多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧常磐(ときわ)村

南玉造(みなみたまつくり)

 前項に続いて『常磐村郷土誌』は、
 
 往古年紀未詳、宇井和泉守ト云者玉造ニ居ル、又平山兵庫介外数氏アリ、爰ニ千葉介常兼ノ孫金原庄司常能ノ後裔・野平伊賀守常弘弘安年中(一二七八~八七)ヨリ之ヲ統一シテ玉造ノ城主トナル、六世ノ孫伊賀守常義大体ニ於テ暁ル所アリ、天正十六年戊子(一五八八)四月十日開城シテ僧トナリ、郷中字小玉ニ隠居ス、同十八年四月二十二日卒ス、其子常春出テ常陸土浦ノ城主佐竹常陸介義重ノ家臣トナル、伊賀守ノ家老秋山右京晴清・富澤内蔵之助光佐土地ヲ支配ス、時ニ小田原落城ニ瀕シ、近国ノ城並ニ家供北条氏直ノ幕ナルヲ以テ悉ク落去ス(後略)
 
と、玉造城主野平伊賀守常弘およびその子孫・家臣の去就について、右のように述べている。
 また、秋山五郎右衛門家所蔵の『一紙文書』には、
 
    城主野平伊賀守殿家老秋山右京・富澤内蔵之佐両家ニ而   
一、天正年中ニ小田原落城之時近国之城並家共氏直之旗下成故不残落城ス、其時伊賀守殿妻子方並家中不残遠国終卒、其跡空城与成、両家老之妻子被支配之云々、其以後御領所ト成則御代官江渡者也、御支配長谷川七左衛門殿御手代勝又善兵衛、沼田孫四郎
一、文禄年中多胡領江渡ル、御地頭肘(土)方掃部頭殿渡二拾年御支配被成、其後御取替、其跡又御領所与成、御代官伊奈帯刀殿御手代富田今平、酒井久助、其后
一、酒井山城守殿御支配ニ成事五三年之後、有訳滅却被成候、其後又々御領所与成、御代官間宮彦次郎殿御手代伯耆与左衛門、和田兵右衛門
一、寛永十一年之頃松平豊前守殿江渡ル、其年十一月十一日初而御家老原主馬之助殿・服部与五左衛門殿・村田清左衛門殿右三人衆中、多胡村平山長兵衛所江御出被成、翌十二日東五千石之者共被召寄諸事御用等被仰付、同十三日西三千石之者共被召寄右之通被仰付、其節殿様御役儀二条大坂御番頭数年御勤被成、御在番之上御逝去被成、御家督御次男松平半左衛門殿江被為仰付、其後豊前守殿与御改被成候、其時御役御書院御番頭御勤、又大番頭ニ御立身被成、其後駿河ニ而御城代被為仰付、御在番之上駿河ニ而御逝去被成
一、御家督若殿甲斐守殿江被為仰付、段々御拝領茂有之、御役儀段々立身被成則松平豊前守殿与御改被成候、其後段々御役替被成、松平大蔵少輔殿与御名御改被成候、御当役大坂御城番御勤被成候
 御代々之歴年寛永十一年より正徳六年丙申迄凡八十弐歳也
 
