多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧久賀(くが)村

十余三(とよみ)

御料地

 明治政府は下総牧々の開拓を開墾会社に委任した明治二年、各牧の馬をことごとく取香・小間子の二牧に集めて牧野として残し、その他の十牧を農地として解放することになった。
 同五年に、開墾会社が開拓事業を放棄して解散するという事態にたち至ったとき、その代償として馬とともに小間子牧は会社関係者に無償で払い下げられ、残されたただひとつの取香牧は、下総牧羊場と取香種畜場との二つを併設して新しく発足することになった。しかしその経営は思うにまかせず、ましてや諸制度の改変が激しかった時代であったため、その所管もまためまぐるしく変っていった。
 初年は会計官の所管するところとなっていたが翌年には民部官の所管となり、いくばくも経ずして民部省、そしてさらに大蔵省通商司の取扱いとなり、同四年には同省勧業寮から勧農寮、勧業課と変転し、七年には内務省勧農局となるなど、常に一定することがなかった。したがってその経営もおろそかにならざるを得なかったのである。
 同八年になり、政府は畜産の発展と普及の必要性を痛感し、取香牧の拡大と充実を図ることになった。政府の内命を受けて取香牧を視察した岩山敬義(初代牧場長薩摩藩士、西郷隆盛の義弟という)は、次のように上申している。
 
 現在政府で所管している元佐倉七牧の一つである取香牧は、青草に恵まれ牧羊場として適当であるが、面積が千二百町歩で狭少である。しかしこれに隣接している高野牧、内野牧、矢作牧のうち二千町歩をこれに合併すれば、三千二百町歩となり面積として充分である。
 この地域は南北三里東西一里に及び、東京よりは陸路十八里の距離にある。取香牧以外は現在廃牧となっているが、以前の土手や水呑場、日陰林等は残存しているので、多少手を加えれば立派な牧場になる
(『下総御料牧場史』より)

 このようなことから同八年十月に、いったん払い下げられた牧の開拓地は牧羊場用地として再び買い上げられることになった。矢作牧の内で中沢彦吉所有の十余三村壱番は、現在の御料地区と大栄町の一部が用地に当てられ、その面積九三二町歩が代価一〇、八五九円で買い上げられている。
 明治十八年になって、政府は牧畜事業の不振を憂え、長期にわたっての研究と、振興対策の緊急性に対処するため、その所管を農商務省から帝室所管とするように上奏した。
 明治天皇はかねてより牧畜経営には深い関心を寄せられ、既に二度に及んで下総の地に行幸されていることなどから、宮内省はこれを直轄の牧場とすることに決定し、新たに駒之頭区一町五反歩の近接地を買い上げて御料地として管理することになった。
 こうして宮内省の所管となった下総種畜場も、同二十一年には宮内省主馬寮の所管するところとなり、名称も「下総御料牧場」と替った。牧場各地区の名称もまた替って、駒之頭区は「下埴生第二御料地」と呼ばれて牧羊場となった。
 この年の十二月に牧羊場の飼養管理の改善が行われ、綿羊の飼養は駒之頭区の新堀木戸を境界として、新堀・高堀・飯笹入の三つの字の地域を牧羊地にあて、羊舎二棟を設けてもっぱら育羊の事業が行われることになったのであるが、その成績は良いものとはいえず、次第に縮小の一途を辿っていった。
 畜主耕従の方針もさることながら、広大な面積の維持管理はきわめて困難なことであったゆえもあって、同四十四年に政府は、牧場敷地の内で遠隔地のため使用しない土地を、五カ年に限って貸与するという「有限貸付令」を通達した。
 このようにしてようやく十余三三八五番の字は「御料地」と呼ばれ、再び開拓の鍬下しとなった。しかし、大正十二年の事業縮小の際には、左の資料に見られるとおり二、〇四四町歩が不要存御料地として帝室林野局へ移管され、不要存地として処分されることになった。
 
 一、既貸付地並びにその四囲等にある樹林地は、立木と共に不要存御料地処分令に依って、それぞれ資格者に払い下げること。
   久賀村   二二九町四反七畝歩
   多古村     二町〇反〇歩
   本大須賀村 四一一町二反八畝歩
(『下総御料牧場史』より)

