多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧久賀(くが)村

谷三倉(さくみくら)

 全国的に統一された単位・方法で土地台帳が作られたのは『太閤検地帳』が最初といわれている。
 谷三倉には天正十九年に実施された『太閤検地帳』の写本が現存し、また、約一〇〇年ぐらいの間隔を置きながら、『水帳』と呼ばれている『田畑台帳』が六種類ほどある。これによって村の発展の足跡をたどってみたい。
 まず天正十九年(一五九一)十一月十二日、梅村伝七郎、春日井新九郎、杉清蔵などの手によって作られた『水帳』(寛文六年(一六六六)に近藤又右衛門が書き写したもの)によると、
 
   水田 二十一町二反三畝十八歩
   畑    一町〇反七畝二十六歩
   屋敷     三反九畝
   戸数(推定)  谷三倉十八戸小三倉七戸
 
となっており、元禄三年(一六九〇)三月二五日作成の『新田水帳作小三倉』には、
 
   谷三倉  八町九反三畝十四歩
   小三倉  七町八反五畝十九歩
 
このようになっている。そして、享保十四年(一七二九)正月吉日、名主太郎右衛門による『田畑高反別名寄帳』には、
 
   水田 十五町九反〇畝十一歩
   畑   八町三反四畝十九歩
   屋敷    三反〇畝十二歩
   新田  八町九反三畝十三歩(谷三倉)
       七町八反五畝十九歩(小三倉)
 
と記されている。享和二年(一八〇二)正月の『田畑屋鋪高反別名寄』には、
 
   水田 十五町九反〇畝〇一歩
   畑   八町三反五畝〇四歩
   屋鋪    三反〇畝十二歩
   新田  八町九反三畝十三歩(谷三倉)
       七町八反五畝十九歩(小三倉)
 
 文化十一年(一八一四)正月の『改之田畑屋鋪高反別名寄帳』には
 
   水田 十五町九反〇畝〇一歩
   畑   八町三反五畝〇四歩
   屋鋪    三反〇畝十二歩
   新田  八町九反三畝十三歩(谷三倉)
       七町八反五畝十九歩(小三倉)
 
と、それぞれこのように書かれ、文政五年(一八二二)の『宗門人別改帳』には、
 
   戸数 二十六戸 馬 二十頭
    男 五十三人 女 五十七人 計一一〇人
 
と記されている。
 明治十三年八月二十日、地主総代岩井豊治郎、高木庄助、事務係斉藤三郎兵衛などによって作られた『耕宅地名寄簿』『山林原野一筆限帳』を見ると、
 
   水田   四十九町七反三畝二十六歩
   畑宅地   十七町一反五畝十六歩
   山林他  二十二町八反四畝十八歩
 
 明治八年(一八七五)の『戸籍簿』によると、
 
   戸数 三十二戸
    男 九十八人 女 九十一人 計一八九人
 
と、このようになっているが、ここに計算に合わない不合理な数がある。そこで多少の推測を加えて面積の説明をしてみたい。
 天正十九年の『検地帳』によると、田畑面積の合計は二二町三反余である。次の元禄三年の『新田水帳』の畝歩は、天正十九年からこの年までに開墾された新しい水田の面積である。それ以後明治に至るまで耕地の増加がなく、明治になって一挙に水田だけでも二倍以上の増加となっている。
 『水帳』で見る限り、文化年間以後の増反が著しく目立っているがこの数字はたてまえであろうと思われる。それは、天正から元禄までの間、約一〇〇年で十六町余の増反があるのにひきかえ、その後一九〇年もの間、人口が増えているのに開田されていないということはあり得ないであろうからである。
 事実としては元禄三年の検地以後も、開墾はたゆみなく続けられ、田畑は年々増え続けて来たであろう。しかし天正以後の検地は、年貢の増収のみを目的としたものであったことから、農民はいろいろの方法で検地から少しでも逃れようとし、年貢の軽減に苦慮した。なお、地方の支配者も大らかな温情施策をとり、あまり厳しく隠れ地の摘発は行わなかったようである。そのために一九〇年もの長い期間、たてまえの面積で年貢納付は済んでいたのであろう。
 面積ばかりでなく納付した年貢の数量からもこの点は考えられる。一例をあげてみると、正徳二年(一七一二)の年貢は水田分八四石五斗五升二合、畑分四両二分と銭五四二文であり、およそ一五〇年後の慶応四年(一八六八)の年貢、水田分九〇石七斗四升四合、畑分銭五貫六四七文と比べてほとんど変化がない。
 その他、天正十九年に対して享保十四年の水田が減り畑地が増えているのは、早く開田された谷津地帯の水田が、元禄のはじめ(一六八八)頃から東総地方一帯が減水して各地に湖沼の干拓が行われたことなどと同じく、水位が下ったため畑地に変容したものであろう。
 いずれにしても現代的にいいかえれば、課税面積二五町六反七畝余の水田に対して実質面積は五〇町余りと、二倍ほどの余裕があり、かなり裕福な村だったといえる。
 この裕福さを証するものに文久三年(一八六三)の区有文書がある『宮金元覚帳』『村金元覚帳』『役人金覚』の各帳によると、これらの基金を利用して各家々が一分から四両ぐらいの金銭を借りて運営資金としていたようで、そのことによって個人ばかりでなく、共有資産としても相当額が貯蓄されていたようである。
 そして明治を迎えたが、時の政府は、現代的な所有権の確立をはかるとともに、唯一の予算財源である地租税の確保のために、一筆ごとに番号をつけ、一字ごとに六〇〇分の一の地図(一筆限字図)を作って検地し、田畑山林すべての土地の所有者を確認した。そして、現在に至る土地制度の基礎が作られたのである。そして、それから一〇〇年後の現在(昭和五十九年)は次のとおりである。
 
   水田  四八町六反四畝歩   宅地  四町五反四畝歩   その他 三反二畝歩
   畑   一五町二反三畝歩   原野  一町四反四畝歩
   山林他 二三町一反一畝歩   池沼  二畝歩
   戸数  五〇戸人員二四四人 男一一八人、女一二六人