多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧常磐(ときわ)村

坂(さか)

村の古文書

 現在、当集落に残された古文書は各種のものがあり、そのいくつかは、本稿にも史料として引用したが、記載した文書の他にも書きとどめておきたいものがある。
 紙面の関係もあり、その全部を記すことはできないが、異なった観点から見て次の二件を採り上げてみたい。
 その一つは、馬の盗難が多かった当時の世相と、それに対する農民の智恵と協力が記されたものである。あえて注釈を加えず、原文のままを次に記す。
 
     御村々廻章之事
                                   永井監物知行所
                                   下総国匝瑳郡八日市場村
                                          五郎兵衛 印
                 飯塚村始り
   乍憚口上
一、近年馬盗賊致流布、所々御村々御難義被成候ニ付、私常ニ防キ用心之仕方物語リ仕候所、此度近村々寄合相談之上、防キ用心之仕方則私請合候ニ付、御村々江私相廻リ候而、御直談之上委細可申上所、当時近村々熟談之証文印形取替セニ相図リ罷有候故乍略儀回章ヲ以御知ラセ申シ上候事
一、御村々熟談連印前書写壱通並御村々江私方より相渡証文写壱通相廻シ即御覧ニ入候間御写置被成下、御一村限馬持御百姓衆中江被御申聞熟談被成被置可被下候、追付御村々巡次ニ私連印帳面持参仕 証文印形取替セ可仕候、御急キ御熟談被成下候様ニ御相談奉希候、右廻章御村下江御請印形被成下早々御村巡次ニ御廻シ被成可被下候、右略儀之段御用捨被成可被下候、万々近日以参得其意可申上候  以上
                                   永井監物知行所
                                   下総国匝瑳郡八日市場村
                                          五郎兵衛 印
   明和二年酉(一七六五)九月十五日
  飯塚村御役人衆中様
 
内山村、小高村、飯高村、山崎村、片子村、金原村、安久山村、川島村、松崎村、坂村、方田村、大寺村、小川村、鏑木村、新里村、桐谷村、鳩山村、堀内村、松沢村、長部村、諸徳寺村、米込村、万力村、秋田村、入野村、新町村、鎌数村、何連も御役人衆中様
追而申上候、一日も早クと奉存候間乍憚御急キ早々御廻シ被成可被下候様ニ奉希候  以上
   九月廿日到来
 
           取替申村々連印一札之事
一、近年下総上総両国共ニ馬盗人致流布、村々至而難儀仕候ニ付、最寄ニ而弐十ケ村或ハ三十ケ村宛組合差防見候得共、不得止事致発向候、依之盗賊防方又者取候節尋様之訳其元並両人之馬商より近村ニ取沙汰有之ニ付、左之村々立合右防様之仕方談シ合候所、相互ニ致熟談候ニ付左ニ実定書付ニ記置候事
一、壱村限リ毛附、尺長、年附、当時代金積リ村役人立合得与相改、村限リ帳面壱冊宛其元江相渡シ可申候ニ付、其元方より其帳面ニ引合せ、壱疋毎ニ焼印札持主御記御渡シ不被成候事
一、右両国之内道筋程能所見繕常番附置、其上銚子湊より行徳川尻迄、利根川船渡何ケ所有之候共無残悉ク相改、是又常番附置、怪敷牛馬右約諾之通リ決而通路為致申間敷候事
一、其元ハ勿論下代之方右之両国村々無懈怠相廻リ、盗賊差防可様候、依之下代給金並村廻リ諸入用として壱ケ年ニ馬壱疋ニ付鐚十弐匁宛無滞相渡可申候、其上若被取候節ハ早速其元方江相知らせ可申候間、毛附帳面ニ引合無等閑御尋相返可候様段右馬御尋被成候節、日数至リ諸入用相懸リ候共、右十弐匁納被馬役銭之内ニ而入用御遣被成、外入用ケ間敷儀ハ馬主差出不申候事
一、右馬役銭之外、馬壱疋ニ付壱ケ年ニ鐚七匁宛相懸置不申候ニ付、若被盗取候節近不尋出、日数相掛リ農業ニ差支候ハヽ三十日迄相待、三十日ニ相成候ハヽ其馬帳面ニ引合、帳面代金之通リ当時貸渡可様候、然上者八ケ月限リ見出候而相渡候ハヽ右金子之通リ候馬引替可申候、八ケ月相過候ハヽ、緞見出候而も馬ハ其元所持、見出不申候と茂、金子ハ臨時金ニ而候間借主江及相返不申候事
一、其元一件、村々巡リ候節行暮候節ハ、木銭米代ヲ請取之何れ村ニ而も御宿可申候事
一、其村々馬商致者有之候村々ヘハ、馬口労数程其元紙札印鑑其村役人方江相渡給可候
 右馬口労売買有之候節ハ、印鑑ニ致添筆送文言入念村役人より出可申候、無札之馬売買為致申間敷候事
 右之通村々立合相究メ証文引替申候上者、相互ニ証文相破申間敷候、依之右両国一統之儀右村々連印相渡申所依而如件
 
