多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧久賀(くが)村

桧木(ひのき)

 次いで、収穫高に対する年貢割付けや、受領を証する皆済目録を通じて、当時の生産状況などを見てみよう。
 
     下総国香取郡桧木村御取ケ付目録之事
一、高七拾六石壱斗六升   田畑屋敷共
   内
 九石七斗五升  設楽勘左衛門様御代官所
 六拾六石四斗壱升   殿様御 
  此取米九拾三俵 御定成
     但し三斗八升詰四斗払 船江渡し 江戸納
一、百姓居林  三ケ所
一、百姓野林  大小十七ケ所
 此歩 草代運上栗弐斗 真木九十束但し壱束に付而七升也
 右之通少茂相違無御座候 此外野銭山銭河運上ニ而茂無御座候、若相違之義御座候ハヽ重而御詮義之上如何様之曲事にも可致仰付候、為其目録差上ケ申候依而如件
   元禄十年丑ノ二月十一日
                                      桧木村
                                        名主 伊右衛門
                                        組頭 惣左衛門
  苅部助太夫様
  石橋半右衛門様
 
   下総国香取郡桧木村辰之御物成可納割附
一、高六拾六石四斗壱升   田畑屋敷共
  此訳
一、上田壱町四反六畝九歩    舂法八合七勺
  内壱反六畝廿弐歩      当検見引
 残壱町弐反九畝拾七歩     有反
  此取米七石六斗四升四合四勺 反五斗九升取
一、中田壱町九反弐畝弐拾歩   舂法八合
  内弐反四畝九歩       当検見引
 残壱町六反八畝拾壱歩     有反
  此取米九石九升壱合八勺   反五斗四升取
一、下田四町七反九畝拾四歩   舂法六合五勺
  内七反九畝廿九歩      当検見引
 残三町九反九畝拾五歩     有反
  此取米拾七石五斗七升八合  反四斗四升取
一、下々田七反八畝三歩     舂法五合三勺
  内[拾六歩 弐反九畝拾壱歩] [亥年溜池潰地 当検見引]
 残四反八畝六歩        有反
  此取米壱石七斗三升五合弐勺 反三斗六升取
 小以米三拾六石四升九合四勺
一、中畑五反四畝拾弐歩
  此取米五斗九升八合     反壱斗壱升取
一、下畑三町六反四畝拾三歩
  此取米弐石五斗五升壱合   反七升取
一、下々畑五反三畝廿七歩
  此取米弐斗七升       反五升取
一、屋敷三反九畝廿壱歩
  内四畝弐拾歩        見徳寺引
 残三反五畝壱歩
  此取米七斗七升壱合     反弐斗弐升取
一、永不田弐拾歩
  此取米壱升四合       反弐斗壱升取
一、自分林四町四反五畝廿四歩
  此取永五百三拾五文     反拾弐文取
 納米合四拾石弐斗五升三合四勺
  俵ニ〆百拾五俵三合四勺
       納三合九勺    [但 三斗五升詰 四斗三合廻口米共]
 納永合五百三拾五文
  金ニ〆弐分鐚百四拾文
 右之通当検見差引成ケ可納割附如斯出候間大小百姓立合無高下割方仕、来霜月十日切急度皆済可有之者也仍如件
   正徳二壬辰年十月     足立甚平   印
                藤本三右衛門 印
                神保伝八郎  印
                                    桧木村
                                      名主
                                      組頭
                                      惣百姓
 
     巳年皆済目録
                                      下総国香取郡 桧木村
一、米百拾四俵弐斗弐升五合  買入米
  内米壱斗四升八合
   内
  米弐斗          妙見御供米
  米四俵          御中間壱人分給米
  米三俵          名主給米
   小以米七俵二斗
  残而米百七俵弐斗弐升五合
    右納次第
 米九拾九俵壱斗九升四合四勺  江戸廻米
  大豆壱俵  此代米弐斗
  小豆三升  此代米壱升五合
  胡麻壱升  此代米五合
 米七俵壱升三合六勺  右諸運賃米
一、永五百三拾五文   野山銭
 都合[米百拾四俵弐斗弐升五合 永五百三拾五文]
 右者去巳御年貢米金書面之通令皆済候ニ付度々相納候小手形取上之一紙目録相渡候条此後如何様之小手形差出候共可為反故者也
   安永三午年八月
                 地頭所
                  丸山惣右衛門 印
                  斉藤助右衛門 印
                                      桧木村
                                       [名主 組頭] 中
 
