多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧久賀(くが)村

出沼(いでぬま)

 天正十八年に北条方に組する千葉氏の諸城もまた小田原とともにことごとく落城となったことは前述のとおりであるが、これ以前大須賀松子城は千葉氏五代常胤の四男四郎信胤の居城であり、同じく佐原市本矢作にあった本矢作城は五男国分胤通の築城したものであるが、出沼はこの矢作領に属していた。
 徳川家康が関東に入国した後、矢作領四万石は鳥居元忠の領するところとなった。矢作領の総村数は八四カ村で、それは佐原市三九、神崎町一一、大栄町一〇、多古町七、小見川町七、栗源町六であり、さらに茨城県東村四カ村に及ぶ広大な地域にわたり、その高の合計は三万九八七四石二斗九升九合三勺で、多古七カ村は大門・次浦・井戸山・古内・三倉・高津原・出沼である。そして出沼村は村高一九七石と記されている。
 のち鳥居元忠は関ケ原の合戦の最中、慶長五年(一六〇〇)に伏見城において戦死し、その遺領は二男忠政に与えられた。慶長七年(一六〇二)に忠政が奥州磐城六万石に転封された後、矢作領は徳川の家臣に配分され、出沼村は次の旗本三人の相給となった。
 
  六拾五石六斗六升七合 山岡但馬守知行  家数七軒
  六拾五石六斗六升七合 長谷川鉱五郎知行 家数七軒
  六拾五石六斗六升六合 伏見忠四郎知行  家数十二軒
 
 このほか吉田村(八日市場市)が同じく右三人の知行となっている。このように各地に分散して知行を持つことは、災害によって年貢未納となることを防ぐためと、一カ所に勢力が増大することを押える家康の方針であったといわれている。
 区有文書で、最も古い寛政十一年の『年貢皆済目録』によると、七八石八斗六升六合八勺と増盛されているが、納米は七〇俵となっている。これは四割にも満たない低い年貢率である。一般的には五公五民または六公四民という収納が行われていた時代である。
 
     午年貢皆済之事(長谷川鉱五郎知行分)
            香取郡出沼村
  一、高七拾八石八斗六升六合八勺
   納米七拾俵
    内
    弐斗      大豆代米
    壱俵      名主給米
    弐俵三斗九升四合三勺九才 運賃
   小以四俵壱斗九升四合三勺九才
  残而
   米六拾五俵五合六勺壱才   蔵入
   金弐両ト八百八拾四文   畑方小物成共
   右者去午年貢米永書面之通令皆済者也
     寛政十一未年四月
                 長谷川三郎助内
                      加藤宇平次 印
                            右村
                          名主
                            組頭
                            惣百姓
 
     亥ノ御年貢皆済目録(山岡但馬守知行分)
             定免納辻
  一、米六拾四俵壱斗九升八合四勺
    内
    米弐斗       大豆代米
    米三俵       名主給米
    米九俵       違作ニ付御用捨米
       弐斗七升三合八勺被下
   差引
    〆米五拾壱俵
     外  壱斗弐升四合六勺
    永壱貫七百三拾三文 畑屋敷
              山永共
   右之通亥ノ御年貢米永共上納令皆済もの也
      亥十二月     山岡五郎作
                  用所
                        下総国香取郡出沼村
                           名主
                           組頭
                           惣百姓
 
     御年貢皆済目録(伏見忠四郎知行分)
            定免納辻
  一、米六拾八俵
     内
   米三升三合三勺   永荒引
   米三俵弐斗壱合六勺 新田荒地引
    米弐斗      大豆代米
    米三俵      名主給米
    米弐拾俵     違作ニ付御用捨米
             被下
   差引
   〆米四拾俵三斗六升五合壱勺
     外
    永納金弐両壱分弐朱ト  畑屋敷
         銭百四拾八文 山永共
   右之通去子御年貢米永共上納令皆済もの也
     元治二丑年正月     伏見善次郎内
                   田中敬助 印
                           下総国香取郡
                             出沼村
                              名主
                              組頭
                              惣百姓
 
 二通の『皆済目録』は知行所ごとのものであるが、他村に比べるときわめて平穏に年貢が納入され、村人のくらしは安定していたものと思われる。
 慶応四年に提出された『高反別書上帳』によると、村高一九七石、田の面積合せて一三町二反八畝二歩 畑屋敷の計六町三反八畝二四歩で、家数は二六軒である。明治三年の『三等農書上帳』は、上農四人員二六、中農一一人員五三、下農一一人員四五、計二六人員一二四人と記している。
 『書上帳』による反別四町四反弐畝に対して高五四石四斗は、平均反収で一石弐斗強となる。これは、当時の事情からすれば上田に匹敵する収量である。本年貢の徴収には定免法と検見法との二つの方法が用いられ、災害の少ない土地はおおむね定免法によって課税されているが、出沼村は定免法によって課税され、税率は四割弱となっている。
 
       高反別書上帳
            下総国香取郡多古村組合
                   出沼村
  一、高百九拾七石     下総国香取郡出沼村
     内訳        長谷川久太郎元知行
                下総国香取郡 右村
                        名主 五左衛門
   一、高六拾五石六斗六升八合壱勺
    田高五拾四石四斗七升八合六勺
    此反別四町四反弐畝廿弐歩
    畑屋敷高拾壱石壱斗九升
     此反別弐町壱反弐畝廿八歩
   亥年
    取米弐拾石七斗弐升四合六勺 引方差引
    永壱貫五百廿弐文八歩九厘  御上納分
  一、高六拾五石六斗六升八合壱勺
                  伏見善治郎元知行所
                   同国同郡右村
                       名主 久右衛門
   田高五拾四石四斗七升八合六勺
    此反別四町四反弐畝廿弐歩
   畑高拾壱石壱斗九升
    此反別弐町壱反弐畂廿八歩
   亥年取米弐拾石六斗九升壱合三勺 引方差引御上納分
     取永壱貫七百三拾三文九歩六厘
  一、高六拾五石六斗六升[九合壱勺 八合壱勺]
                  山岡五郎作元知行所
                   同国同郡右村
                       名主 源右衛門
   田高五拾四石四斗七升八合六勺
   此反別四町四反弐畝廿弐歩
    畑高拾壱石壱斗九升
     此反別弐町壱反弐畝廿八歩
   亥年
    取米弐拾石七斗弐升四合六勺 引方差引御上納分
    取永壱貫七百三拾三文
   子年
    取米拾六石八斗五升八合八勺 引方差引御上納分
    取永壱貫七百三拾三文
   丑年
    取米弐拾四石五斗九升八合四勺 引方差引御上納分
    取永壱貫七百三拾三文
   寅年
    取米拾六石八斗五升八合八勺 引方差引御上納分
    取永壱貫七百三拾三文
   卯年
    取米弐拾石七斗弐升四合六勺 引方差引御上納分
    取永壱貫七百三拾三文
   亥より卯迠平均
    取米拾九石九斗五升三合四勺
    取永壱貫七百三拾三文
   右之通り高反別取調奉差上候、巨細之義者追而可申上候 以上
     慶応四辰七月 日                         右村
                                       名主 五左衛門 印
                                       〃  久右衛門 印
                                       〃  源右衛門 印
    知県事
     御役所