多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧常磐(ときわ)村

坂(さか)

路傍の小祠・石宮など

 道祖神 字西井ケ谷五一一番地にある。鎮守社の前の道路を北ヘ一〇〇メートルほど行くと、その左側に石造の小宮がおよそ二〇~三〇個ほど、折り重なるように並んでいる。「奉寄進石宮 坂村山崎氏願主武右門 享保十己巳年(一七二五)十一月十五日」とあるもののほか、天保・嘉永などの年号がわずかに断片に見えるだけである。
 馬頭観音 道祖神からさらに北ヘ一〇〇メートルほどの所で、字出戸五三四番地の傍である。街道追分地点になっている。「馬頭観世音」と刻まれた小宮を中心に一〇個ほどの断片が立っているが、奉納の時代や願主の読み取れるものはなかった。
 そこから少し離れたところに石の道標があって、それには「文政五年午(一八二二)十一月 当村舛屋右兵衛建立 松崎山倉香取佐原道 仁良神生小見小見川道 飯高内山野手八日市場道」と刻まれている。
 天神社 馬頭観音から左方へ二〇〇メートルほど進むと、右側の山林中に古墳状の小丘があり、その頂上に木造小宮が安置されている。地番は、字天神後五三六の一の二である。
 神名もなく、造立年月日も知ることはできない。傍らの石の手洗いに「奉納 文政二年卯(一八一九)六月十五日 当村氏子中」とある。
 及川寿蔵碑 学問の神を祀る神域にふさわしく、同敷地内に、この村が生んだ和算の師匠及川寿蔵の碑が建てられているが、これは、もと字谷三九九番地の旧宅にあったのを、昭和三十年頃現在地に移したものであるといわれている。
 寿蔵は、幼い頃から算学を好み、独学でこの道を極めたといわれているが、次の初代香取郡長大須賀庸之助撰文になる碑文によって、その人となりを伺い知ることができよう。
 
今玆明治廿五年壬辰及川翁齢過古稀老建矍鑠其所嘗授算数弟子等将為翁営壽蔵以表教導之恩於不朽以余嘗長于本郡知翁平生弟子等来請余文翁少潜心算数孳々刻苦遂究藴奥 以此授徒為解諭諄篤能通其術者数十人宜乎弟子感激以及斯挙也翁壮歳為里正在職若干年会計精覈村民絶無間言乎簿書期会之際焉亦可以見其清廉而算数精敏世翁名某称半右衛門北総香取郡常磐村人翁及弟子皆淳樸少華余亦不欲渉溢美故文辞従簡云
   明治廿五年歳在壬辰夏六月
    衆議院議員正八位大須賀庸之助撰
                                     東旭斉題額 林覚次郎書
 
 稲荷社 字辺田一〇〇三番地に祀られている。杉木立に囲まれて朱塗りの鳥居が立っているが、そこからさらに一〇メートルほど急坂を登った所に欅造りの社殿がある。これが『高山家系図』と『松崎神社日記』に載せられている稲荷社である。
 明徳二年(一三九一)に高山家で坂東稲荷(松崎神社)から勧請したと記録に残る当村最古の社で、衣食住五穀成就の神である。社殿前にある石の手洗いには「御宝前 文化十四丑(一八一七)斉藤幸右衛門」石の燈籠には「文政六未(一八二三)九月吉日 奉納御神燈 及川幸衛門」と刻まれている。現在この社の祭事は、所有者である鈴木家によって丁重に行われているという。
 蔵王権現 字蔵王九四六番地にあって、榊の老樹の下に小さな石宮が二基建てられている。いずれにも神名は見られず「安政六年(一八五九)十二月吉日方田太七」「明治四未十二月日」とそれぞれに刻まれているのみである。
 産土社を含めて村内の七カ所に権現社があり、「七所権現」と呼ばれているという。