多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧常磐(ときわ)村

東松崎(ひがしまつさき)

教育文化・人物など

 杜城(とじょう)図書館
 明治三十六年十二月に、文学博士林泰輔と長男誠一によって、字戸城一九五二番地の宅地内に創立された香取郡最初の私設図書館である。
 その設立趣意書には、「一国の文明を発達せしめんと欲せば、独り之を都会にのみ求むべからず、必ず地方僻遠の郷に至るまで教化普及し、国民の智徳上進するに非ざれば、能はざるなり。
 教化の普及は、学校の設立にあることは勿論なれども、学校と相まって文明の発達を助くること尤も大なるものは、図書館にしくものなし。これ図書館の必要欠くべからざる所以なり(以下略)」とあり、利用方法は次のようなものであった。
 
     杜城図書館告示
 一、本館ハ文学教育法律農業理学他百般ノ学術技芸ニ関スル図書新聞雑誌等ヲ蒐集シテ広ク公衆ノ閲覧ニ供ス
 一、年齢十二歳以上ノモノハ何人ト雖本館ニ来リ、無料ニテ閲覧スルコトヲ得ベシ
 一、本館ハ毎日午後一時開館シ、午後四時半閉館ス、但シ日曜日大祭日ハ午前八時半開館シ、午後四時半閉館ス
 一、別ニ定ムル所ノ手続ニヨリ、図書ヲ館外ニ携出スルコトヲ得ベシ
 
 その蔵書は、和漢書一万二三〇冊、洋書三五〇冊で、雑誌などを合わせるとその総数は一万六千余冊に上ったという。
 館の運営はもっぱら誠一がこれに当っていたが、わずか二年後の明治三十八年一月二十日に二十八歳の若さで病没した。その後は、同館評議員の一人である林為次郎が主事となり、泰輔・誠一の意を体して鋭意その経営に努めた。
 館長泰輔が大正十一年四月七日に亡くなった後、同十四年に県立図書館が新築されたことを機会として、同図書館初代司書片岡小五郎の奔走により、杜城図書館蔵書は県立図書館内に「林泰輔記念文庫」として寄贈され、ここに二十数年の歴史は閉じられた。
 そして木造建物は、その後栗源町大畑に移されて、現在も公民館として使用されている。
 なお、『常磐村郷土誌』には次の記録が残されている。
 
     私立杜城図書館(明治四十三年)
 本館ハ常磐村東松崎塙ニアリ、明治三十六年十二月ノ創立ニシテ同地林泰輔同誠一ノ企画経営ニ成ル。館舎諸般の設備殆ド間然スル処ナシ。図書現在数和漢書四千五百部九千余冊、洋書百余部百五十冊ニシテ、雑書ヲ合スレハ一万部ニ余レリ。地方教育ノ一機関ニシテ特ニ青年補習教育ニ資スル所少カラズ。明治四十年十二月、香取郡教育会ハ館主林泰輔ノ篤志ニ対シ之ヲ表彰シ、辞典一部ヲ贈ラル
 
 林泰輔
 安政元年(一八五四)九月二十六日、父名主八十八母かねの長男として、東松崎一九五二番地に生まれた。
 明治初年頃、御所台の螟蛉塾で並木栗水から漢学を学び、同十六年に東京帝国大学古典講習科漢書課に入学したが、時に三十歳であった。優等の成績をもって卒業の翌二十一年から第一高等中学校、山口高等中学校教授を歴任し、同二十九年には東京帝国大学助教授に迎えられた。
 そして、同三十二年四月から大正十一年四月七日に亡くなるまでの二十三年間、東京高等師範学校に教授として在任したが、その間文部省国語調査委員会委員、国語教科書編集委員、教員検定委員会委員としての重責を果たし、大正三年七月には「上代漢字の研究」と題する論文によって文学博士となった。満六十歳のときである。
 さらに、同五年七月に「周公とその時代」に対して帝国学士院から恩賜賞を受け、その研究は一段と深いものとなり、同七年五月には勲六等に叙されて瑞宝賞を賜わった。
 博士は資性温良篤実で、その学徳は人に優れ、身は郷里を離れていても常に地方風紀の向上に意を注いでいたところから、私財を投じて図書館を設立したものである。
 大正十一年四月七日病を得て没。満六十八歳であった。

林泰輔肖像

 平山僊吉と「新聞縦覧所」
 慶応二年(一八六六)五月十五日に、前項林泰輔の弟として同地に生まれた。初めは仙吉と名付けられたが、後に僊吉と改め、同村内の平山万吉の長女と結婚して平山の姓となり、家業の雑貨荒物酒小売業を営んだ。
 大正八年には香取郡郡会議員に選ばれたこともあったが、文人としての活動が大きく、農村文化の向上を図って、私費で、字館下二二四〇番地の一に、各種の新聞を揃えた「新聞縦覧所」を設け、村民に開放した。
 このことについて『常磐村郷土誌』は、「常磐村東松崎字タテシタ(館下)ニアリ、明治三十九年六月開所、同地平山遷吉ノ施設ニ成リ、常ニ多クノ新聞ヲ備ヘテ縦覧セシメ、以テ地方風教ニ資セリ」と述べている。新聞が唯一の報道機関でありながら、それさえ自由に購読できないという、当時の農村不況下における社会奉仕の快挙であった。
 縦覧所は「たてしたの新聞」と呼ばれ、一般大衆向きの本や雑誌・俳句・短歌などの文学作品も置かれ、村の人々に親しまれていたという。
 僊吉はまた、若い頃から俳句に親しみ、当時俳壇の新星児とたたえられた正岡子規の同人となって活躍し、子規と取り交した書翰は子規全集に集録されており、その筆名「煙霞郎」の名は広く伝えられている。
 大正十二年一月十三日六十七歳で没したが、作品の一つに、次のようなものがある。
 
  「山畑や梨の古木の帰り花」  煙霞郎
 
 なお、僊吉の遺作集は、県立図書館内の「林泰輔記念文庫」に保存されている。