多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧常磐(ときわ)村

方田(ほうだ)

 徳川時代初期の寛文(一六六〇)以前頃までは代官の支配下にあって、当時熊澤吉兵衛が治めていた記録が残されている。
 その後は旗本各家の知行地となったのであるが、延宝元年(一六七三)三月五日に名主源兵衛が書いた文書によると、次のように記されている。
 
   高拾九石 和田八郎様 無民家
   高六拾六石五升四合 関口作右衛門様
   高六拾五石三斗五升 原田勘左衛門様
   高四拾九石六斗五升 馬場左衛門様御知行所馬草場百姓江御下ケ置。
 
 さらに、明和三年戌(一七六六)八月方田村平山七郎兵衛が書いた『拾三ケ村議定一札之扣』の一節には、
 
       村高之扣
  羽太権兵衛様
    御拝領高六拾六石五升四合
    内八石三斗七合弐勺四才 無地高
    名主取扱八拾七石七斗四升四合
  和田帯刀様
    御拝領高拾九石
  原田左近様
    御拝領高六拾五石三斗五升
    内八石三斗七升四合三勺八才 無地高
    名主取扱五拾七石八斗三升弐勺七才
  馬場錠三郎様
    御拝領高四拾九石六斗五升
    内七石弐斗弐升八合五勺弐才 無地高
    四給合而高弐百石〇〇五升四合
    給々名主取扱高百七拾九石壱升七合
 
 このように記されていて、四給地であったことがわかる。その分轄支配は明治の時代まで続くのであるが、次にそれぞれの旗本各家について、概要を述べてみよう。
 和田氏 近江国甲賀郡和田村に住み、地名をとって姓とした。定利の代に分家して織田家に仕え、尾張国黒田城の城主となる。定教のときに浪人して故郷に帰った。
 天正十年徳川家康が堺を脱出する時に尽力した定勝は、文禄元年(一五九二)から徳川家に仕えて、慶長元年(一五九六)上総国山辺郡・下総国香取郡の二郡内で五百石を知行した。この頃から方田の一部は和田家が支配するようになったもので、郡内での知行地は他に山倉村がある。
 同十九年(一六一四)には丹波国桑田郡・近江国愛知郡の二郡内で新しく五百石を受けて総高千石になり、寛永三年(一六二六)四月二十七日亨年五十二歳で没した。
 その子内蔵助は、元禄元年(一六八八)正月二十五日に没したが、子供がなかったため知行地は公収された。しかし、同年七月二十五日に先祖の旧功により弟定政に一家創立が許され、兄の知行地の内から丹波国桑田郡・下総国香取郡の二郡内で三百石を知行することになった。定政は、享保十五年(一七三〇)十一月二十五日に七十三歳で没している。
 その後方田における同家の支配は明治まで続き、最後の当主は和田八郎で、総禄高は三百石、菩提寺は本所東盛寺である。なお、和田氏知行地で名主を勤めたのは佐兵衛である。
 原田氏 徳川譜代の家臣である種正は、元和二年(一六一六)に下総国葛飾郡・相馬郡の二郡内で三百石を所領し、そのときから村の一部は原田家の支配に入ったものであろう。寛永十年(一六三三)四月十六日に香取郡・匝瑳郡内で五百石の加増があって計八百石となったが、慶安二年(一六四九)二月二十日に没して、赤坂の浄土寺に葬られた。
 その子種要は元禄十一年(一六九八)葛飾郡・相馬郡内の知行地を香取郡内に移されたが、郡内での他の知行地は鏑木・大角の両村であった。享保十二年(一七二七)三月二十四日に六十七歳で没し、牛込幸国寺に葬られた。
 以後歴代明治までその支配が続き、最後の当主は原田秀之亟で、総禄高は八百石であった。原田家知行地の名主を勤めたのは庄右衛門・佐兵衛・清左衛門・平左衛門などである。
 馬場氏 木曽義仲を祖とする家柄で、後に馬場と姓を改め、昌次のとき慶長五年(一六〇〇)から徳川家に仕えた。
 利重の四男が分家独立して、権六郎(左衛門)と名乗り、寛永十八年(一六四一)徳川家綱に小性として仕えた。明暦三年(一六五七)十二月二十五日父の知行地美濃国恵那郡・甲斐国巨摩郡の二郡内から六百石を分知され、寛文元年(一六六一)十一月に巨摩郡内の知行地を常陸国河内郡・下総国匝瑳郡・海上郡・香取郡内に移された。この頃から村の一部は馬場家の支配下に入ったようである。郡内での知行地は他に本三倉・伊知山の二村である。延宝八年(一六八〇)六月十九日に五十五歳で没し、菩提寺の谷中天眼寺に葬られた。
 以来代々明治までその支配が続き、最後の当主は馬場新一郎と称し、総禄高は六百石であった。村内で馬場家知行地の名主を勤めたのは、勘左衛門・七郎兵衛・庄兵衛・甚左衛門・嘉兵衛・忠兵衛などである。
 羽太(はぶと)氏 三河国額田郡大門村に住み、徳川譜代の家臣である。
 正成は家康の近習を勤め、甲斐国八代郡内で百五十石を知行した。慶長三年(一五九八)七月十五日五十五歳で没し、品川妙国寺に葬られた。
 正員のとき、元禄十年(一六九七)七月二十六日常陸国新治郡内で知行地四百五十石を受けて六百石となり、火事場目付の職を経て宝永二年(一七〇五)甲斐国の知行地を下総国香取郡内へ移され、この頃から村の一部は羽太家が支配するようになったものであろう。郡内での他の知行地は内山村である。享保十三年(一七二八)九月六日六十九歳で没し、菩提寺の品川妙国寺に葬られた。
 以来代々明治に至るまで同家の支配が続き、最後の当主は羽太十太夫で、総禄高は六百石であった。村内で羽太家知行地の名主を勤めたのは、治右衛門・所左衛門などである。
 関口氏 代官または代官所の役人であろうと思われる。幕府直轄地である他村の天領地の『皆済目録』にその名が記されているが、『寛政重修諸家譜』にも記載がなく、詳細は不明である。
 右のような支配者の変遷を経て明治の維新を迎えたわけであるが、宮谷県から新治県へと移り、明治八年からは千葉県に所属した。そして同十七年の町村制実施に伴い、川島村・東松崎村・南玉造村・坂村とともに、五カ村が合併して常磐村の誕生をみたわけである。
 ここに、千葉県庁に提出した『報告書』(明治十七年)から、当時の村高・戸数などを記してみると、次のようになっている。
 
