多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧常磐(ときわ)村

南玉造(みなみたまつくり)

 ここに、多古藩主松平(久松)氏検地による『台帳』と、国替えのため入封した平岡氏の『年貢割付状』により、南玉造村の石高・年貢などのようすを見てみよう。
 
     多古藩松平(久松)家調査に依る土地台帳
                                  下総国香取郡南玉造村
  一、高 七百拾四石八升一合  本田畑辻
    高 百七拾弐石六斗一升  新田
     〆 八百八拾六石六斗九升一合
    反別合 百七町二反四畝拾歩
        七拾壱町六反拾八歩  田方
       分米 六百八拾七石二斗五升壱合
        三拾五町六反三畝弐拾弐歩 畑方
       分米 百九拾九石四斗四升
         此訳
   上田 拾三町八反六畝拾九歩    十五
     分米 弐百七石九斗九升五合
   中田 拾五町壱畝拾七歩      十二
     分米 百八拾石壱斗八升八合
   下田 四拾弐町七反弐畝拾弐歩    七
     分米 弐百九拾九石六升八合
   上畑 五町七反弐畝廿一歩      九
     分米 五拾壱石五斗四升三合
   中畑 拾弐町弐反六畝拾弐歩     六
     分米 七拾参石五斗八升四合
   下畑 拾四町五反九畝歩       三
     分米 四拾参石七斗七升
   屋敷 三町五畝拾三歩        十
     分米 三拾石五斗四升三合
                                    星野平左衛門
                                    山崎与一右衛門
     延宝三乙卯年(一六七五)九月八日
       外除
   一、中田 七畝六歩    妙見
   一、下田 三畝六歩    同断
   一、下田 壱反七畝廿弐歩 八幡
   一、上田 壱反廿歩    椿大明神
   一、下田 拾五歩     同断
   一、下田 六歩      同
   一、中畑 四畝廿四歩   椿大明神
   一、同  四畝六歩    同
   一、下畑 弐拾四歩    同
   一、屋敷 三畝廿歩    蔵屋敷
   一、下田 八畝拾歩    八幡
   一、下田 九畝歩     同断
   一、上畑 壱畝歩     蓮華寺
   一、屋敷 四反五畝歩   同断
   一、同  四畝歩     清光寺
   一、同  四畝歩     大乗坊
   一、同  廿八歩     古御堂
   一、同  壱反壱畝六歩  妙頂寺
   一、同  四畝廿四歩   徳成寺
   一、同  四畝拾弐歩   受印坊
                                  南玉造村之内 坂並
                                       新田畑辻
  一、高四拾石四斗九升
     反別合六町五反弐畝拾六歩
      五町壱反四畝廿歩    田方
       分米 参拾六石弐升七合
      壱町三反七畝廿六歩   畑方
       分米 四石四斗六升三合
       此訳
   下田 五町壱反四畝廿歩     七
     分米 三拾六石弐升七合
   下畑 壱町三反三畝六歩     三
     分米 三石九斗九升六合
   屋敷 四畝廿歩
     分米 四斗六升七合
                                    星野平左衛門
                                    長嶋与一右衛門
     貞享三丙寅年(一六八六)九月
                                   山倉村之内柏熊
                                        新畑辻
  一、高 四石七斗九升五合
     反別合 壱町四反八畝廿八歩
       此訳
   下畑 壱町四反四畝八歩     三
     分米 四石三斗二升八合
   屋敷 四畝廿歩         十
     分米 四斗六升七合
     延宝三乙卯年九月
                                    星野平左衛門
                                    長嶋与一右衛門
 
