺の諸末寺が不受不施を唱えて本寺に背し、さらには、法華経寺自体が不受派へ帰入するなど、法理をめぐって波乱があったが、正保三年(一六四六)七月、四十九歳で日栄は死去した。
 その墓碑には「当談第二之祖 長真院日栄大徳位 正保第三丙戌七月上旬九日 施主武州江府住中山太郎左衛門」とある。
 同じく、同寺境内の奥にある題目塔は、日蓮五百遠忌に建てられたもので、「南無妙法蓮華経 日蓮天下泰平国家安穏後五百歳広宣流布 当村中信男女 為五百遠忌大恩報謝営焉 維時安永九庚子(一七八〇)十一月日 二十八世要示院日迅 花押」と刻まれ、傍らには明徳三年(一三九二)の種子板碑が建てられているが、日蓮宗への改宗後約一〇〇年ほどのものである。
 参道入口に高さ約二メートルほどの題目塔があり、「南無妙法蓮華経 順性院宝林妙珠大姉 解悦院有了得甫居士 春台院南嶺妙寿大姉 寛政十一己未年(一七九九)三月中旬 願主富澤茂嘉 営之 妙法山蓮華寺日妙 花押」と記されている。
 なお、現在も保存されている棟札に、「二十七世日道(花押) 維時安永三甲午(一七七四)三月大吉祥日 棟梁当村石井半蔵吉久同小川恒七」とあるが、同寺は明和八年(一七七一)に火災のため焼失したが、富澤茂嘉などの尽力によって安永三年に大伽藍が建てられた。そのときの棟札であろうと思われる。