多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧久賀(くが)村

十余三(とよみ)

 十余三村は、開拓当初印旛県に属して埴生郡十余三村と称した。同五年には戸籍編成のための「区」が再編され一〇大区一三小区の所管となった。そして区内の戸籍を収集するための戸籍吏として取香光長(取香村)が戸長に選任された。
 さらに同十一年には郡区町村編成法が制定され、埴生郡は下総・上総を二分して下埴生・上埴生に分割されることになり、千葉県下埴生郡十余三村として佐倉郡役所の管轄となり役所を遠山村に置くことになった。
 こうして町村の編成が進むうちにも十余三村の人々は開墾にいそしみ、同十三年になって開墾組合を結成、初代組合長に金杉又右衛門を選んだ(なお金杉は、同十九年には十余三村村会議員に選出されている)
 産業もこの頃になると、落花生やサツマ芋なども作付けされるようになったが、生産の主位を占めるのは茶であった。これより以前の明治八年に千葉県は「県治方向」として「山城近江等ニ産スル精美ノ茶種若干石ヲ買上ゲ、人民ノ茶ヲ培養スベキ土地ヲ有シ、且志アリテ資力ノ乏シキ者ニ一戸五斗ヲ限リテ之ヲ貸シ渡シ、其ノ代価ハ三ケ年賦ヲ以テ漸次還納セシム……」と茶の栽培を奨励している。
 村にも茶業組合が設立され、惣代に金杉又右衛門、販売人宮本栄治郎、製造人戸村久三郎などの名が記録に残されている。
 このようにして次第に村の組織化も進み、生産活動を通して住民相互の連帯感が芽生えて来たのである。
 明治二十二年四月には郡区町村編成法によって町村の再編が行われることになったが、地域が成田・本大須賀・久賀と広域にまたがる十余三村は、その所属をめぐって大混乱を生ずる事態となった。特に字壱番は本大須賀村に隣接しており、開村以来その管下にあったため、当然ながら本大須賀村への編入とみられた。
 また村内に土地を所有するものも多数いることから複雑な事情もからんで、村民の間には議論百出したという。しかし、入植者の多くは久賀村地域の次三男や縁故者であるため大方は久賀村への合併を希望した。
 さらに各村々には、開拓地の住民を毛嫌いする風潮が露骨になって現われ、開拓地のところどころに合併反対の動きさえ見られた。十余二村における合併反対の動きはことさら激しく、そこには、次の文書に見られるように、新住民排斥の意図が明らかに示されていた。
 
     十余二村トノ合併反対盟約書
 然リト雖トモ我組合タル十余二村ニ於テハ明治以来ノ新村ニシテ、已往熟地村落ト位ヲ同ナスヘキモノニ非ス。如何トナレバ地租未定、人情稀薄、習慣ノ悪弊一モ取ルモノナシ。市町村ノ精神ニヨレバ、彼レ短トスル処我之ヲ補ヒ我長スル処彼ニ譲リ、而シテ共同団結ノ域ニ至ルモノト言フベシ。然ルニ我ニ益アリテ我ニ害アラバ何ヲ共同団結ト言ハム……
(『柏市史』より)

 こうした状況の中で、十余三村壱番においては何れに合併すべきか論争が続き、ついには久賀村への合併となったのであるが、その間の事情について史料は次のように語っている。
 