 また弘化二年(一八四五)の『関東取締役控帳』によると、松平相模守領分は次のようになっている。
 
     南玉造村
   高  九百弐拾七石一斗八升一合
   家数 百四拾七軒
 
 次は、嘉永四年(一八五一)の『年貢割付状』である。
 
       当亥御年貢可納割付之事(南玉造村)
  一、七百拾四石八升三合
    此ノ反別、八拾弐町二反八畝二十歩、
     内
   田、高 五百弐拾参石七斗七升一合
    此反別 四拾八町弐反五畝拾参歩
    内高四石七斗五升八合 畑成定納
     此反別 三反二畝二歩二厘五毛
        但シ 半減引
      此減米 壱石七斗五勺二才
     高 弐石壱斗四升弐合
            柏熊新堤引
      此反別 三反拾八歩
     内、
      高 壱石壱升壱合 荒地引
       此反別 八畝拾弐歩七厘五毛
     残高 五百弐拾石六斗壱升八合
      此反別 四拾七町八反六畝拾弐歩弐厘五毛
   畑、高 百九拾弐石三斗壱升
    此反別 三拾四町三畝七歩
     内訳
    高、弐百七石五斗九升五合
    上田 拾三町八反六畝拾九歩
     高 四石五斗四升五合
          畑成定取 但シ半減引
      此減米 一石五升弐合六勺
     高 八拾石壱斗八升六合
    中田 拾五町壱畝九歩
     高 弐斗壱升三合  畑成定取
      内 壱畝弐拾参歩弐厘五毛
          但シ半減引
       此減米 四升九勺弐才
     高 壱石壱升壱合
      内 八畝拾弐歩七厘五毛 荒地引
       此減米 四升五合 長左衛門
    高 百七拾九石壱斗七升五合
      拾四町九反弐畝廿壱歩
     高 百参拾五石五斗、七畝拾五歩
      高 弐石壱斗四升弐合
      内 三反拾八歩 柏熊新堤敷引
     高 百参拾参石四斗四升八合
      残 拾九町六畝廿七歩
     高 五拾壱石五斗四升参合
      上畑 五町七反弐畝廿壱歩
     高 七拾三石五斗八升四合
      中畑 拾弐町弐反六畝拾弐歩
     高 四拾石八斗壱升三合
      下畑 拾参町六反拾三歩
     高 弐拾四石三斗七升
      屋舗 弐町四反三畝廿壱歩
   取[米 百九拾石三斗壱升 永 拾五貫文]
               同村新田
   高 百七拾弐石六斗壱升
    此反別 弐拾四町九反五畝拾七歩
     内
    田高  百六拾参石四斗四升壱合
     此反別 廿参町参反四畝廿七歩
    畑高  九石壱斗六升七合
     此反別 壱町六反弐拾歩
     内訳
     高 百六拾参石四斗四升三合
      下田 弐拾参町壱反四畝廿七歩
     高 二石九斗五升七合
      下畑 九反八畝拾八歩
     高 六石弐斗壱升
     屋敷 六反弐畝参歩
     取米 四拾八石三斗三升八勺
                同村新田
   高 参拾七石八升四合
    此下田反別 五町弐反九畝拾参歩
    取米 六石六斗七升五合壱勺
               同村新田
   高 四拾石四斗九升
     此反別 六町五反弐畝拾七歩
      内
     田高 三拾六石弐升弐合
      此反別 五町壱反四畝拾八歩
     畑高 四石四斗六升八合
      此反別 壱町参反七畝弐拾九歩
     高 三拾六石弐升弐合
      下田 五町壱反四畝拾八歩
     高 三石九斗九升八合
      下畑 壱町参反参畝八歩
     高 四斗七升
     屋敷 四畝弐拾壱歩
      取米 八石九升八合
            同村新田野銭場
   一、高 壱石壱斗壱升三合
      此反別 弐町七反拾六歩
    取永 五百六拾弐文五分
    取合
      米 参百四拾四石四斗五升九合八才
      永 拾五貫五百参拾弐文五分
   一、永 拾四貫八百八拾五文七分 夫金
   納合
    米 参百四拾四石四斗五升九勺八才
    永 参拾貫百四拾八文弐分
  右者 当亥御年貢其他書面之通リ相極候条小前入作之者迄 無高下割合之来ル十一月廿五日限リ急度可令皆済もの也
     嘉永四亥十月日
                                        竹内清五郎 印
 
 これに続いて現在の面積、人口を付記すると、次のようになる。(昭和五十九年現在)
 
  田  一五八町五反四畝   畑  一一二町八反七畝
  山林  七一町三反三畝   原野   五町九反二畝
  其の他  四町二反〇畝   宅地  二六町二反三畝
  世帯数  二五六戸
  人口  一、一四九人 男 五七四人、女 五七五人
 
 右のうち、柏熊集落については、行政区は別としてもと南玉造に属していたものが分区して独立することになるわけであるが、そのときの関係文書として次のようなものがある。分区するに至ったいきさつを知るうえに貴重なものといえよう。
 
