多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧久賀(くが)村

本三倉(もとみくら)

宗教/神社・寺院

 字通台二七二番地にある。阿遮羅山福寿院西徳寺と称し、新義真言宗室生寺派である。

阿遮羅山福寿院西徳寺

 大本山は奈良県宇陀郡室生村にある室生山悉地院室生寺である。この寺は天武天皇の勅願寺であり、白鳳九年(六八〇)に役小角(えんのおづぬ)(役の行者)によって開かれたと伝えられる古刹であり、また女人高野として名高い。
 明治十二年調査の『社寺明細帳』によると、西徳寺は「本寺下総国香取郡牧野村観福寺末、真言宗新義派、本尊阿弥陀如来、由緒不詳」となっている。
 惜しくも明治二十九年の火災によって記録・什物などのほとんどを失ったが、寺宝の大般若経六百巻が罹災をまぬがれたのは何よりのことであったとは、檀家の人々の談である。
 本堂は明治三十五年の建立で、本尊は不動明王である。密教では、真言陀羅尼を一心に唱えるとその功徳は絶大で、いろいろな願いごとが成就するという信仰があり、その絶大な力に対して明王と名付け、後には大日如来の使者となって、真言行者を守護するものとなった。
 不動明王の眷属として八大童子が付属することが多いが、ここでは両脇侍として矜羯羅童子、制吒迦童子が安置されている。
 内陣の右側に真言の始祖である空海・弘法大師像、左に新義真言宗の開祖と仰がれる覚鑁・興業大師像があり、また天神像も見られる。これは近村の寺作に天満宮があり、そこから分祀されたものと思われる。
 並んで弁財天がある。弁財天はインドの河を神格化したもので、初めは土地豊饒の農業神として、後には福徳の神としてひろく尊崇されるに至った七福神の一人で、かつては本堂前の池中に祀られていたものである。什器によって、当寺のむかしを偲ぶ手掛りをたずねてみると、護摩壇に「三倉西徳寺施主富澤長左衛門、明和五年戊子(一七六八)正月二八日」とあり、笊鐘には「文化十一年甲戌(一八一四)三月吉日願主深川仲町伊勢屋清助内成田山」と刻まれている。
 次に歴代住職の墓所を訪れると、刻字の読み取れるものでは「貞享二年乙丑(一六八五)一〇月二五日法師皈鉱覚住」があり、その中でも等持法印の墓石は一段と目立っている。西徳寺中興の祖と仰がれ、宝暦年間(一七五一~六三)に山を切り開いて現在の参道を作り、山門を刈毛の実相寺から移したことからいまだにこの参道を「新街道」と呼ぶ人がいる。そのほかにも数々の業績を残したといわれる等持法印は、寛政三年(一七九一)八月十九日に七十八歳で入寂している。
 同所に、最近新しく台座が作られて安置された六地蔵がある。村にはいつからともなく、地蔵が土中に埋められていると語り継がれていたが、昭和五十一年十月十日に、地蔵堂境内の石塔場清掃をしたときに掘り出され、翌年の十月十日に現在地に安置された。いつの時代にどういう理由で埋められたのか知る人もなく、奇異なこととして話題になっている。
 六地蔵は末世の六道の衆生を救済するといわれ、檀陀・宝珠・宝印・持地・除盖障・月光の六体の地蔵の総称である。そして、「享保六年辛丑(一七二一)二月二十四日 三倉村一九夜待講中菩提願主西念」と刻まれている。
 鐘堂は本堂裏の小高い所にあるが、そこには鐘がなく、堂宇のみである。かつては朝に夕に時を告げて、村中に響き渡ったであろう梵鐘は、太平洋戦争中に供出させられたという。