 明治四十四年の有限貸付令によって入植した人々は、大正十二年に出された不要存地処分令によって開拓の領域が拡げられ、ようやく独立農家としてその地歩を固めることができるようになったのである。
 この御料地は、ところどころ黒松の大木がそそり立つ一面の芝地であった。高麗与三郎・平山謙之助・根本大助・卯田平治郎・林寅松・伊藤忠治・行橋喜利蔵・土屋勘七など十余三からの移住者、または次三男の分家、あるいは十余三開拓の先駆となった古城村や鏑木村からの入植者が開拓の第一陣となっている。
 御料牧場では、畜主耕従の方針に従って畜産部門の充実に力を入れ、耕作地は漸次縮小するという方向にあったため、野草乾草あるいは厩舎の敷藁などが不足を来たすようになったことから、貸下げ地を耕作する農家に対して麦や陸稲の脱穀機やその他の新型機械を貸し付け、その代償として麦桿や藁を確保しようと図り、さらに牧場の正規職員にも土地を貸し付け、農夫としてもこれらの生産に従事させるなどの対策をたてた。
 また、小平一松という長野県出身者は、厩舎を建てて牧場から駄馬の払い下げを受け、馬耕による開墾を試みたが、その成果は見るべきものがなく、その住居を伊藤太吉に譲って、間もなく脱落したというようなこともあった。
 開墾はかなり重量のあるトンビ鍬を使い、ただ肉体労働による以外に方法はなかった。土地を右左に切り込んでその下をすくい、ちょうど刺身を切り揃えたようにしてから正面に鍬をふり下し、それを後方に放り投げるというやり方である。その切り取られた表土は、やがて乾燥するのを待って女達がまんのうを振りかざして叩きほぐし、草木の根をかき集める。あるいは大木の切り株を力の限りに掘り起こす。まさに体力の限界にいどむような苛酷な労働であり、言語に絶するものといえよう。
 開拓はもとより頑健な体力を必要としたが、それにもまして強靱な意志と不撓不屈の魂が要求されるとともに男は強さを誇り力を自慢し、女もまた仕事の能率を競い仕事の強さに誇りをもった。
 十余三開拓と御料地開拓のいずれにしても、開拓者として最終的にそこに定着できるのは、結局は農家育ちの農民だけで、他からの転植者にとっては至難の業であった。
 このことは、大正元年から五年にかけて、近隣の村々や九十九里沿岸、鏑木村などから十余名の入植者があっただけで、その入植は牧場側の予想どおりに進まなかったことからもわかる。
 大正元年に御料牧場では、貸付対象地を一括して一鍬田の椎名善太郎、大竹久兵衛などに貸し付けた。牧場経営の結果によっては、再び牧場用地として使用するという予測もあって、旧村の有力者に諸条件を示して仲立ちをさせる形式をとったものである。
 
  住居は掘立小屋形態とすること
  深井戸は掘ってはならない
  立木は大木に育ててはならない
 
 これらを条件として、いつでも移転が可能であり、牧場用地としてすぐに利用できる状態を維持することを求めたのである。
 さらに貸付期間は一カ年として、一年ごとに更新するということになっている。
 
     土地継続拝借願
下総御料牧場内
 駒ノ頭区字高津原十二号ノ二
一、畑地壱町七反拾弐歩
  借地料一ケ年金四拾弐円六拾銭 但一反歩ニ付金弐円五拾銭
  借地期限 [自大正十一年 一月 至〃 〃  十二月]
 右畑地借用仕居候処、本年十二月ニテ期間満了ト相成候ニ付、尚引続前記ノ期間借用仕度候間、御許可相成度此段奉願候也
   大正十年十二月廿日
                                      千葉県香取郡古城村鏑木
                                           林九十郎 印
  下総御料牧場長
    新山荘輔殿
(朱印)
 願之趣聞届候条借用證差出ス可シ
   大正十一年一月四日
                                   下総御料牧場長 新山荘輔 印
 
 この願い書は、宮内省主馬寮の出先機関(三里塚牧場内)に提出されたもので、借地料は大竹・椎名などを通じて支払うことになっていたが、大正十二年に不要存地処分令が発令されてからは、御料地開拓地は帝室林野局へ移管され、借地料は林野局へ納入することになった。
 借地料は郵送を原則とし、毎年九月に帝室林野局会計分任官名をもって納入告知書が届けられ、同三十日を期限として麹町区宮内省内・内蔵頭宛に郵送することになっていた。
 しかし黄塵土沙を巻く風災、炎天酷暑の干害のため収益は上らず、反当り二円五〇銭の借地料の支払いは決して容易ではなく、二頭馬車に乗った宮内省吏員が各家々を回って、滞納の取り立てを行う姿もしばしば見られたといわれている。
 どこの開拓地でも、入植者が最初に遭遇し困惑するのが風災であったことから、防風林の保存と植林が第一の仕事とされた。
 御料牧場では大正の初年に黒松の虫害が著しく発生したため、その対策として杉を混植するほか、新植には虫害の少ない赤松を植林した。現在御料地区内に残存する防風林は、大正二年に補植されたと記録されている。
 大正十四年、普通選挙制度が施行されるに当り、御料地は戸数三〇戸を数えるに至ってようやく一区を形成し、久賀村に編入されることになった。
 御料地開拓として同じ状況下にあった現在の新堀・筋ケ谷・三区と称する地域もまた、入植者の自由意志によって、一連の防風林を境界として本大須賀村に編入された。
 こうして、久賀村御料地として発足して以来昭和二十年に至るまでの間、分家あるいは転入によってさらに十数戸の増加を見るに至り、戦後すなわち昭和二十年以降戸数は漸増し、現在は、数戸を除く大部分は農業を専業として、植木その他各種園芸作物の優良品種を生産している。
 昭和五十九年現在の集落の戸数・人口は次のようになっている。
 
   戸数八三戸     人口 男一七八人 女一七九人、計三五七人