多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧久賀(くが)村

大門(おおかど)

 年貢割付けは、定免法によって算定され、災害も少なく、きわめて平穏に上納されていた。松平知行所分について年貢割付けの記録を見ると、田畑合せて一二町四反余、うち田の年貢が五一石二斗九合、畑屋敷分が二貫五四四文七分の金納となっているが、これは五五パーセントから六〇パーセントの税率である。
 五公五民または四公六民などと言われながらも、六公四民から七公三民に及ぶ年貢の割付けは決してめずらしくはなかったとはいえ、この他にも何かと徴税されることが多く、村人達の嘆息は色あせた古文書の端々からも聞こえて来るようである。
 寛文三年(一六六三)の『大門村新畑帳』によると、村の畑は合わせて二町五畝二十五歩となっている。そして、記されている人名は次の二七人である。
 
  太左衛門  太右衛門  次右衛門  成就院
  四郎右衛門 長兵衛   次左衛門
  久五郎   久三郎   藤左衛門
  主水    与作    六郎左衛門
  新右衛門  助三郎   清右衛門
  新左衛門  与左衛門  佐左衛門
  市左衛門  源左衛門  吉兵衛
  藤右衛門  源右衛門  次郎兵衛
  治左衛門  甚之烝   治兵衛
   寛文三年[癸卯]
  下総国香取郡千田庄大門村新畑帳
              三月十一日                紙数拾壱枚上紙共
 
 寛文三年より三六年を経た元禄十一年(一六九八)の『大門村水帳』による人名は次のとおりで、出作二名を含めた総人数は二一名である。この水帳は弘化三年(一八四六)に、当時の名主山田六郎左衛門が写し置いたものである。時の名主は主計となっている
 
   田畑屋敷合せ
  主計     左衛門
  藤三郎   三之烝
  太左衛門  擅十郎
  藤右衛門  次郎左衛門
  次兵衛   与五左衛門
  源之烝   三郎左衛門
  茂右衛門  甚左衛門
  平左衛門  太郎右衛門
  新右衛門  市兵衛
  太郎左衛門 成就院
  出作
  壇之烝   三郎兵衛
 
 大門村地域は、はやくから高津原・御所台・西古内などからの出作の者が多く、その耕地もまた境界がはっきりせず判別し難い面があった。それだけに複雑な年貢の割付けとなって、他村の耕作者からは出石という名目の徴税を行っている。
 大門村は田畑の面積、村高ともに、鳥居氏の検地以後慶応年間に至るまで、文書に記録されている数字は全く変ってはいないが、実情はそれと異なり、特に畑地の増反は相当にあったものと思われる。多古から佐原に至る現在の県道両側一帯の地域は北総台地と呼ばれ、馬牧用地または官林として、近郷農民の進出を拒んで来た。しかし、水田から畑へと次第に農民の耕作意欲が変動し、用地内の林野芝地はひそかに開墾されることが多く、生産の場はしだいに台地の畑化へと移って行った。
 幕府もやがて、こうした農民の侵入を黙過する訳にもゆかず、享保年間(一七一六~三六)には各地において検地を行っている。その検地帳を見ると、縦横の間数が記入され、前野一九カ所を筆頭にえんどう作、山中、道六神など検地箇所六八カ所の字名と耕作者、それに検地人として瀬尾藤左衛門、遠山次右衛門、村井半左衛門の氏名が記載されている。