     柏熊分区請願理由
 今回、柏熊部分区ニ就テ請願者トシ其ノ理由ヲ一寸申述ベタイ考デアリマス。御承知ノ如ク、本区ト柏熊ハ、其ノ姻故ニ百年以来ノ古キ歴史ガアリマシテ、此ノ長歳月ノ今日マデ最モ親密ニ父子ノ関係ヲ続ケテ、各発展シテ来タノデアリマス、シテ外観ニ於キマシテモ 近来戸数人口著シク増加シ、吾ガ柏熊ト致シマシテモ、今ハ戸数約五十、人口三百余人ヲ数フルニ至リマシタ。ソコデ時代ノ進歩ハ外観ニ又志想ニ愈々向上ノ機運ニ向ヒ 行政上ニ於テモ只旧套ヲ墨守スルコトガ出来ナイ様ニナッタノデゴザイマス。然ラバ如何ニシテ今后ハ、区民ノ要求ヲ充スカト云ヒマスルニ、山間ノ辟邑ト雖モ マタ各自治ノ権ヲ附与スルガ如キモ コレ又地方開発ノ急務カト存ジマス。
 ソコデ吾々ハ此ノ歴史アル本区トノ関係ヲ愈々顕彰スルト共ニ、内ハ部民ノ意嚮ヲ主ンジ、外四囲ノ趨勢ヲ察シテ コノ大イニ紀念スベキ昭和ノ改元ヲ機ト致シマシテ、分区ノ目標ニ達シタイノデアリマス。何卒 臨席ノ諸君 吾々ノ微衷ヲ察シ、満場一致ヲ以ッテ本案ニ賛成、可決アランコトヲ玆ニ謹ンデ御願ヒ致ス次第デアリマス。尚ホ又、本案可決ノ上ハ、コノ円満ナル議決、誠意アル本区諸賢ノ協賛トヲ覚書ニ作リマシテ、之ヲ永遠ニ紀念ト致シ、内ハ区民ノ自彊ニ資シ、外ハ益々本区トノ親善ヲ計ルノ具ト致シタイ考デアリマス。  以上
   昭和二年二月廿四日
                                     柏熊部 代表
                                       宮崎豊二 謹白
  二月二十四日区会ニテ原案保留トナル
  三月六日 再議可決確定
  三月十四日 訂約書交付
 
     南玉造対柏熊行政事務分掌訂約書
 南玉造区ハ行政事務ノ簡捷ヲ期スル為メ円満ナル熟議ノ上、柏熊ノ壱部落ニ於テ左ノ条件ノ下ニ、区ノ行政行為ヲ認ム
一、従今柏熊部ヲ南玉造柏熊区ト改称ス。
一、財産ハ従来分割管理箇所ヲ継続シ、管理取得スルモノトス。
一、区費ノ徴収ハ村役場備置ノ名寄帳ニ基キ柏熊部落民ノ所有地租及ビ同部民ノ戸数ヲ基礎トシ、其ノ他出石地ニ在リテハ、同部民ノ従来依記セラレタル代納土地ニ係ル地租ヲ基礎トス。
一、土木及ビ地上ノ管理ハ、南玉造字向小橋以北其ノ他従来柏熊部ニ於テ分担セル箇所ヲ以テ、柏熊ノ区域トシ、其ノ以南ヲ元玉造区域トス。
 但シ両区域ノ一方ニ在リテ特ニ大工事等ノ生ジタル場合ハ、協議スルコトアルベシ。
一、南玉造区及び柏熊区ハ、大字南玉造水利及ビ土地権ニ付キ他区他町村ト利害関係ヲ生ジタル場合ハ、相協調シテ同一ノ権利ヲ保持スルモノトス。
一、南玉造区民及ビ柏熊区民ハ、第三者ニ対スル利害関係ハ、古来ノ歴史ニ鑑ミ毎々和衷協同シ、精神的ニ同一ノ態度ヲ尊重スベキ事。
一、神社ハ元玉造所在ノ椿神社、妙見社ノ二社ヲ元玉造ニ於テ、柏熊所在ノ第六社ハ柏熊ニテ管理スルコトトシ、神社附随ノ財産ハ従来通リトス。
一、行政事務分掌訂約ヲ記念シ永久ニ親善ヲ計ルヲ目的トシテ、毎年三月十五日、双方ヨリ時ノ区役員出席会合スルコト。
一、本訂約書ハ、時代ノ要求ニ応ジ必要ヲ生ジタル場合ハ、双方協議ノ上改訂又ハ解決スルコトアルベシ。
一、本訂約書ハ、二部ヲ作製シ、双方役員捺印ノ上各一部ヲ所有ス。
   昭和二年三月十五日
                                      南玉造区長
                                         佐藤清蔵
                                     同区長代理者
                                        小川八十司
                                     同代理者
                                         宮崎豊二
                                     (以下役職者氏名省略)
 
 こうして南玉造の一部であった柏熊部は柏熊区として実質的に一区を形成したわけである。しかし行政区画上は南玉造区に属するもので、地積地番の表示は従来どおり、南玉造○○番地となされている。