多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧常磐(ときわ)村

方田(ほうだ)

路傍の小祠・石宮など

 題目塔 字宮台四六五番地の二の古墳の上に二基建っていて、村落の人達は「経塚」と呼んでいる。
 法光寺は、かつて真言宗であった時代があり、また不受不施派に属したときもあって、この塚の周辺に同派の石塔場があったといわれている。いずれかの宗派の経文を納めて塚を築いたことから経塚と呼ぶのであろう。
 明治の時代は村所有地であったが、のち払い下げられて、現在は私有地になっている。
 石碑には題目と「十三日講中 方田村願主宇井氏越川氏平山氏 宝暦八戊寅歳(一七五八)霜月十三日 願主石橋氏伊藤氏」と刻まれ、もう一基には題目と「南無本師久遠釈迦 南無本化上行日蓮 明治九年丙子已来在処々戦死霊魂 明治十一年十二月日久遠偈三万五千巻成就願主平山   平山所左衛門 平山治兵衛 宇井庄兵衛 越川市郎兵衛 平山源助 平山三左衛門」とある。
 道祖神 字向山四十四番地付近に、崩れて神名も明らかでない石宮が十数個並んでいる。もう一カ所は字竜明の追い分けの所で、一段高い畑の中腹に大小二つある。その一つに「文政十年(一八二七)二月日 郷中嘉平衛」と刻まれ、もう一つには刻字はない。多分、その時代は向山から竜明を結ぶ道路が、村の主要道路であったのであろう。
 崇石大明神 字石畑一六三番地にある。村落の東端で、畑の中に取り残されたように立っている。古くは天神の森の一隅にあって、参道には寄進された鳥居がびっしりと立ち並び、その下をくぐり抜けるようにしてお参りしたものだという。

崇石大明神

 石の祠は横三〇センチに高さ四五センチほどで、正面に「崇石大明神」横に「明治九年子十二月日 方田村願主人宇井庄兵衛宇井忠兵衛」と刻まれている。
 村では「しょうせき様」と呼んで、粗略に接するときは神罰があると畏怖をもって崇敬されており、村へ嫁入りした人は、鎮守をお参りしたのち必ず詣でなければならない習慣であった。
 社の由緒などについては不詳であるが、口伝を総合すると次のようになる。
 ある夏の夜に、突然音もなく昼をあざむくほどの光が村全体を包んだ。天の異変に不安な夜を過した翌朝、草刈りに出掛けた人によって、見たこともない赤茶けた石が二つ天神の森の一角に落ちているのが発見された。以来、天から光を放って飛んで来た神秘の石として、落ちた所に丁重に祀られ、今も石祠の内に御神体として納められている。のち、天神の森の開拓によって鎮座の場所が変えられ、現在地に落ち着いたものであるという。
 今次の調査によって、法光寺から「崇石大明神」の護符の版木が見付かり、『過去帳』の一節に「崇石大明神勧請 文化九年(一八一二)と記されていることが判明したことから、右のことがらはおおむね同年代の出来事であろうと推察される。
 馬頭観世音 字上ノ山三五〇番地の一で、山林の一角にある。雨覆の中に石宮が並んでいるが、右側から次のように読みとれる。
 「馬頭観世音」とあり、次に詠歌と思われるものが刻まれているが、判読できない。次のものは木造の小宮で神名はない。
 次いで、「南無妙法蓮華経 七面大明神 慈眼視観世音菩薩福聚海無量 馬頭観世音菩薩 本願主伊藤粂治郎 賛成者越川シケ 宇井ミノ 石橋ハツ 石橋ツキ 明治三十九年旧七月十七日」「馬頭観世音菩薩 慈眼視衆生福聚海無量 自我偈二万普門品一万 明治三十二年旧七月日 越川徳  伊藤粂   石橋   宇井国 」「観世音菩薩 越川勝衛」「北辰妙見大士 八大龍王尊 大正十二年伊藤氏」とある。
 道標 字花立四六〇番地の三九に立てられている。佐原八日市場を結ぶ県道から村落に入る突端にあたり、その御影石の塔には「身延山参拝記念 飯高村匝瑳村八日市場道 此方松崎神社方田松崎山倉神社山倉小見川道 此方香取大神川島南玉造栗源佐原道 昭和六年四月建立 身延山講中」と刻まれている。