 桧木村の総収穫高は七六石一斗六升、そのうち九石七斗五升が代官支配分である。神保知行地六六石四斗一升に対して四〇石二斗五升三合四勺、永五三五文の年貢が取り立てられている。このほかに、口米・欠米・延米・廻米などと称する付加米を加えると、六〇%を超える重税となって、六公四民さえ疑わしい苛酷な状況である。
 年貢の割付けは村単位で行われ、村高に対して割付状が村役人に手渡され、それを百姓個々に割り当てるわけであるが、年貢皆済についての一切の責任は村役人が背負わなければならなかった。租率は村々によって異なり、また領主によっても多少の差異はあったようであるが、いずれにしても大同小異である。
 桧木村は定免による納租の方法が用いられているが、へき地のためか、たびたび検見が行われ、〝雀の涙〟ほどの減免が行われた。
 また定免であっても、厘取り(厘付取り)、反取りなどの方法があり、反畝歩に関わりなく石高に租率を掛けて年貢高を割り出すことを厘取りまたは厘付取りと称し、格付された田畑ごとに反当り何斗または何文取りとして年貢高を割り出す方法を反取りと称した。このような定免反取りの法は取り立てる側にとってはきわめて有利な方法であるが、低生産地の農民にとっては全く不都合なことであった。
 桧木村のように小村で下田・下畑の多い村にとっては、下田・下畑に至るほど租率が高くなる反取りの法は、相当の苦業を押し付けられるものであった。
 延享二年(一七四五)の『桧木村縄寄帳』によると
 
   盛付之覚
   上田九ツ 中田七ツ 下田五ツ 下々田三ツ
   中畑四ツ 下畑ニツ 下々畑一ツ半 屋敷八ツ
 
 となっている。上田屋敷を除いては一般的に一つから一つ半低くなっている。それだけ悪田の多い低生産地であったのだろうか。
 次に示すごとく、正徳元年(一七一一)から寛延二年(一七四九)までの『年貢割付状』によって反取り法による取米を比較してみると、たとえば、正徳年間は上田六斗、下々田三斗七升となっている。それが寛延二年には上田は五斗二升と低くなっているにもかかわらず、下々田は逆に四斗二升とはね上っている。下田の土地改良が進み収量が上ったためとは思えない。村役人の必死の嘆願にもかかわらず、年貢高が低く下げられた形跡は見られない。
 
     正徳元年      享保元年~四年
   上田反六斗取    上田反五斗八升取~九升
   中田反五斗五升取  中田 五斗四升~五升
   下田反四斗五升取  下田 四斗四升~五升
   下々田反三斗七升取 下々田三斗六升~八升
             中畑一斗一升
             下畑  七升
             下畑  五升
     寛延二年
   上田反五斗弐升取  中畑 反一斗一升取
   中田反五斗取    下畑   七升取
   下田反四斗三升取  下々畑  五升取
   下々田反四斗二升取
 
 年貢の延期や減免の願書は数多く発見されているが、次に掲載するものは、そのうちの一部に過ぎない。
 そこには、窮乏に喘ぐ村の様相や、年貢米という重荷を背負い忍従に耐える村人の生きざまをかいま見ることができる。
 
     乍恐以書附ヲ奉願上候
一、先達而高津原村八郎兵衛成井村庄右衛門、当卯不作ニ付御検見願ニ差上リ候処、以御慈悲ヲ七ケ村江御米五百俵御用捨被下置難有奉頂戴候、併桧木村之儀者野末ニ御座候得ハ、水くひ不実ニ付外村与(と)者格別之不作ニ有之候得者、右之御用捨ニ而者御年貢米御上納仕候程ハ御米有之間敷ト相見江申候、依之又々乍恐以御慈悲ヲ御未進米三拾俵来秋迄御延米ニ被仰付被下置候様ニ乍恐偏ニ奉願上候、何卒以御慈悲ヲ願之通リ被為仰付被下置候ハバ、困窮之大小百姓一統ニ難有仕合ニ奉存候 以上
                                       桧木村 林蔵
   天明三癸卯年十月 日                              喜右衛門
                                           次郎左衛門
                                           市郎右衛門
                                           縫之亟
                                           三郎兵衛
                                           惣左衛門
                                           幸右衛門
                                           忠右衛門
                                           長右衛門
                                           利兵衛
                                       百姓代 勘右衛門
                                       組頭  三郎右衛門
                                       組頭  与右衛門
                                       名主  伊右衛門
  御地頭様
  御役人中 様
 
