多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧久賀(くが)村

十余三(とよみ)

 矢作・油田両牧周辺の山林原野は幕府の「御鷹場」であり、一般民の自由な出入りと一切の殺生が禁止され、鳥獣の捕獲は罪科となった。
 そのことにより鳥類はもとより猪・狢・野兎・鹿など、数多くの鳥獣にとっての楽園であったと同時に村々にとってはこれら鳥獣が田畑に出没して作物を荒らすことが多く、迷惑至極なことであった。
 矢作牧の周囲(本三倉村から染井台・東佐野付近まで)は、将軍家の御鷹場として定められ、安永七年(一七七八)以来香取郡四二カ村を南一四カ村、北一一カ村、郷一七カ村と分割して「御鷹御用」と称する課役を負った。
 御鷹場には、鷹の訓練を兼ねてお供を引き連れた鷹匠が毎年訪れ、その総勢は三〇人から多いときには五~六〇人に及んでいる。そのため村々では人足差出しや賄費用などに困り果て、宿泊所となった村々は近隣の村々へ賄費用の割当をしている。
 町資料は御鷹御用にまつわる村々の実情を詳細に説明している。
 
  乍恐以書附ヲ御訴訟奉申上候
                                      江原久米吉知行所
                                       下総国香取郡沢村
                                       訴訟人 名主 茂左衛門
                                       同   組頭 金左衛門
御鷹御用人足差滞リ並ニ割合出銭難渋致候出入
                                       内田和泉守領分
                                        下総国香取郡三倉村
                                       太田乙三郎知行所
                                        下総国香取郡谷三倉村
                        相手方 [三倉村 名主 利兵衛 谷三倉村 名主 嘉兵衛]
 右訴訟(其ノ他ノ村々略ス)人共奉申上候、御鷹御用之儀先年ヨリ四拾弐ケ村組合ニ而諸事相務来リ候処、五年以前亥年組合之内拾壱ケ村之者共諸入用出銭差滞リ候ニ付、当御奉行所様江御訴訟申上候処、万年市十郎様御掛ニ而段々御吟味請候内、双方江戸宿取扱ヲ以熟談仕候者、組合村々隔リ候場所有之御旅宿被仰付候振合依而人足出方相互ニ難儀仕候ニ付、右組合村之内北拾壱ケ村南拾四ケ村中郷拾七ケ村ト打分ケ仕、南拾四ケ村ニ御旅宿被仰付候節者北拾壱ケ村ヨリ人足半減ニ務之、北拾壱ケ村之内江御旅宿被仰付候節者南拾四ケ村ヨリ人足半減ニ務之、中郷拾七ケ村江御旅宿被仰付候ハヽ四拾弐ケ村一体ニ相務、勿論諸入用出銭之儀尠差滞リ無之筈ニ熟談内済仕候、然処去々丑年御鷹三居御鷹匠様方上下拾三人当村江御越被成、日数四日御旅宿被仰付候付右申合之通リ人足触当テ候処、南拾三ケ村者共助人足差出不申御用御差支ニ相成候故、無是悲右組合村之外荒北村苅毛村岩部村助沢村伊地山村並当村右六ケ村ニ而助人足差出シ漸ク御用御間ニ合候処、尚又去ル七月中御鷹匠様方上下五十七人御越被成当村御旅宿被仰付候処、南拾三ケ村者共右助人足差出シ不申既ニ御用御差支ニ茂可相成処、是又当村始メ荒北村刈毛村三ケ村ニ而助人足差出シ首尾能御用相務、其後四拾弐ケ村会合之上諸入用割合仕候処、中郷拾七ケ村之内前林村新村右弐ケ村、出銭差出シ候得共外拾五ケ村之者共申聞候者、北拾壱ケ村半減之人足南拾三ケ村ヨリ助合不申候ニ付、右之分中郷拾七ケ村ニ而人足務過有之間出銭難出抔ト難渋申ニ付、右人足務方之仕末並応取調度々掛合ニ及候得共一向取合不申、中郷拾五ケ村者共右割合差出シ不申甚難儀至極仕候、同前書拾三ケ村ヨリ北拾壱ケ村半減之助人足差出シ不申候ニ付、当村始メ荒北村苅毛村右三ケ村ヨリ助人足差出シ相務候得者、拾七ケ村之内ニ而人足務過有之ト申儀決而無御座候、勿論木銭御飯代被下置候間右之分割合ニ及候其外諸入用之儀先格之通リ立合之上割合仕候処、右体我侭申募リ差滞リ候而ハ大切之御用以来如何様之御差支出来可仕モ難斗御座候間、無是悲今般御訴訟奉申上候、何卒以御慈悲ヲ書面相手之者共不残被召出御吟味之上、南拾三ケ村之者共先達而相究置候通リ助人足無滞差出シ中郷拾五ケ村之者共モ去ル寅年割合出銭不残差出シ、向後我侭不申御用大切ニ相務候様被仰付被下置候ハ難有仕合ニ奉存候 以上
   天明三年卯三月
                                       下総国香取郡沢村
                                           名主 茂左衛門
                                           組頭 金左衛門
  御奉行所様
 
