多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧常磐(ときわ)村

東松崎(ひがしまつさき)

宗教/神社・寺院

 この社の由緒・縁起などについては前項にも記したように、明治三十二年に十三代神官松崎四郎によってその詳細が、十二冊に分けて記述収録されているので、ここにその一部を抜粋して説明に代えたい。
 
   千葉県香取郡常磐村東松崎字稲荷山
一、郷社  松崎神社
一、祭神  宇迦之御魂命
一、相殿  邇々藝之命
      大宮比咩命
一、由緒  社伝ニ曰、光仁天皇之御宇宝亀三壬子年(七七二)二月九日勧請シ奉レリ其後建久二辛亥年(一一九一)社殿規模大ニ輪奐之美ヲ極ムト
一、社名  旧号 坂東稲荷本宮
      現時 松崎神社
一、社領  昔時三百石ナリシモ徳川幕府ニ至リテ三十石寄進ス
一、社殿  本殿間口三間奥行壱丈七尺五寸
      中殿間口三間奥行参間
      拝殿間口五間奥行三間参尺
一、華表  石造  壱基
      木造  壱基
一、手洗石 壱基雨覆付
一、境内  坪数千百四十八坪
      番地千七百四拾七番
一、所有木 番外風致木銀杏壱本
             (中略)
一、祭日  旧二月初午、旧三月十八日、旧八月初午、旧正月元日、旧正月二日、旧正月三日、旧正月七日計七ケ度
(『明細帳』より)

 当社ハ神武帝之十八年鹿島神社香取神社(目下神宮ノ称アリ)ト同時、東国土蕃之穴居代神ト称シ蠢愚蒙昧ナル人種之石宮ヲ建テ奉斉セシヨリ、漸次開国ニ従ヒ蒼生神徳ヲ称ヒ純然タル一社ヲ為シ、紀元五百六十四年崇神帝之代宇迦魂之社ト号シ、日本武尊東征之砌木更津ヨリ新治ニ至ル間交通便利タリシヲ見テモ既ニ開化ノ域ニ進ミシヲ知ルベシ、延エテ歴代之久シキ当社古文書缼残シ、紀元一千四百三十年(七七〇)乃チ宝亀元年以前ハ悠遠知ラントスルモ能ハズ、已ムヲ得ズ宝亀以后口碑ニ伝ハリシト残本ニ依リ社伝ヲ編セリ見ル人諒セヨ
 宝亀三壬子年(七七二)二月九日(午ノ日ニ当ル)神風之伊勢国度会之山田原ナル外宮ヲ合祀ス、実ニ宇迦之御魂命ト豊受姫トヲ合一シタルナリ、同時ニ相殿ニ神ヲ奉斉ス、稲梁ヲ造リ蒼生之一日モ缼ク可ラザル食物ヲ司ル神ナルニヨリ此時ヨリ稲荷之神ト称ヘ奉ル、関東ニ於テ此称アルハ当社ニ初マリ延エテ全土ニ波及セリ、深川ナル松崎稲荷天正年間(一五七三