多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧常磐(ときわ)村

東松崎(ひがしまつさき)

路傍の小祠・石宮など

 集落内には、各所に民間信仰の所産といえる次のような小祠・石宮・顕彰碑などがある。
 道しるべ 多古から山倉に向う県道と、柏熊からの町道が交わり、顕実寺参道入口にもなっていて、村のおよそ中心地といえるところ(字松葉一九一〇番地付近)に、常磐村時代の道路元標が建てられているが、それと並ぶように石造の道しるべがあって、「東豊和古城旭町美ち、玉造秋山丑吉 石井幸太郎 秋山太市 佐藤太一 秋山春次郎 実川   北山倉八都小見川道、塙秋山多重 佐藤熊吉 平山安次郎 岩部畔蒜勝蔵、西栗源久賀佐原み地、塙林新一 石井石五郎 林佐助 佐藤佐祐 林甚一 佐藤春吉、南中村多古成田  、南玉造石井由次郎 太田熊太郎 富澤源蔵 宮本飯田久 方田平山吉蔵 平山金蔵 関西観光記念 大正十四季三月」と刻まれている。
 もう一つの道標が字今宮二〇三三番にあるが、そこは山倉へ通ずる旧街道の一角である。「南中村多古成田芝山道 東松崎神社大寺鏑木道 西柏熊  久賀道 大正六年十月 塙青年分団建之」の文字が刻まれている。
 八幡社 字戸城一九四七番地にある。城址といわれる台地突端部にある石宮で、その下には金の鵄が埋められていると伝えられ、幾度か探索したこともあったという。
 また、台地の下を通る県道からこの社に通ずる坂を八幡坂と呼んでいるが、かつて隣接地の林家で酒造を行っていたころ、夕方仕事が終って一杯呑みに行った村人が、帰りは酔歩散慢、名残りの舌打ちをしながら下りて行ったということから、別名舌打坂とも呼んだという。
 勧請のいわれや年代も不明であり、石宮の刻字も読み取れない。祭神は応神天皇である。
 道祖神 字仁良切八九四番地と、字館下二一九八番地、字館下二二六二番地のほか、前記の松崎神社わきのものを含めると、都合四カ所にある。
 字仁良切にあるものは、厳島神社前から松崎神社へ向う旧道沿いで、四基ほど並んでいるが、刻字は読み取れるものが少なく、かろうじて「文久四甲子(一八六四)四月吉日」の文字だけが読める。
 また、字館下二一九八番地の墓地入口の道沿いに石宮が三基ほどあるが、いずれも刻字は読み取れない。
 むかしこの道は隣接の山倉へ通ずる街道で、また顕実寺詣での街道でもあり、旅人の守護神として祀られたものであろう。
 いまも、鼻緒を切られた草履が二、三足供えられている。足の病いで祈願した人が、念願成就のお礼に供えたものであろうが、この宮の祭礼を行っている佐藤氏も、そのいわれは不明であるといっている。
 そして、字館下二二六二番地にあるものは、柏熊へ通ずる旧道沿いで、道路改修のために、道路より一・二~一・五メートルほど高い所となり、よほど注意しないと見つけにくい。
 十基ほどあるが、刻字の読めるのは「弘化四未年(一八四七)正月吉日」と刻まれた一基だけである。
 三夜講塔と頌徳碑 字大山二一六九番地にある。山倉への旧街道と、字西岱の畑地を縦貫する道路が交差する所で、道標、頌徳碑と併立している。「南無大日天王守 文政八季乙酉(一八二五)三月良辰 奉祈誦自我偈十二万巻 郷中二十三夜敬礼」の刻字が見られる。
 右の三夜講塔と並んで頌徳碑があるが、これは海上郡椎柴村猿田(銚子市)の人で、鳳来軒と号した萩谷健司翁の遺徳をたたえたものである。
 翁は明治初めから農具や肥料の改良実地試験などを行い、新農業技術の普及改良につとめた人で、その教えを受けた及川長五郎たちが翁の頌徳のために、大正五年に建立したのがこの碑である。そして、これと並んだ道標には、「北山倉ヲ経テ香取佐原小見川ニ至ル、南川島中村ヲ経テ多古町ニ至ル、東松崎神社土仏ヲ経テ八日市場ニ至ル、大正六年塙青年分団之建」と刻まれている。
 庚申塔 字手次一四六〇番地の一に三基あり、山倉に向う県道沿いの丘の上にあるが、道路が改修される以前は、旧道の平坦な場所であったという。
 その二基にはそれぞれ「松崎村講中十四人 先達般若寺平野与五右門 同姓摠兵衛 同姓嘉兵衛 同姓長右門 同姓金右門 同姓庄右門 享保十四己酉(一七二九)十月吉日 平野僖右門 佐藤七郎左門 同姓吉右門 同姓七郎兵衛 同姓七郎右門 高山茂兵衛 越知川六右門」「奉納経六十六部  処天下和  天明九己酉年(一七八九)日月清明正月吉日 願主松崎村八与」と刻まれているが、他の一基は読み取ることができなかった。
 観音堂 字手次一四九八番地の一に一宇の堂が建っているが、これは観音堂である。八日市場市へ通ずる県道の曲り角で、境内が大きく道路に向かって広がっている。
 堂の軒先に貼られている千社札には「東京本郷思成堂」「東京新橋駅前ゴンダ」などがあり、近年まで千社参りが立寄って参詣していたものであることを物語っている。
 この観音堂について、『常磐村郷土誌』は次のように記している。
 