     町村合併願書
…然ラバ我地赤池ノ如キハ前陳ノ地形ニシテ殊ニ戸数僅カ五十余戸、然ルニ今ヲ去ル十七年前昿漠タル原野ヲ開墾シ以ツテ一部落ヲ為スト雖モ、地味瘠悪ニシテ収益少キノミナラズ最モ貧民ノ衆合ニシテ到底一村ヲ独立維持スルハ能ワズ。此ノ際他ノ町村ニ合併相成様致シ度ク候。然ルニ本村字赤池ハ香取郡久賀村及前林村沢村ニ連接セルヲ以テ其ノ一ニ合併スヘキハ勿論可有之、然ルニ右久賀村ノ如キハ従前数村ヲ合併シタルモノナルヲ以テ同村内ト雖モ距離甚ダ遠ク、沢村ノ如キハ距離ハ前林ニ略ホ彷彿タルモ途中悉ク原野ニシテ加フルニ道路ノ行程最モ多シ。然ルニ前林村ニ至リテハ道路誠ニ平坦ニシテ過半ハ耕地ノ間ヲ通ジ路傍ニ二三ノ民家点在シ、児童通学ノ便宜等ニ至リテハ遠ク久賀村沢村之及ブ所ニ非ズ。我赤池ニシテ愈々香取郡ニ相成候上ハ可成前林村ニ合併相成様致シ度此ノ段奉願上候
   明治廿一年九月廿日                           総代人 宮本 栄治郎
                                           戸村 久三郎
                                           平山源右衛門
                                           金杉又右衛門
  香取郡長 殿
 
 この合併願書の案文は本大須賀村によって作成され、むりやり署名させられたとしているが、十余三村の入植地を除く山林原野を本大須賀村に編入して、住民を排除しようとした意図を見ぬくことができなかったのである。
 この処置に激昻した十余三村の住民は、こぞって久賀村への合併へと動き出した。翌二十二年に、次のような県知事への願書が差出されている。
 
     御願書
                                元下埴生郡十余三村壱番区字赤池
                                       人民惣代 金杉又右衛門
                                            平山源右衛門
 奉申上候。今般町村制度法御発布ニ付キ、下埴生郡十余三第壱番区画字赤池土地人民香取郡久賀村ヘ合併之主旨、昨廿一年十二月中同村戸長役場ヨリ相被達、赤池人民一同素願貫徹上意御処誠深ク奉感佩喜悦罷在候処、此程仄ニ伝聞スルニ我十余三村壱番区画ハ、字道祖神ヨリ字長渡リ旧野馬土手ヲ境堺ニ、接続地字城山長窪迄之土地分割香取郡前林村ヘ地籍編入ノ由人民一同恐愕仕リ、久賀村戸長役場ニ出頭実否聞糺候処、此ノ儀ハ久賀村前林村沢村戸長之見込案上申之次第申聞被候得共、十余三村壱番区画ハ元授産方東京京橋区南新堀一丁目四番地中沢彦吉ノ所有地ニテ、村内人民授産ノ恩沢ヲ蒙リ細々生産ヲ揚ゲ今日迄生活ヲ遂ゲ永続仕リ来リ候処、字道祖神ヨリ字長渡以西前林村ニ編入相成候テハ、別紙図面ノ通リ字長窪三百九十二番同三百九十三番合併之共有墓地六反歩、並金杉又右衛門外五十二名共有地三反歩、及中沢彦吉所有地我赤池人民救助ノ為無代償ニテ貸渡シ相成候原野二十五町歩余、悉皆他村之地籍ニ相成候テハ畑作蒔付秣灰肥等自然闕乏ヲ来タシ、其ノ他薪炭及主ナル物産モ漸次ニ減耗シ素ヨリ新開ノ窮民、愈々以テ衰頽(スイタイ)ヲ醸(カモ)シ夫妻離散ノ境遇ニ立至ルモ難斗(ハカリガタキ)ニ付、元授産方中沢彦吉所有地番時(ママ)牧羊場ニ御買上ニ相成候分、且他村ヘ売却ノ土地西南ノ極端字長窪迄ノ土地ハ番号順次相接続シ、一ケ所タリトモ他村之地籍ニ編入相成候而ハ番号錯雑ヲ生ジ、殊ニ明治廿八年迄ハ鍬下年季中丈量済之開墾地将来ノ不都合申迄モ無之候間、前書図面之通十余三村壱番区画内ハ純地悉皆久賀村ヘ合併之主儀。香取郡庁ニ出頭仕リ候処数日ニ至リ而茂……(中略)
 ……村民一同日夜苦心焦慮ノ余リ、前記申上之通リ我赤池ノ土地ハ番号順次接続致シ候地故分割無之、久賀村江合併相成様出格之心御仁恤ヲ参考仰度此段奉願上候
   明治廿二年五月廿三日
                                          右 金杉又右衛門
                                            平山源右衛門
 