 これは、いわゆる天明の飢饉に当って、農村の不作続きによる延納を願い出たものである。
 
    乍恐以書付奉願上候
一、御知行所七ケ村去ル卯年御未進米年賦御上納之儀、去秋上納可仕旨戌年六月中八ケ村如罷出候節厳鋪被仰付奉恐入、御請書迄差上且又為御取立小川条右衛門様御下リ被遊又候厳敷被仰聞逸々承知仕候得共、去酉年去戌年両年旱魃打続七ケ村惣百姓大困窮ニ付、年賦米御上納者不及申戌年御年貢御上納も難相成、衣類諸道具売代替漸々御年貢皆済仕候、然者右年賦米御上納之儀者当時可相納様無之、七ケ村惣百姓一統ニ難儀仕候、依之此度為惣代両年番、如罷出御願奉申上候、何卒右之段御賢察之上偏ニ御慈悲之御勘弁被成下当秋御上納ニ奉願候、此度者格別之御憐愍ヲ以右願之通リ被仰付被下置候ハヽ、七ケ村大小百姓相助リ一同難有仕合ニ奉存候 以上
   寛政三辛亥年三月                      稲荷山村 年番名主 仁右衛門
                                  桧木村 年番名主 伊右衛門
                                  高津原村 名主  佐内
                                           勘之烝
                                           次兵衛
                                           吉郎兵衛
                                           甚兵衛
  御地頭所
  御役人衆中
 
 これも神保氏知行所の名主から滞納米の延引の願書である。旱魃による不作で衣類、道具類を売り払ってまで年貢皆済をしなければならなかったことが記されている。
 
    乍恐書付ヲ以奉願上候
一、御知行所桧木村名主伊右衛門儀、此度甚々大病ヲ相煩農業等モ寔ニ難儀仕殊ニ歩行茂難相成故、無拠為代利兵衛罷出、乍恐御上様江御願奉申上候儀者、往古ヨリ桧木村之儀者旱田場ニ申上置候、然処当年者末春ヨリ旱魃仕無仕附又者仕附荒等有之由、勿論銘細帳ヲ以先達而御届ケ申上候桧木村之儀者、当時一統ニ困窮仕厄介而已(のみ)多ク無人ニ而農業稼之節年々及難儀ニ必至与(と)難行立候、別而当年難渋之年柄、殊ニ当四月頃農業植附時分ニ差掛リ稼専一奉存処ニ一統旱魃ニ相成、早稲方者植初ヨリ汲水ニ而植附仕候処追々旱魃仕、依之先ヘ、植付仕候場所ヘ折々汲水を呉レ、然者一日植附仕候場所ヘ二日三日之日数相掛リ日後レニ及面違者誠ニ自力ニ難及、無人ニ而行届兼汲水之場所一統ニも相成百姓一同之難儀ニ御座候、右ニ附桧木村干田之場所ニ而農業等も行届兼向後レニ相成誠ニ困窮仕、無人故無仕附等も出来仕無是悲面違ニ罷成仕附荒等も是ニ准し旱魃仕候、右様之趣逸々御賢察被成下格別之御憐愍奉願上候、皆無通候御引方被下置仕附荒之分御勘弁を以夫々ニ御用捨被下置、惣百姓一同相続仕候様偏ニ奉願上候、右願之始末御聞済之上何卒願之通リ被仰付被下置候ハバ一統相助、広大之御慈悲与重々難有仕合奉存候 以上
   文政九丙戌年八月 日                          御知行所
                                       桧木村
                                       百姓代 勘右衛門
                                       組頭  利兵衛
                                       組頭  林右衛門
                                       名主  伊右衛門
  御地頭所
     御役人衆中様