多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧常磐(ときわ)村

南玉造(みなみたまつくり)

 近年全国で行われる文化財遺跡調査によって、曲玉・管玉などの工房跡が発掘され、玉造の地名とのかかわりについて研究が進められている。
 玉造をめぐる山野には、数十の古墳が未掘のままであり、現在まで当地域では明らかに工房跡と目されるものは発掘されていないが、常磐小学校の敷地内には発掘調査された住居跡がある。
 その場所は南玉造二三四番地で、校舎移転のため敷地造成の工事中、付近から石器・土器などの出土があり、その後幼稚園建設に伴う整地を行ったとき、周辺の畑地から勾玉・埴輪・その他の土器片が出土し、付近に住居跡のあることがわかった。
 慶応大学文化財調査班の調査によると、確認された住居跡は一三戸とされている。その跡は、地表を浅く掘り下げて柱を立て、屋根は萱で葺いたものと思われる。堀の深さは五〇センチほどで、室の中央に炉の跡が見られる。
 一戸の大きさは一〇~一五平方メートルほどの小さなもので、このような住居が集落をなしていたものであろう。
 栗山川上流に面した丘陵地帯には、玉造台地を中心として幾つかの古墳群が見られるが、次にそれを記してみる。
 
一、南玉造馬場之台古墳
 山林中に二基あり、周囲の畑地からは土器片が発見され、塚上から一メートル余の深さで石棺と土器が発掘された。石材が乱されていて、盗掘の形跡が認められる。
二、南玉造大路台ポンポン塚
 周囲の山林に古墳と思われる塚が点在している。畑地から土器・石器が出土し、崖の中腹に横穴墳らしいものが見られる。
三、南玉造内野台古墳 京松(経松)
 未発掘のもの六カ所。土器片から推して五~六世紀のものと思われる。古墳周辺に不受不施派法難僧の墓が多数ある。
四、南玉造小玉、妙見台、古小玉古墳
 現在の常磐幼稚園敷地からその南西台地にかけての妙見台に古代住居跡があり、土器の出土と貝殻層が見られる。後世「隠れ日蓮の里」といわれ、法難者の墓が多い。
五、大見坂台、方田六万部古墳
 南玉造から飯高地区に連る一帯の山林を、太平洋戦争中に軍と地元民の労役によって畑地造成したが、その一画に残された六万部塚から東方にかけての畑地に石棺・古刀・土器片が見られた。
六、南玉造前野原、坂並古墳
 南玉造と北中の境いで、台地一帯が古墳群である。詳しくは本町教育委員会による『坂並・白貝古墳群発掘調査報告』(昭和五十三年)にあるが、円墳が三七基、前方後円墳が八基確認されている。前野原墓地には、寛政以降の法難僧俗の墓が埋め隠されていた。
七、南玉造柏熊台古墳
 栗山川支流沿岸を開拓した服部新田と称されるところに面し、後背部一帯の台地に古墳群がある。その中の前方後円墳は原形をそのまま残した大古墳で、全長八三メートル、円墳部の直径は四四メートルあり、四世紀代のものであろうといわれている(未発掘)
八、玉造城址(南台、志代地)
 天正十六年までの玉造城址といわれ、内堀・外堀の跡も残っている。城主野平常義の墓があり、不受不施信徒の隠れ庵があった。
 
 以上が、近辺に点在する古墳群のあらましであるが、いずれにせよ、古代人の住んだと思われる集落は相当の広範囲にわたるもので、玉造という地名の発祥が、往時勾玉類を造った人々の集落であることに深いかかわりがあるものといえよう。
 『常磐村郷土誌』には、玉造の起源および沿革について次のような記録がある。
 
 和名抄匝瑳郡玉造郷今香取郡ヘ入リ常磐村ニアタル 大字玉造存ス即株浦郷ノ西ナリ、玉造ハ古姓氏ニテ玉作部ト云ヒ郷里名ニ転ゼルモノ諸国其例多シ
 東鑑文治二年(一一八六)ノ条「下総玉造庄、三井寺領」トアルハ此地ニテ後ハ千田庄(兼併セラレシニヤ)近世ノ俗千田庄玉造村ナリト云ヘリ(地名辞書ニ依ル)、又口碑ニ、玉造ハ玉ヲ造リテ献ゼシヲ以テ其ノ名ヲ賜ハリシト、元禄十三年庚申(一七〇〇)九月故(ママ)幕府ヨリ香取郡玉造村ニ南ノ字ヲ冠スベキ旨令達アリ
 本村ノ創立起源ハ何頃ナリシカ、今ヨリ之レヲ窺知スルコト能ハザレドモ、神社仏閣創建来歴ヨリ想像スルニ、将ニ千年以上ナルベシト思ハル
 
と、このように古村たる所以を述べている。