多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧久賀(くが)村

高津原(たかつはら)

 現在の県道多古~佐原線両側にある、十余三から染井台にかけての広大な原野林は、古くから野馬の放牧地または御鷹場として幕府の管理するところであったが、付近の村々にとってもまた、田畑の堆肥の供給地として、あるいは薪や屋根材・山栗・山菜など生活物資の供給源でもあった。
 その広大な山林原野は、各村々の農民にとっては絶対に手離すことのできない重要な生活の場である。他の各地にも見られるような土地をめぐっての紛争を続けながら、時は流れ、さらに明治に至っては官民間の争奪となった。そのとき農民の必死の様相を資料(いずれも、津島宇左衛門家文書)は次のように語っている。
 
     乍恐書附ヲ以御訴訟奉申上候
   松平安房守様
   瀬名源五郎様
   大河内善左衛門様
   篠山庄左衛門様
   意安法印様
                                      下総国香取郡井戸山村
                                       小前村役人惣代
                                       右善左衛門知行所
                                       訴訟人名主次郎右衛門
                                       意安法印知行所
                                            代 文次
                                        松平安房守知行所
                                 不法出入 相手 同国同郡大門村
                                          名主六郎左衛門
                                          組頭太郎右衛門
                                        瀬名源五郎知行所
                                          同国同郡同村
                                          名主三郎右衛門
                                          組頭清兵衛
 右訴訟人名主次郎右衛門外壱人奉申上候。当村並同郡高津原村相手大門村右三ケ村附字前野与(と)唱、則三ケ村入念(会)先年より秣苅取来候処、寛文六午年中大門村与高津原村及出入、境筋等夫々御裁許ニ相成、御裏御文言御割附之絵図面大門村ニ御下被下置、当村方右場所ニ入会秣苅取候趣兼而相分リ居候。猶又前野ニ付争論有之候ハヽ当村方より罷出証拠ニ相立可申段、右大門村江証文差入有之、然処去申年中高津原村者共前野内江松木多分ニ植付、新規之境土手築立候ニ付、当村方並大門村より高津原村江及懸合、右松木抜取境土手為取崩候処、尚又高津原村者共去亥年中より、右前野之内佐原街道より東ニ而長六百間余横弐百間程之場所松木植付、往々同村進退可致之暦然ニ付大門村ニ及懸合候処、何連同村より高津原村ニ懸合可申旨之処、等閑置候ニ付当村方より高津原村江及懸合ニ候処更ニ取 不申、依之猶大門村江取詰懸合候得共、矢張同様投遣リ置、右内実大門村江馴合其侭ニ以たし置候義与奉存候。左候て者当村方秣取入候場所ニ抱御田地養方ニ差支、且松木盛木技葉繁茂仕候て者御年貢津出道筋差障リ、殊当年御裁許御絵図面御取調時節旁御裁許ニ相振候趣不容易儀、御絵図面大門村ニ預リ左ニ罷有馴合不法之始末其侭ニ差置難相成無是悲今般御訴訟奉申上候。何卒御慈悲以相手之者共一同被召出、馴合候始末逸々御吟味之上、早々大門村より高津原村ニ懸合右松木為取払、秣取入方差支不相成御裁許堅相守候様、仰付被下置度奉願上候 以上
   天保十一年子八月
  松平安房守様
  瀬名源五郎様
   御役人衆中様
 
     乍恐以書付奉申上候
 下総国井土山村一件、相手方高津原村名主宇左衛門奉申上候。私儀御吟味中ニ御座候処、御裁許御墨筋御絵図面与(と)論所当時之姿相違之趣、大門村よ里申立候ニ付御利解被仰聞奉恐入候。然ル処、右場所之儀御裁許後数拾年来相立ニ付、境筋不分明之義有之候而ハ奉恐入候間、四ケ年以前戌年中五ケ村為立会見届受、大門村境際松之大塚よ里古形を追ひ、又者南之方古塚迄見通境筋相改、以来故障無之様議定仕、其上当村ニ而松木植付候義ニ御座候得共、御裁許御絵図面ニ相振候而ハ奉恐入候ニ付、入念野内古往還迄右松之大塚境間之間数ニ応し、当村も同様右古往還と御絵図面江引合境筋改直候様可仕候。尤井土山村之儀ハ入会野苅子村与ハ不相心得、右場所江可拘村方ニ無御座候儀与奉存、其段ハ御絵図面色分ニ而相分リ御文面ニも同村之儀者御書載無御座候間、此上同村ニ而当村地内並入会野迄不携候様仕度奉存候。一体井土山村秣場之儀者、同村地内字長谷原竪廿町余横拾五町余之広野有之最寄村方為入念(会)候程之処、去春中寺谷村惣右衛門と申者を以井土山村を苅子ニ差加、其段書付差出呉候様申入不相当ニ付及断候義有之、右者巧有之候故之儀者相見、同八月中御裁許古書物類御調之節、大門村預り之御絵図面同村より御地頭所松平安房守様江差出候を、同御知行所故井土山村ニ而写取候より当村江相掛リ及出訴候義ニ而、当村野永上納罷在候場所江無差障候而ハ迷惑難渋仕候間、何卒以御慈悲前書之始末被為聞召訳御裁許御絵図面之通改替候上ハ当村地内江不差障候様被仰付被下置候様奉願上候 以上
                                        神保数馬知行所
                                       下総国香取郡高津原村
                                          組頭 杢左衛門
                                       外壱人願ニ付代
                                          名主 宇左衛門
   天保十二丑年八月十五日
  御奉行所様
 