~一五九一)既ニ鎮座セリト史籍ノ徴スベキナシ、以前坂東稲荷本宮之号タル光仁帝(七七〇~七八〇)之皇子勅願所トシテ賜ハリトナリト伝ニ、此際社殿構結美ナリ、坂上将軍田村麻呂公東夷征伐之砌当社参籠鏡面及ヒ征矢ヲ納メ帰洛ノ上奏聞アリ、而シテ桓武帝(七八一~八〇五)ヨリ三百石社田寄セラル、実ニ社殿輪奐之美一層ニ加リ社人此時ヨリ員ニ加ハリヌ、現今之正月祭式当時ニ初マル。
 境内東西二十八間南北四十間道上ニアリ樹木繁茂地高クシテ夏ノ暑サ犯ス事ナシ、半里ニシテ山倉之城アリ、道ヲ西ニ社ヲ距ル十丁ニシテ台之城アリ只書史ニ依リテ伝フルノミ、降リテ長元年中(一〇二八~一〇三六)忠常之乱ニ台之城ト共ニ当社ハ火災ニ遇ヒ、三百戸有余之市街ハ一戸モ余サス、延エテ正平年間(一三四六~一三六九)社領三百石ヲ失フルヤ鏑木城之城主千葉之族ナル鏑木九郎入道殊ニ崇尊シ社田及山林ヲ寄進ス、塙之城主亦大燈籠二個ヲ奉ル、衆庶一致社殿(現今之位置ヨリ酉部)工成ル云々ト在リ、建久二年(一一九一)御供所及神楽殿造修、次テ慶長四年(一五九九)諸国ニ一里塚ヲ置カルヽヤ、下総国ハ当社北条之塚ヲ以元標ト為セリ、元和四年(一六一八)日光廟成ルヤ松崎重次土功ヲ以テ幕府ヨリ賞誉ヲ得、元禄十六歳(一七〇三)幕府山陵ヲ修スルヤ当時之神職顧問ニ聘セラレキ、宝暦十二年(一七六二)徳川家治将軍ト成ルヤ臣僚ニ命シ三十石寄進ノ社領ヲ検分セシム、尓后将軍ヨリ金帛ヲ賜フ数十度ナリ、里見家及北条氏ハ特ニ尊崇深クシテ奉幣数度ナリキ、武運長久五穀豊熟之為メ六十一年毎ニ渡海之行幸アリ、代ニ遇フ城主陣屋幕僚悉ク応分之損ヲ蒙ルモ、損ヲ為タルハ文書ニ詳カナリ、後世ニ至リ初午之典式ヲ定ム、是レ当社勧請ノ日午ニ当リシヲ以テナリ、徳川幕府覇業ヲ開クヤ代々将軍ニ玉串ヲ献ル例アリ、明治元年亦鎮将府ニ献納ス。
 末社安産神社ハ木花咲邪姫ヲ祭ル、正平(一三四六~一三六九)ノ未年火災ニ遇ヒ広大ナル建物灰燼トナリヌ、嵯峨帝之弘仁年間(八一〇~八二二)僧空海当社ニ参籠シ。曰ク吾霊地ヲ宇内ニ求ムルモ未ダ得ス坂東諸州ヲ跋渉シタル記念ヲ坂東稲荷本宮ニ残サント、手ツカラ松樹ヲ植エ及ビ携ナル処ノ銀杏之杖ヲ地ニ逆立シ、曰ク繁茂セヨト、果シテ銀杏ハ今ニ至ル「サカサ」銀杏ト称シ、明治十八年風致木ト定メラレシモ惜ムベシ松樹ハ火難ノ為メ消滅セリ、実ニ歴世ノ久シキ只缼残ノ史書ニ因リ僅ニ当社昔時之状況一斑ヲ編スルノミ。
(『沿革誌』より)