     乍恐返答書を以奉申上候
 下総国香取郡三倉村外拾弐ケ村惣代同郡桧木村名主伊右衛門、一鍬田村名主兵右衛門奉申上候、此度同郡沢村名主茂左衛門、組頭金左衛門方より私共村々相手取、御鷹御用人足並割合出銭相滞候旨申立
 桑原伊予守様江御訴訟申上当五月十三日御差日御裏御判頂戴相附奉驚入依而乍恐左ニ御答奉申上候
 訴訟人共申立候通リ、先年北拾壱ケ村之者共ト及出入候得共、其節私共村、右出入ニハ一向懸リ合無御座、半減之助人足差出並四拾弐ケ村之組合村々南北中ノ郷ト三組ニ内分致候済方一円不申存縦反永 共四拾弐ケ村一同熟談仕候ト申ニ候ハ無御座、訴訟方沢村ト北拾壱ケ村之者共和談之上内済仕候儀を今更御裁許同様一統ニ取用可申筈有之間敷ト乍恐奉存候、殊ニ三組村高之儀私共拾三ケ村石高大積リ二千石余有之、中ノ郷拾七ケ村高合凡五千石余、北拾壱ケ村石高大数六千石余ニ而三組石高甚都合不仕、尤出入後百石ニ付何人ト斗触当助人足半減之触当ハ決而無御座、随而ハ助人足ト申名目之人足別段ニ差出可申筋無之、且又北拾壱ケ村ト私共村々石高甚相違之損徳茂不弁助合可申様無御座候、去ル寅年七月中荒北村苅毛村ニ而助人足相頼御用弁仕候由申立候得共私共一向ニ不存、其節ハ前林村継場ニ而既私共村々百石ニ付人足三人馬壱疋ヅツ差出、外ニ宰領トシテ村役人壱人ヅツ差添人馬共無恙御用大切相勤、訴訟方申立候趣意トハ甚符合不仕候、組合四拾弐ケ村一体ニ人足差出是迄聊モ差支無之候処、助人足抔ト新規之儀を面々之勝手を以仕候故畢竟及出入候様乍恐奉存候、組分ケ之儀茂右体内分仕候而ハ甚以飛遠々近之村々有之難儀仕却而御用御差支ニも可相成ト申難斗奉存候間、何分御慈悲を以先規之通四拾弐ケ村一体ニ人足差出新規之儀無之様被為仰付被下置候ハヽ難有仕合奉存候、尚又委細之儀御吟味之節口上を以乍恐可申上候 以上
   天明三卯年五月十三日
                                       内田和泉守領分
                                  下総国香取郡三倉村外拾弐ケ村惣代
                                      神保五郎兵衛知行所
                                     同郡桧木村 名主 伊右衛門
  御評定所
                                      同人知行所
                                    同郡一鍬田村 名主 兵右衛門
 
 下総国は、その原野山林のほとんどが馬牧または御鷹場として定められ、御領・私領・寺社領などに分かれていた。この広大な領域を管理するに当ってそれぞれの領主は、焼印鑑札を発行して鷹場内の出入りを許し、飼鳥の捕獲を命じ、また村々へは鷹番と称して見回りを仰せ付け密猟を監視させたが、鳥獣の宝庫ともいうべき御鷹場内には密猟が絶えなかった。また御鷹御用などと偽って村々を泊り歩く不届者などもあり、村々にとって御鷹場は決して有難い存在ではなかった。
 
        定
 鷹番之儀自今相正申候、然上者村中之者共江弥常々無油断心を付け、疑しき者ハ急度可相改、若此以後鳥を取候者有之時不相改候ハハ其村之名主ハいふに及ハず村之者越度タルベシ、其上又々鷹番申シ付ケベキ也
   享保六年
 
     御廻状
一、関八州江先達而領高判鑑相渡置候、村々御領私領寺社領江不見届飼差共在々相廻候由相聞候、自今其度々名主方焼印札判鑑急度引合相改可申候、勿論度々罷越存知候者トテモ無用捨相改、無相違候ハ定之通木銭米代取之不限昼夜宿借可申事
一、飼差共在々ニ而あわれねたりがましき儀を申者有之候ハ其所ニ留置、江戸下富坂町古飼鳥屋新飼鳥屋会所まて早々可相届事
一、焼印札村方ニ而若紛失いたし候其節ひろい候者於有之、右之会所ニ早々持参可致候、若隠置候ハ可為曲事如件
 右之条々急度可相守者也
   寅四月
 右之趣関八州村々江不洩様、御料所並私領寺社領共最寄御代官より以村継急度相触、尤右触書名主宅ニ掛札認置、急度相改候様可被申渡候 以上
   寅四月廿四日
                                       塚 荒四郎   印
                                       児 源七郎   印
                                       遠 六郎右衛門 印
                                       逸 出羽守   印
                                       神 若狭守   印
                                       神 志摩守   印
 