     乍恐以書付奉願上候
 下総国香取郡染井村役人惣代源兵衛奉申上候。私共村方之儀者往古より同国同郡高津原村野ニ而馬草苅来候処、其後寛文六午年右高津原村同郡大門村野論地御裁許之上、馬草苅場ニ無相違様証文入置候由緒之村方ニ御座候。然処、此度同郡井土山村高津原村野絵図面墨筋境及出入ニ候所、右場所近キ大門村名主御尋ニ付御奉行所様江被召出御留役様厳重之御糺ニ付恐入当惑仕、右絵図面墨筋境少々相振候様ニ申上之候得共、誠ニ当惑之余リニ申上様高津原村江対申訳も無之次第後悔之由ニ御座候得共、右様ニ申上候而者、此節高津原村役人共甚難儀ニ相成歎ケ敷義ニと存候。右高津原村之儀者前文奉申上候通、私共村方古来より之馬草苅場ニ而、右様之始末出来候得者難見捨置無拠御内々奉願上候。何卒格別之以御慈悲御奉行所様江御乗掛被下置、大門村名主申上損候義猶又御調被下置候様仕度御儀ニ御座候。此段乍恐御上様江御執成之程偏ニ奉願上候 以上
   天保十二丑年八月十四日                        染井村役人惣代 源兵衛
  初鹿野美濃守様御内
    御役人衆中様
 
     乍恐以書付奉申上候
寛文六午年
一、苅子村々手形証文  五通  寺作村
                ひの木村
                染井村
                御所台村
                多古村
 文化七午年
一、割附        壱通
文政十三寅年
一 同断        壱通
天保九戌年
一 為取替一札     壱通
同十一子年
一 皆済目録帳     壱冊
   〆 九品
 右者御吟味ニ付可奉差上旨被仰渡則目録相添奉差上候 以上
                                      神保数馬知行所
                                       下総国香取郡高津原村
                                         組頭 杢左衛門
                                         外壱人願ニ付代兼
                                         名主 宇左衛門
     丑八月廿三日
  御奉行所様
 
     乍恐以書附奉願上候
 御知行所下総国香取郡高津原村名主宇左衛門奉申上候。去井戸山一件之儀熟談内済仕候得共、訴訟方秣場差被除候間、既ニ意恨ヲ含居候得共私勤役致居候てハ間違等有間敷モ難斗奉存候。若自然間違致御地頭所江申訳無之候。依之私退役致後役ニ相成候得者相手方遠々敷相来候得者事茂出来申間鋪奉存候。依之村方一同相談之上退役奉願上候。尤後役之義者先例之通リ入札ヲ以奉申上候。御開封之上落札之者江後役被仰付被下置候ハヽ難有仕合奉存候。勿論後役之者御用御差支無之相勤可申候。何卒格別之御慈悲ニ前書之趣被為分聞、右退役被仰付被下置候ハヽ難仕合奉存候。依而惣村連印を以奉願上候 以上
   天保十三寅年
     下総国香取郡 高津原村
                                     惣百性(以下五四人氏名省略)
  御地頭所
   御役人衆中様
 