 村議会もまた険悪な事態を憂慮し、村議会の議決として郡長へ次のような請願書を提出した。
 
     請願書
                                           香取郡久賀村会
一、抑々我十余三村字赤池トハ十余三全体ヲ総称シタルモノニシテ、其全体幾何ヲ分割シテ本大須賀江分属スルハ、十余三人民ノ不利益ノミナラズ及テ地形ヲ能クセサレバナリ。其ノ地籍タルヤ接続ノ地ニシテ飛地ニアラザレバ、本大須賀江分割スルハ甚ダ不当ノ次第ナリ。殊ニ十余三人民ヨリモ、全体ノ区域ヲ保存シテ本村ニ編入シ自治ノ団体ヲ組織イタシ度旨申出モ有之、旁異議百出、結局十余三一部落ヲ保存シテ我本村ニ編入セラルヽ様村会ノ決議ニ候間、右ニ対シ御処分有之度、此段奉請願候 以上
                                        右村会議長 津島宇左衛門
  香取郡長 大須賀庸之助 殿
 
 この後日については、村長日誌からその結末についてたずねてみると、
 
 明治廿二年六月十九日 晴陰交替 昨十八日ニ  タリ本日午前七時出勤、即使丁ヲ十余三区ニ走ラセ下埴生郡遠山村々長役場ニ向イ十余三区関係ノ諸帳ボ提携ノ旨ヲ命ズ
 同 六月二十一日 曇リ 暑気ツヨク午前九時十余三平山源右衛門ラ三名大須賀村ヘ分割分境堺臨検ノ為出頭ノ処、午前十一時嘉瀬・小川氏出頭、暫時ノ所郡史高柴氏来リ、赤池区組合長金杉又右衛門、平山源右衛門、宮本栄治郎等参り、分割不服之廉種々談判熟議行届境堺標木打立午后七時帰宅
 同 六月廿二日 曇天微風 午前九時昇庁……午前十一時下埴生郡遠山村役場ヨリ助役藤崎庄右衛門出頭、赤池区ニ関ル諸帳簿目録ニテ受取ル、十余三区組合長金杉又右衛門案内ニテ来ル午后一時退庁
 
このように記されている。
 また明治二十二年の合併時における十余三村は、赤池・舛形・沢寄・馬渡・道祖神・餅田久保の六字で、総筆数二〇六筆、墓所共有地を除いて村持歩が一七七町九反、本大須賀村へ分割反別は字長渡り・城山・長窪、合計一五二町二反六畝一七歩となっている。
 このようにして明治二十二年六月二十二日、十余三村は香取郡久賀村十余三と呼称するに至った。
 菅澤農園の設立と畑地の耕地整理は、画期的な事業として注目をあつめ、十余三の開拓地はにわかに活気が生じ、戸数も急速に増加した。武州上総、特に九十九里沿岸の次三男の入植が目立ち、現在でも出身地が家号となっているものが多い。神宮寺・椿・森戸・千本・堀籠・井戸山・野手・八丁場・長居・上総・菱田・井野・仁玉・小貝野・染井・小笹・次浦・貝塚・境・堂谷などがその例である。
 新しい入植者は、知人や縁故者をたずねて、草鞋を脱ぎ、開墾作業の手引きをして貰ううちに、自然と仲間どうし寄合いが成立し、そこから「結(ゆ)い」と称する助合いの風習が生まれ、冠婚葬祭をとりしきる集団へと組織されていった。
 大正年間になると、道路普請や村行事の打合せ費用の割当てなども行い、この集団を「契約」と称するようになった。昭和に入ってからはこの契約組合が区内に五組結成され、稲荷神社の祭礼と合わせて毎年二月十五日に定期的に集まり、村行事の打合せや世話役の交替が行われている。