多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧久賀(くが)村

高津原(たかつはら)

宗教/神社・寺院

 字南谷八一七番にある。村の北側台地上で、現在の建物は大正十二年に再建されたものである。大正五年二月の七世帯三三棟を焼失した火災の際、寺歴を伝えるすべてが失われている。

熊野山千手院観音寺

 『寺院明細帳』は、焼失前の規模を次のように伝えている。
 
    千葉県下、下総国香取郡久賀村之内字高津原
      祖本山米倉村西光寺 本寺虫生村広済寺末
                    真言宗新義派 観音寺
 一、本尊    観世音菩薩
 一、由緒    不詳
 一、堂宇間数  間口四間奥行四間
 一、境内坪数  五百八十坪
 一、境内客殿  間口七間四尺奥行六間
 一、境内厨   間口五間五尺奥行八間一尺
 一、境内雪隠  間口一間三尺奥行一間
 一、境内木具屋 間口三間奥行二間
 一、境内門   間口一間四尺奥行一間一尺
 一、檀徒人員  弐百九拾九名(以下略)
 
 また、住職林真照師のときに法務支庁へ提出した『什器帳』には、次のような記録がある。
 
     第壱項仏像之部
 本尊十一面観世音菩薩 木仏像壱体、但御丈三尺五寸作者年代未詳
 金剛界大日如来、前同、但御丈一尺五寸作者年代未詳
 胎蔵界大日如来、前同、但御丈一尺五寸作者年代未詳
 不動明王、前同、但御丈二尺二寸作者年代未詳
 昆沙門天王、前同、但御丈二尺五寸作者年代未詳
 弘法大師、前同、但御丈一尺五寸作者年代未詳
 興教大師、前同、但御丈一尺五寸作者年代未詳
 誕生釈迦尊、唐金仏像壱体、但御丈五寸作者年代未詳(以下略)
 
 現在の本堂内陣には、本尊の十一面観世音菩薩を中心に、奥に大日如来、脇侍として毘沙門天不動明王、右壇脇に弘法大師、左壇脇に興教大師が安置されている。
 前の机には「寛政五年(一七九三)八月吉日施主菅澤宇左衛門 菅澤庄右衛門 大工菅澤政右衛門」と記され、打鳴しには「千葉県香取郡久賀村観音寺現住小泉覚秀代 明治二十四年新調為先祖代々菩提施主菅澤惣兵衛 東京大門通銅屋清次郎作」と彫られている。
 このほか境内には、高さ四メートル余もある宝篋院塔があり、「文化五戊辰年(一八〇八)造立之 下総国香取郡高津原村熊野山観音寺現住恵観代 本願主法印等海菅澤杢左衛門善男善女人」と刻まれている。
 この後方の雨覆の中に建つ石塔(高さ一〇四センチ)は、字向台三九七番の二の塚上に建てられていたものを、二〇年ほど前に移したもので、その跡地は今も聖地として開拓されていない。刻字はほとんど読み取れないが、出羽三山を信仰する修験道碑であるといわれ、「寛文拾年庚戌(一六七〇)九月十三日別当観音 」とだけ読み取れる。
 この前方に如意輪観世音像が刻まれた石塔(高さ七三センチ)があってそれには、「享和三亥(一八〇三)六月十九日惣村中女人中 一番きノ国那智山」(御詠歌)とある。
 石段下には石柱(高さ一〇二センチ)があり、「四十九院二十六恒念観音院写観音寺 下総国香取郡高津原村南無弥勒菩薩 宝暦六丙子(一七五六)四月吉日 たかつわら のぼりておがむくわんをんじ ちかいをきけば にせをたのしむ」と刻まれている。
 以上が観音寺に関するあらましであるが、古老は寺の歴史について、次のように物語っている。
 「村は相馬小太郎主徒が土着したことに始まり、その一族が四軒の家を建てて祖先供養の板碑を作った。家族が増えるに従って分家の数も多くなり、やがて本家を一つにする四つの組が、宗教的よりどころとして持仏堂を持つことになった。それが阿弥陀・薬師・地蔵・観音の四堂である。
 ある時代に村の菩提寺である密蔵院小光寺を維持できなくなったので、持仏堂の一つの観音堂に什器などを移して小光寺を廃寺としたことから、観音堂を観音寺としたのではなかろうか」と。
 密蔵院小光寺については、過去帳だけではなくその字名も残り、寺跡と伝えられる所から出土して、現在観音寺に保管されている石塔断片の仏像頭部に、「密蔵院」と刻まれている。
 観音寺歴代住職墓石のうちで、延宝・貞享時代(一六七三~八八)のものは小光寺から移したものといわれ、その中の二基には次のように刻まれている。「観音寺一世阿闍梨恵観法師 文政三庚辰(一八二〇)正月十四日」「権大僧都法印鏡覚不生位、旹文久二壬戌(一八六二)十月初二日如眠入寂。熊野山観音寺一世者下総国香取郡武田村(現神崎町武田)妙楽寺ヨリ移ル、之産者南条村(現光町)姓小倉氏二男、鏡覚者安政五戊午年(一八五八)三月日当村多田氏五兵衛祖父仮親 当寺ニ住之」
 観音寺となった観音堂の他の三堂はいま、字台八二七番に薬師堂が、字南谷八一二番に阿弥陀堂が、字台九〇一番に地蔵堂があって各堂内には本尊が安置され、縁日には組内の老人達が集まって読経している。
 堂の周りは石塔場になっていて、家型無刻のものから寛文・延宝頃(一六六一~八〇)のものが見られる。