 このように、江戸時代中期に至るまでの領主について記している。
 右文中の野平(やへい)家については、『得城院過去帳』および『妙頂寺過去帳』に記載されており、位牌は飯新の野平呉服店に伝えられている。
 城主野平家は小田原北条方で、後に徳川政権に城を明け渡すことになるが、その開城に当って愛娘の佐良(さら)姫がさらわれようとしたとき、開城立会人であった土浦城主佐竹常陸介義重が「吾が婚約者である」として姫を救出したという。
 姫はその後出家して尼となり、小田原の役に戦没した将士や祖先の菩提を弔って過ごし、後に化粧料として宮田一円の土地を免租地として与えられたといわれている。
 いまも、佐良姫の庵跡と伝えられる石井家は、「サラ免」(佐良姫の免田の意)と呼びならわされている。
 なお、明治の篤学者富澤義昌が写した『野平富澤家譜略』によると、佐良姫は結婚してその子孫が現代に続いているようである。
 すなわち、その系譜を次のように記している。清和源氏の流れをくむ土岐十郎頼兼は、正中元年(一三二四)九月「正中の変」で天皇方の武将として戦い、京都三条堀河で自刃した。そのとき懐妊中であった妻は、上野国新田庄富澤村(現太田市富沢)に逃れ、翌二年三月十五日に男子を出産した。その子は光兼と名づけられ、出生の地名を冠して富澤を姓とした。
 光兼の孫光直は応永二年(一三九五)二月、十六歳のとき、下総国匝瑳郡玉作城主野平伊賀守常清に仕え、以後累代その家臣となるが、その曽孫光宗は、文明四年(一四七二)主君伊賀守常清とともに、同所蓮華寺の中興日性上人に帰依し檀越となった。
 それから四代後の内蔵助光佐は、天正十六年(一五八八)四月、二十四歳のとき、主君野平伊賀守常義の娘佐良姫(十七歳)を娶った。佐良姫の兄常春は、父常義が入道して玉造城が開城されたとき、土浦城主佐竹義重の臣となったため、光佐は、同じく野平家の家老秋山右京晴清とともに村にとどまり、家門を守った。
 光佐の曽孫清信のとき姓を野平氏と改め、義弟(妹の婿養子)の弥右衛門宗安は富澤家を継いで要害台へ分地し、後に南台へ移って「南台富澤の祖」となった。
 宗安のあと、宗運・信清・清久・茂嘉・賀佐……と続く。
 茂嘉については後に詳述するが、書画、俳句にたくみで竹兎園風葉と号し、神仏への信仰心も厚く、明和八年(一七七一)の蓮華寺焼失に際しては、東奔西走して再建に尽力し、安永三年(一七七四)の大伽藍建設に多大の貢献をしている。
 のち筑前福岡藩主黒田家に仕え、主家の世嗣子出生を念願して郷里の椿神社(子安様)に祈誓し、そのゆえか、黒田家は世継ぎの男子に恵まれ、お家断絶の危機を救われたという。
 年老いてからは郷里に帰り、文化六年(一八〇九)十二月に六十四歳で没した。
 賀佐(半平また忠兵衛)は竹兎園三世を継ぎ、その子惟孝は十六歳のとき多古藩家老鵜澤政道に仕えて弓術・漢学・算術・経済を修め、政道の子政益に神道無念流の剣術を学び、嘉永三年(一八五〇)には藩主松平豊後守勝行の徒士徒目付加役に進んだが、同年十月二十二日に江戸小石川冨坂上の藩邸で没した。三十九歳であった。法号は真了院善達日恭居士であるが、のち明治四十二年になって日蓮宗不受不施派の本山岡山妙覚寺管長日正から勝号を授与されている。
 その子義昌は父惟孝亡きあと藩主松平勝行に扶持され、嘉永三年十二月に家督を承けて多古で成長した。並木栗水の門下で、射撃・柔・剣道の達人であったという。
 文久三年(一八六三)二月藩主勝行に従って上京し、二条城勤番となって以来諸役を勤めたが、明治六年に家禄奉還帰農願いを出して翌七年十二月これを許され、当時の所轄庁であった新治県から資本金四百二円二十三銭二厘を下賜された。これは秩禄十三石の六カ年分を合算した額である。
 その後研鑚を重ねて明治九年からは多古小学校・玉造小学校などに教鞭をとり、同三十九年まで教職にあったが、同四十一年からは曽祖父茂嘉の興した竹兎園第六世となった。
 このようにして野平伊賀守の子孫は、常義の娘佐良姫の血縁が続き、玉造城開城の後は家老の秋山右京・富澤内蔵之助が郷土に農を営み、佐良を娶った富澤と秋山両家が相互に縁組を重ねながら江戸・明治・現代へと続いているという次第である。
 そして江戸時代中期以降については、前の文と重複する内容もあるが『常磐村郷土誌』は、
 
 勝義ノ子勝易ニ至リテ高九千九百二十七石ニ増収ス 又慶安二年(一六四九)食禄三百俵ヲ賜ハリ 正徳三年(一七一三)八月一万二千石ニ増封セラル 是レ勝易ノ後勝以ノ時 松平豊前守ト称シ諸侯ニ列セラル
 寛文十年(一六七〇)五月田部村ト谷地(柏熊地先)公訴済口ニ成ル 是レヨリ前数年ノ訴訟ニ係ル 延宝三年(一六七五)九月玉造村検地 多古領版図ノ簿冊調製(御縄入御水帳による石高は九百六十四石二斗六升五合)
 嘉永三年(一八五〇)松平勝行領地替(勝行ハ松平勝以六世ノ孫ナリ 後大蔵少輔ト改メ 次デ本姓久松氏ニ復シタリト) 徳川領ト成ル 南玉造村三百五十四町六反余・戸数百六十・人口七百四十五人
 嘉永四年(一八五一)平岡丹波守領地ト成ル(後略)
 
 このように記している。
 新領主平岡丹波守道弘は、また岡右衛門と称して文政五年(一八二二)に書院番を勤めた旗本であったが、度々の加増により文久二年(一八六二)には若年寄にすすみ、五千石の食禄を得た。さらに元治元年(一八六四)には五千石の加増があって一万石の所領となり、大名に列せられた。南玉造村を支配した最後の大名である。