       千葉県直轄 元第五大区小十一区
                                 下総国香取郡方田村
  一、村高 百七拾八石五斗弐升八合
   戸数 二十八軒
   人員 百五十九人 内 男八十七人
              女七十二人
 
 そして、土地については、明治新政府の行なった土地調査台帳の「地引帳」によると、
 
   合総計反別 七拾六町七反五畝廿歩
     此訳
  〆反別 四町三反五畝二十六歩 官有地
     内
  〆神社境内 壱反三畝六歩  第一種
  〆反別 四町弐反弐畝二十歩 第三種
     内
   〆山林 七反六畝二十一歩
   〆芝地 三町三反弐畝五歩
   〆藪地 一反二畝二十四歩
   〆種井 一畝歩
  〆反別 七拾弐町三反九畝七歩 民有地
     内
  〆反別 七拾弐町壱反七畝二十二歩
     内
   〆田  弐拾九町三反二十四歩
   〆畑  拾四町六反五畝二十歩
   〆宅地 弐町六反九畝五歩
   〆山林 弐拾五町四反九畝二十九歩
   〆芝地 弐畝四歩
  〆反別 弐反壱畝拾五歩
     内
   〆墓地 壱反七畝拾五歩
   〆弊物捨場 四畝歩
 
 このようになっている。
 なお、昭和五十九年現在での土地・人口などは次のとおりである。
 
   宅地  四町八反七畝
   田   二七町九反二畝
   畑   一六町五反
   山林  二九町三反
   原野  六反一畝
   池沼  一畝
   その他 四反八畝
 世帯数 四五戸
 人口  一九二人 内 男九八人
            女九四人