 初メ松崎神社境内ニアリシガ、維新後普門院ニ移シ后更ニ今ノ地ニ転ズ、建立年月詳ナラザルモ明治三十年三月二日本尊観音像洗 ノ際其腹部ニ蔵セシ古文書ニヨリテ知ラルヽヲ得ベキ古文書記スル所左ニ之ヲ録ス「右志者為作在並右近大夫現当二世也 正応四年辛卯(一二九一)九月日 仏子石見覚原」
 
 また、松崎神社神官松崎重幸の日記には
 
 寛政四壬子年(一七九二)正月朔日清天
一、正月廿六日観音堂棟上大工当村飯田延蔵弟子飯田仁兵衛、去九月四日大風ニテ前ノ壱丈二尺廻杉打堂破損ス、下ハ東方少々破候ヘ共小屋ハ大方破、此堂寛文十年戌(一六七〇)十月建立、尤惣たるき作御座候得共、屋弥大キクノキ下リ見苦敷候間此度セガイニ直ス、天井道具ノ木松十余本杉四五本天神山ニ而切
 
 このように記されていて、建築および再建の年がわかり、胎内文によって開眼の年を知ることができる。
 牛頭天王 この観音堂から二〇〇メートルほど八日市場方面に向う県道沿い(字手次一四二八番地付近)に牛頭天王がある。石宮と板碑があって「牛頭天王」の文字がかすかに読み取れる。
 風邪に罹ったとき、白紙に米を包んで篠竹に付けて供えると、不思議にその風邪がなおるといわれ、近年までこうした供物が見られたということである。
 諏訪社 字蛭内一三一八番地の一にある。牛頭天王からさらに一〇〇メートルほど東方の県道沿いにあり、古くは畑の中央あたりにあったものを、開畑に当って現在地に移したものであるが、いまはただ破損して刻字の不明な石宮が重ねられているだけである。
 祟り神と信じられて、通行人が舌を出してこの前を通る習わしがあったことから、「ベロ出しチョンマ」とも呼ばれている。
 馬頭観音 字手次一三三六番地の一二付近の林の中で、かつては農道背面の畑の中にあり、開拓されるまでその周辺は弊馬捨場であったという。葬った牛馬の霊を慰めるために建てたその碑には、馬に乗った尊像と、「天明七丁未(一七八七)十一月吉日」の文字が刻まれている。
 妙見社 字松葉一九二七番地石井家宅地内にあり、同家に、厚板に彫られた次の一文が伝えられている。「下総国香取郡塙、松崎村三軒統也 往昔者渡神之台社有之、其後文永元年甲子(一二六四)宗祖大菩薩御出之節妙法山御開眼被遊、依之石井武右衛門改之者也 宝暦十庚辰(一七六〇)正月廿八日 大工石井利兵衛彫之者也」
 さらに同家の別の古文書には『引越名称の来由』と題して「塙引越部落は 昔は西岱渡り神に居住したるものなるが領主  の矢作殿にギャクタイをされ 現在の地へ引越たる為引越と云う様になった、当時一番先きに三軒引越 其の縁をもって三軒統と云う」このように書かれている。
 こうした文書と、千葉氏の守護神でもある妙見尊が、どのような関係があるのか、その有無を含めて、不明である。ともあれ現在は個人の氏神として祀られているが、かつては、開運の霊験あらたかであったことから大勢の参詣者が訪れたものである、と家人は語り伝えている。