 当社ハ宝亀三年(七七二)ノ創建ト伝ヘラレテ居ルガ、古クヨリ諸人ノ信仰ヲ集メテ祭祀セラレテ居タノデアル、社殿ヲ新築シ宝亀三年二月九日初午ノ日ニ大祭ヲ執行シタノデアル。
 当地ヲ松崎ト云フガ古クハ先崎ト書キ地方デ先ニ開ケタ所ト云フ意味デアル、稲荷大神ノ鎮座ニ依テモ先進地デアッタ事ハ首肯セラルヽノデアル。
 坂上田村麻呂東夷征討ノ砌参拝シテ戦勝ヲ祈願シ、鏡一面及征矢ヲ奉納セラレタ、当時境内東西廿八間南北四十間頗ル荘厳ヲ極メタリト。
 平忠常ノ乱ニ兵火ノ厄ニ逢ヒタレトモ、諸人尊崇厚カリシヲ以長暦二年(一〇三八)社殿造営ノ工成ル、結構前ニ劣ラザリシト、此時東方一町ノ地ニ松ヲ植エ今ノ「常磐ノ松」之ナリ、俗ニ「志らせの松」ト云ヒテ凶変アル毎ニ必ラズ葉ノ色ヲ変ズル霊木デアル、翠色滴ル如キ老幹天ヲ摩シテ立ツ。
 源頼朝公ヲ始メ千葉一族等ノ武将ノ尊崇深ク奉幣数次ニ及ビタリ。
 社領ハ古キ事ハ今ハ判然トシナイガ、北條庄或ハ松崎郷ト呼ビテ可ナリ広キ範囲ニ渡ッテ居リ、南ノ方匝瑳郡ノ海岸迄及ンデ居タノデアル、時ニハ附近ノ武将ニ攻略セラレタ事モ有ッタノデアル、南朝ノ遺臣平野式部重俊家臣七人ヲ従ヘテ来リ、神主ヲ助ケテ神領ヲ回復セシ事ハ古文書ニヨリテ知ル事ヲ得ルノデアル。
 松崎ハ昔カラ神領デアッテ徳川時代迄武領ニ入リシ事ガナイ、左ノ地名ノ如キハ尤モ神社ト関係深キモノデアル
 御燈面(ごとうめん) 御膳田 祭礼当地 神谷(かみやづ) 神田 散穀田
 天正元年(一五七三)鏑木城主鏑木弾正ヨリ油面(燈明の油料)トシテ田四反山林若干ヲ寄進セラレタ。
 天正二十年(一五九二)徳川家康公ヨリ朱印地三十石ヲ寄進セラル、其際ノ文書ヲ見ルニ極メテ優待セラレ四年毎ニ神主江戸城ニ登城シテ玉串ヲ献ズルヲ例ト為セリ。
 徳川光圀ノ参拝セラレタル時ハ葵紋付錦襴戸帳ヲ奉納シ、今ニ社宝トシテ所蔵ス。
 明暦四年(一六五八)本殿ヲ改築シ、后宝暦六年(一七五六)拝殿ヲ改造シタ、現在ノモノデアル、当時ノ旧記ヲ閲スルニ諸民崇敬ノ状襟ヲ正サシムルモノガアル。
 文化二年(一八〇五)十一月右大臣一条忠良公ヨリ「坂東稲荷本宮」ノ額ヲ奉納セラル、今拝殿正面ニ奉掲ス、旧幕時代ニハ為メニ許可ヲ得テ下馬札ヲ立テタモノデアル。
 明治二年松崎大神ト改称シ同六年八月郷社ニ列セラレタノデアル。
 明治三十九丙午年四月神幸祭ヲ執行シタ、氏子二十ハケ村供奉神輿匝瑳郡野手村野手浜ニ渡御シテ国家安全五穀豊穣ノ祈願ヲ為シ、一泊シテ還御シタリ、沿道ノ拝観者無慮十万地方未曽有ノ盛儀デアッタ。
 明治四十一年カラ神饌幣帛料ノ供進ガアリ、現在ハ例祭祈年祭新嘗祭ニハ知事代理ノ参拝ガアル。
 社前ノ大公孫樹ハ逆サ公孫樹ト称セラレル、弘法大師東国巡錫ノ砌参拝シテ携ヘタル杖ヲ記念ニ地ニ挿シタルモノト云ハレテ居ル、弘仁(八一〇~八二三)ヨリ千余年不思議ニモ今ニ繁茂シテ、其奇形ナル樹容ト寄生木トハ有名ナモノデ稀代ノ名木デアル。
 「神宝木鼓」神宝ニ木鼓ガアル、直経二尺許、獣皮ニ代ユルニ樹皮ヲ以テシ釘ヲ使ハズ漆ヲ用ユ、全部木ヲ以ッテ作ラレタル太鼓デアッテ、支那古代ノ製作デアル、憾ムラクハ伝来ヲ詳ニシナイガ其形態古雅真ニ稀観ノ珍宝デアル。
 「御砂」。当社ニテハ御砂ヲ領布スルガ神徳ノ顕著ナルヲ証スルモノデアッテ不可思議ニ堪ヘナヘ程デアル、田畑ノ作物ノ病虫害ニ罹ッタ際ニ散布スレバ立所ニ元気ヲ回復シテ豊熟シ、商人等ガ昧爽人ノ起キ出デザル時ニ店前ヲ清掃シテ散布スル時ハ必ラズ大利アリト云ハレ之ヲ拝受スルモノ多シ。
 (注 北条塚の土を祈禱したもので、特に初午には、苗代の無事のため参詣の人々がこれを拝受するという)
(『沿革』より。この項は大正の頃に書かれたものと思われる)