 このように鷹場内への立入りはきびしく規制され、鳥を捕えることはもちろん、井戸を掘ることも案山子を立てることも禁じられ、これらの御法度を破ると江戸送りとなって村役人まで処罰されるというきびしいものであった。
 天明の大飢饉の際、村々の百姓達はついに堪えかねて御鷹御用御免を訴え出た。桧木村名主伊右衛門から奉行所へ出された書付には、次のように記されている。
 
   乍恐以書付奉願上候
 下総国香取郡御領私領四拾弐ケ村惣代内方鉄五郎御代官所、同国同郡桧村組頭伊右衛門奉申上候、私共組合御鷹之儀ハ去ル安永七戌年七月中初而御鷹場ニ被仰付御鷹御用相済候得共、其後右御鷹匠様方御賄入用並人馬抔之儀ニ付再度出入ニ及、右体難儀仕候ニ付御場御免願申上度村々申候得共、大切之御上様御用御免相願候茂奉恐入、年々御鷹御用無滞相勤罷在処、去ル午去未両年御鷹匠様方御越可候被遊依御場御免ニ相成儀ト奉存一統難有奉存候、然処当七月中御鷹匠様方沢村ニ御越被成、前々之通御鷹御用無滞相済申候得共、右御賄入用並人馬等之儀ニ付難儀仕候間、惣代を以左奉申上候
一、当十壱ケ年以来安永七戌年七月中初テ沢村御鷹匠様方御越被遊、矢作牧野ニ而御鷹御用相済、夫より年々七月中右於御場御鷹御用無滞相済候得共、御本陣元沢村より組合四拾弐ケ村江高百石ニ付人足弐人宰領壱人都合三人宛触当、御鷹匠方前夜より沢村へ人足相詰、且又前林村ハ御鷹匠様方御道筋ニ而御荷物継場被仰付、右村方より、高百石ニ付人足三人馬壱匹口付弐人宰領壱人都合六人宛触当候ニ付、前日より前林村江相詰罷在御当日御用相勤、御出立之節ハ右同様沢村より人馬差出申候儀御座候間、人足壱人勤候ニハ二日三日相懸リ其外 芥取人足鳥籠拵人足又ハ御野先ニ而御鷹 候節老若無隔随時人足被仰付、御昼食村々相成候得ハ是又臨時人足相懸、尤六七日之御用ニ候得者諸々賄入用多相掛人馬等茂多分ニ相懸、二重三重人馬差出困窮之村々甚難儀至極仕、且七月中御鷹御用之節ハ夏作取入菜大根蒿麦蒔仕付田草取之最中ニ而、田畑共手入砌御用相勤候事故夫丈ケ旬後ニ相成、別シ而野間山間之村々故猪鹿多出田畑喰荒甚難儀仕候、殊ニ組合村々之内先年ハ高弐万石有之候処矢作御縄ト申ス御検地被仰付四万石余高ニ相成よし承知仕候。右組合四拾弐ケ村之内ニ、村高三百石余有之候而茂、百姓家数弐拾軒又ハ六百石余ニ而モ三拾軒程ニテ都而五町五反百石高より相トナヘ村高斗リ多候而茂百姓家数無之、右御用相勤兼難渋至極仕、人馬不足之村々ニハ雇人馬致差出候得共一日相勤候人馬二日三日相掛候ニ付賃銭夫丈差出候事故、内々之諸入用多相掛困窮之百姓共必至ノ難儀仕罷在候処、別而近年凶作打続其上去ル卯年以来去午大凶作ニテ猶又及困窮村々百姓共難儀仕、所持仕ル牛馬モ売払下男召抱候者モ召仕不申、又ハ小前百姓共奉公稼罷出者多有之候得者、前々村々人馬不足相成当七月中御鷹御用人馬相勤兼、外村より人馬相雇候儀茂内々之入用多分相懸何共難成、当七月中組合四拾弐ケ村賄入用鐚百六拾〆余相掛、其外内々百姓手前人馬雇入用共々大変之諸入用相懸故村々連々ト及困窮百姓難行至極之儀故
 御上様大切之御用ニ候得共、無是非今般右難儀之趣奉願上候。何卒御憐憫之以御慈悲、右村々難儀之趣逸々御聞済被成下可相成御儀ニ御座候ハハ、乍恐私共組合村々御鷹場御免被成下候様奉願上候
 御上様御用之儀故永久御免難被仰付候ハハ来ル酉より五拾ケ年之内御鷹御用御免被成下様、偏ニ御慈悲奉願上候左候ハハ村々困窮茂相直リ永々百姓相続可相成ルト乍恐奉存候間右御願申上候趣御聞済被成下、願之通ニ御鷹御用被成下候ハ村々惣百姓一統相助広大之御慈悲難有仕合奉存候 以上
   申十月                                 村々右惣代桧村
                                             伊右衛門
  御奉行所様
 
 このように切実な村々の訴えも空しく、御鷹場御免の願いが聴き届けられたという記録は、ついに見当らない。
 しかしこの御鷹場も、まさに幕府の命運が尽きようとする慶応三年(一八六七)十月に廃止となった。
 そして、矢作牧、御鷹場を含む広大な多古町周辺の山林原野は、明治への時代の移り代りとともに、新しい村人たちの手によって開発されることになるのである。