 村の文書としてここに書き記しておきたいもののもう一つに、村境い争論の訴訟問題がある。特に当時としては、自村の領域の増減は村全体の盛衰に関わる重大問題であった。まずこの件で最も大きなものは内山との争いであり、現存する『絵図面』の裏に書かれた判決文には次のように書かれていて、
 
     下総国坂村と内山村野論之事
 双方立合仕立作一枚絵図を以令糺明処、論所之内坂村より植立候古松並畑有之上者、坂村之者申所為利運之条為後鑑絵図之西古堀を境に相立墨筋を引、加印判双方被下置之間、若令違犯者可処罪科者也
   寛文四年甲辰(一六六四)五月十四日
                               妻彦右 印 (勘定奉行妻木彦右衛門重直)
                               岡豊前 印 (勘定奉行岡田豊前守義政)
                               渡大隅 印 (江戸町奉行渡辺大隅守綱貞)
                               村長門 印 (江戸町奉行村越長門守吉勝)
                               加甲斐 印 (寺社奉行加々爪甲斐守直澄)
                               井河内 印 (寺社奉行井上河内守正利)
 
 坂村の主張が採り上げられて落着した。
 この争いについての発端などについては不明であるが、勝訴の裏には代々名主を勤めた山崎将監の人知れぬ努力が多かったといわれ、敗訴した内山村里謡の一節にこのように唄われている。
 
   畑で弘法芝 田で蛭藻 坂に将監無けりゃ良い。
 
 そして明治十四年にこの問題は再び繰り返されるが、そのときの一連の文書は次の通りである。
 
     村内一統連印定約証
                                     香取郡坂村
             定約書
 右者旧来内山村ト論所之地内境界之松木這回内山村ヨリ境木伐木被致候ニ付、一同協議之上告訴上申仕候ニ付今後何様之御裁許ニ相成行候共、約定仕候上者一切変心不仕候、若違犯致候仁有之候ハヽ何程之御所分被申付候共不苦候、為後日此ニ連印之確証如件
   明治十四年二月   (連名印省略)
 
             始末書
                               香取郡坂村平民原告及川伊三郎外
                               同村四拾七名代兼
                                      同 山崎弥惣兵衛
                                      同 越川庄蔵
                                      同 及川五右衛門
                                      同 細野善兵衛
 右一同奉申上候、私村方ト続村香取内山村トノ境界字サラノコ字坂ノ台右弐ケ所ハ過ル寛文四年五月十四日幕府ノ御政断ヲ奉受、境界取極リ年月経過来リ候処、今般内山村被告林伊之吉外七名於同所ニ境界ヲ原告村方地内ヘ送リ込、明治十三年五月中勝手ニ新規ノ杭木打立候ニ付、被告方ヘ取払ヒノ義屢掛会候得共、自侭ニ而已(のみ)主張シ其打杭取払不申、依之寛文度御政断相成候絵図面持参、境界引直シ打杭取掛ノ儀勧有奉願義ニ御座候 已上
   明治十四年三月十四日
                                      右 山崎弥惣兵衛
                                        越川庄蔵
                                        及川五右衛門
                                        細野善兵衛
  東京裁判所千葉支庁管内
八日市場区裁判所長
    判事補前島道基殿
 