一、徳川家康寄進状
        寄進稲荷大明神
         下総国香取郡
         松崎郷内
         参拾石事
         右令寄附就殊
         可専祭祀之
         状如件
         天正十九年辛卯(一五九一)十一月日
一、御朱印書  慶長十一年(一六〇六)  秀忠 花押
一、御朱印書  元和三年(一六一七)十一月十三日  家光 花押
一、御朱印書  寛永十三年(一六三六)十一月九日  家綱 花押
一、御朱印書  寛文五年(一六六五)七月十一日  綱吉  花押
一、御朱印書  貞享二年(一六八五)六月十一日  家宣 花押
一、御朱印書  享保三年(一七一八)七月十一日  吉宗 花押
一、御朱印書  延享四年(一七四七)八月十一日  家重 花押
一、御朱印書  宝暦十二年(一七六二)八月十一日  家治 花押
一、御朱印書  天明八年(一七八八)九月十一日  家斉 花押
一、御朱印書  天保十年(一八三九)九月十一日  家慶 花押
一、御朱印書  安政二年(一八五五)九月十一日  家定 花押
 (注、この御朱印書の写しは現存しているが、真本は明治初期に全部政府に返還したという)
(『古文書目録帳』より)

     神幸祭
   六十一ケ年目丙午年毎四月丙午之日執行ス
一、神行列次
 大榊木 壱本 但四人ニテ各肩ニス
 御旗  四流 但絹ヲ用フ
 御矛  四本 但御輿之前后ニ随フ
 神輿     但白木ニテ造ル
 社人  六人 但四人ハ神輿、二人ハ祭主ニ供奉ス
 祭主  騎馬 但帯刀之士壱名是ニ随フ
 神饌櫃 一個 但二人是ヲ荷フ
 神馬  壱頭 但神幣ヲ負フ
 世話掛    供奉
 氏子一統   抽籤ヲ以テ順次ヲ定ム
 以上自大榊木ヨリ順次列ヲ為ス
一、当日  (出社祭)  (本祭)
一、出社祭 当日午前第四時御庭ニ篝火殿内ニ燭火
 一、御祓式  拝殿ニ神輿ヲ据エ置ク供奉者一同広庭ニ参集
 一、開扉   祭主行幸出社之祝詞ヲ奏ス
 一、御出社  兼而備フル三柱之金幣及御鏡ヲ神輿ニ納ム
 一、閉扉   此間奏楽ス
 一、神輿出殿
 一、行列   大榊真先ニ社領石標ニアリ以下順次列ヲ為ス
  備考 式終ル頃天明ナリ
一、順路    天明クルヲ以テ列ヲ為シテ新里ニ向フ新里ヨリ鏑木大寺飯塚ヲ経テ八日市場着。八日市場休憩、野手村ニ至ル、野手海岸ニ於テ本祭執行。
一、本祭 五穀豊熟、漁業繁昌、子孫長久の祈禱、祈禱了后神職神符ヲ出札ス
     本祭次第
  一、神輿ヲ据奉ル右ニ御榊、左ニ御矛四方ニ御旗、社人及諸掛祭主ニ随フ。
  一、神供祭主社人ヲ督シ神供ス
  一、祝詞ヲ奏ス此間一同皆礼
  一、撤神供、神主以下休憩ス
 一、神輿泊
  一、本祭執行了後野手ニ一泊ス
一、還幸 大榊ヨリ以下順ヲ以テ帰社之途ニ上ル
  一、野手ヨリ八日市場松山吉田ヲ経テ安久山ニ至ル
  一、安久山休憩
  一、安久山ヨリ川島ヲ経帰社
 一、帰社祭
  神輿ヲ拝殿内ニ納ム
  随行一同広庭ニ参集
  奏楽
  開扉、但第一ニ神社開扉次ニ神輿開扉
  遷帰 金幣御鏡ヲ納メ奉ル
  祝詞 帰社之辞ヲ奏ス
  閉扉
  奏楽
 一、御砂払
  大直会式執行
   一、氏子供奉一同ヘ酒及ヒ干餅ヲ分与ス
 一、氏子随行村 西田部 小川 大角 山倉 新里 桐谷 鳩山 鏑木 万力 秋田 大寺 高萩 三倉 次浦 古内 寺作 御所台 井戸山 高津原 大門 飯笹 出沼 桧木 大浦 長岡 山桑 抽籤ヲ以テ順次ヲ定ム
 一、祭主服装 白絹ノ衣、白絹ノ帯 白絹ノ足袋 冠黒色単(白絹ヲ用フ) 袍裏付 差貫 履(鳥皮寫ヲ用フ)
 一、社人仕丁服装 社人服 仕丁服 総テ麻ヲ用フ、色白 草鞋ヲツク
 一、神輿 白木ヲ以テ造ル鍍金金具ヲ全体ニ打ツ、三柱之金幣ヲ奉ス
 一、幣帛 二本、長各二 、神馬用、但白木ニ金具ヲ着ク銅幣ヲ付ス
 一、御鏡 経三寸内外、但御霊ヲ乞祈奉ルタメ箱ニ奉ズ
 一、神饌櫃 三尺ニ弐尺錠前付 但四ツ足ナリ
 一、小三宝 五個
  以上寄附金ヲ以テ是ニ充ツ
 一、経費 満一ケ年前氏子ヨリ寄附ヲ募ル
(以上)
  前代之記録遵守シ恒例之故典ヲ失ハズ弘化参丙午(一八四六)四月十九日丙午之日執行以テ後世之規トス
  神幸祭、祭主松崎大中臣朝臣重幸 花押
(『行事録』より)