          坂村・内山村境界紛擾和解済口証
 右両村ニ境スル字坂ノ台ト併植ニ生立スル松木ハ、内山村林伊之吉外七名ノ者ハ所有地内ノ立木ト信シ既ニ伐採着手候処、坂村ニ於テハ右松木ハ本村官有地並ニ民有地ニ接スル境界木ノ趣ヲ以テ、数回討論ノ末坂村原告トナリ、本年三月中八日市場裁判所ニ勧解ヲ請願セリ、然而原被取調ノ上其事終ニ不受理故ニ復ヒ九月前原告坂村ヨリ佐原警察署ニ境木伐採ヲ告発セリ、因テ警察官石原元三郎殿臨視原被両村関係ノ者立会セ実地ヲ視察シ、且検分書ト図面トヲ製シ両村関係ノ者是ニ捺印シ是ヲ携帯帰署セリ、然ル処隣村左ニ記名スル者ハ当春以来両村ノ紛擾ヲ傍観坐視スル忍ズ、其間ニ入リ数回利害得失ヲ弁論スト雖トモ、其際ハ如何セン原被忿怒甚シク終ニ其事ヲ果ス不能今般ノ形勢ニ至レリ、猶再度之ヲ思考スルニ、其争フ所ノ地所ハ僅ニ壱反歩ニ至ラス松木数十本代金数十円ニ上ラス、実ニ寸地ヲ争ヒ数百円ヲ抛棄スルハ得策ト為ス可ス加之富貴患難ヲ供ニスル接続村ト怨ヲ重スルハ情実ニ於テ忍ヒサル有ニヨリ、悃々前説ヲ主張陳述シ漸ク本月八日大寺村桑田左仲宅ニ於テ原被和解ノ議初テ成リ、同月十日原被並ニ周旋人連署佐原警察署ヨリ告発書ヲ願下ケ、同月十七日和解済口証交換、後来ノ為メ其約定スル条件ヲ記載スル左ノ如シ
   第一条
一、境界接近ノ松木ハ古絵図ニ倣ヒ、周旋人立入事柄相分リ取扱候事
   第二条
一、境界ハ古絵図ニ拠リ松ノ古木切口表面五寸ヲ距リ、従来ノ古堀ヲ浚ラヒ堀幅二尺ト相定メ、境界ト確定スル事
   第三条
一、境界堀浚ラヒハ周旋人立会両村関係ノ者此ヲ負担スベシト雖トモ、原被両告虚心平気親睦協和ヲ主トシ、毫モ私心ヲ挟ミ傲慢ノ所業致ス可ラサル事
 但シ爾来堀浚ラヒハ、十ケ年ニ一度両村立会堀浚ラヒ可致事
   第四条
一、樹木植附ハ内山村ハ松ノ古木切株中心ニ植附坂村ハ松ノ古木切株表面ヲ距ル事三尺ヲ越ユ可ラザル事
 但シ将来植附ノ樹木伐採ハ各自々由タル可事
   第五条
一、周旋取扱ヒ費ハ総テ二分シ、原被各其一分ヲ負担為ス可キ事
   第六条
一、和解済口証ハ三通ヲ製シ、原被両村ニテ各一通ヲ備置シ、周旋人各村ニテ一通ヲ備置スル事
 右約定詳記スル処ノ六ケ条ハ、両村関係人ト周旋人トノ間ニテ和解結議製定スル正実ノ物ニシテ毫モ異論有ル無シ、依テ左ニ記名捺印スル者ハ誓テ違約致ス可ラサル者也
   明治十四年十月十七日
                              下総国香取郡坂村人民惣代原告人
                                       細野善兵衛
                                       及川五右衛門
                                       山崎弥惣兵衛
                                       越川庄蔵
                                 同郡内山村所有人惣代被告
                                       石井五兵衛
                                       林勝右衛門
                                       飯田覚太郎
                                       林伊之吉
                                       鈴木作右衛門
                                       村上杏斉
                                 同郡飯高村周旋人
                                       布施八左衛門
                                       山崎五郎兵衛
                                 同郡小高村
                                       萩原又兵衛
                                 同郡小川村
                                       斉藤久兵衛
                                 同郡大寺村
                                       林治右衛門
 
 こうして、村民一同誓文の上告訴にまで及んだ二百年来の難問題も、隣村有志の努力によって円満解決を迎えたのであるが、これより先き、内山村との争いについて第一回の解決をみてから、およそ一〇〇年後の安永七年(一七七八)には、同じような意見の違いが小高村との間に生じている。しかしこれは話合いによって妥結した。その内容を伝える文書には、次のように記されている。
 
     取替証文之事
一、此度小高村坂村ト之地境橋本三角芝並中芝双方及地論ニ候処、何之村之分共難相決ニ付、無是非御地頭様方江出訴仕、御吟味相願候処、双方御地頭様方御役人中御了簡を以、一先内済取組候様被仰渡候ニ付則内済取組候処、何茂 方被御申聞候者右地所両所共ニ五分五分ニ相極、芝野者先々より仕来リ候通両村ニ而相用、中境江目印之木両村ニ而植合、目印木之外相互ニ竹木等植込候儀者決而不致、右之趣ニ而致和談間鋪哉と被申聞候ニ付、則村方江致内談候所皆々承知ニ御座候、然上者以来遺恨無之右之地所ニ付相互ニ無違乱是迄之通懇意ニ致合可申候、為後日仍而如件
                                     小高村名主勘右衛門
                                     同     縫之助
  安永七戌年(一七七八)六月
    坂村妙高寺様
    小高村妙長寺様
    江府ニ而
    山崎千右衛門殿
前書之通取扱内済致落着候処相違無之候 以上
                                       坂村妙高寺
                                        小高村妙長寺
                                        山崎千右衛門
  坂村御役人中
 
 このような祖先の労苦があって、現在の平和がもたらされたものであることはいうまでもない。