 公有地原野                                 元第五大区小七区
  御払ひ下願書                                  香取郡高津原村
                                              大門村
  乍恐以書附奉願上候
 字前野
一、原野七拾五町歩
 右両村役人奉申上候。字前野原野之儀田把秣等々必要之地所ニ而、去寛文度両村互ニ一村所有之犯意を起し争論出訴ニ及、旧幕政府ニ於て御裁許之上両村入会ト相定り、永久両村所持当心得居候処、公有地御払ひ下ケ御規則驚入、当夏中、元新治県庁江前書之地所銘々所有地ニ分割いたし、地券番号江差替度旨奉出願候処、其時事御説諭有之候共右地所之儀無税公有有地之、残至諸方貫族方江御払ひ下ケ候布達ニ相成候間、来ル八月中迄差控可申、其数月間ニ貫族所望之者無之候ハバ、従前之通リ両村ニ持地可申付旨夫迄猶予可有之様被申聞、両村仕御沙汰相待居候処、当三月中以管轄替相成右原野之儀如何成行候哉、当両村百姓一同日夜苦心仕右地所相当之地価奉上納、銘々所有地ニ被申付度様、種々談判評決之上不顧恐多、今般当御庁江前顕之始末逐一奉申上候。何卒以御仁恤右之段御聞届被成下置度、伏而奉不恐願候 以上
   明治八年九月十七日
                                   高津原村
                                    農総代 菅澤嘉右衛門 印
                                    副戸長 津島宇左衛門 印
                                     戸長  菅澤惣兵衛 印
                                   大門村
                                    農総代 小島源左衛門 印
                                   副戸長 菅澤太郎右衛門 印
                                   戸長  山田六郎左衛門 印
  千葉県令柴原和殿
 書面払下願之地所者、当今官、民有之区別調査中ニ付、地種確定之上何分之意更ニ可申出事
 但還禄之士族江払下ニ者不相成事
  明治八年九月十九日
 印                                      千葉県令 柴原和
        議定誓約書
                                           久賀村内
                                            字高津原
                                             大門
 該地字前野之儀、素両村入会地ニ而秣苅取候処、明治之初年太政維新之際者新治県隷属之砌官有地ニ取調相成、爾来毎度御払下ケ拝借地等出願候得共、御許可無之荏苒消光ニ来リ、去十三年十二月尚又墾闢之旨意及出願候処、本年八月十一日〓願意徹底聞届之御指令下渡シ相成、即談意ニ基キ大門高津原二閭人民ニ而各五反宛公平ニ配賦精々尽力墾闢可致、若シ陸田力作不行届人有之部分木或ハ山林等ニ変換之際者、輪境四方五間引去リ椚楢之樹木栽植可致、且接界山林ニ変換候節者、便道弐間除キ栽植勝手タリ共不都合無之候。偖談砌陸田開墾し請頼ニ付成功之上者、秣苅取不俟論雑相成候得共部分木山林等ニ変換之後ハ従来之慈愛……字寺作御所台桧木等ヨリ入込秣苅取リ候儀ハ自由ニ任セ銘々持区画相立候茂苦情一切申間敷依而議定誓納如件
                                菅澤源右衛門 印 (以下八九名氏名略)
   明治十五年九月五日
 
 これらの史料のほかに、井戸山長谷のこと、大門飛田のことなどがある。
 この史料のうち前野の一件については、井戸山の村役人から訴訟が出されたことに始まっている。井戸山村の言い分を聞いてみると、
 「字前野というところは井戸山・高津原・大門、三ケ村の入会地であって、前々から秣草刈取り等をやって来たものである。このままでは当村としても、秣草刈取りの場所もなくなり、田畑を丹精するにも差支え、また松の木が大きくなると、御年貢運搬の道路に差障りも出て来ることになる。
 このような不仕末を捨てて置く訳にもいかないので、どうかこの仕末を早々に御吟味下さって、松の木を取り払い秣草の刈取りに差障りのないようにして、前々の取り決めを固く守るように仰せ付けていただきたい」というものであるが、これに対して高津原の言い分は次のようになっている。
 「当該場所は、数十年来共同で利用して来たが、境界が不分明では不都合であるので、四年前に五カ村立会いの上で、境を改め、支障のないように議定した上で、当村において松の木を植付けたものである。
 また井戸山村は入会地の刈子とは心得ず、関係のない村方である。
 当村としては、年貢も納めている場所をとやかく言われて、大変迷惑である。絵図面通りに改め直した上は、当村地内に差障りのないようにしていただきたい」ということである。さらにまた、染井の村役人も証人として呼び出され、大変苦しい言い訳をしながらも、領主宛に高津原村に有利なような仲介を依頼している。
 「高津原村は前にも申し上げましたように昔から私共村方の馬草刈場であり、このような不仕末は見捨ておくわけにはいかず、ここによんどころなくお願いする次第です」
 こうしてこの訴訟一件は高津原村の申し分が認められたようであるが、井戸山村は騒然となった。そこで高津原村名主宇左衛門は、不測の事態を憂慮し、ことの平穏無事を願って自ら名主役の辞任を願い出たのである。「井戸山村との一件は、熟談の結果、話し合いは済んだが、ここに村方一同相談の上、私が辞任し、後役は先例のとおり入札で行いますので落札の者に後役を仰付け下さるようお願いしたい。もちろん後役には御用に精勤するよう申し付けるので、格別の御慈悲を以って退役を仰せつけ下さるよう、村中の連印をもってお願い申し上げます」このような紛争は村と村で、あるいは村人同士で、さらには官と民との間に繰り返され、長い歴史をたどりながら次第に村々の共同管理から個人への割付けへと変っていくのである。そして傾斜地の開畑不能な山林は、全くかえり見られることもなく荒れるがままであった。
 領主は、それらの山林を村役人に払い下げ、年々上納金を徴して苦しい財政を補い、時には報奨と称して下賜するなど、領主の体面をつくろいながら、村役人に財政の援助を求めている。次の古文書が、その事実を示している。
 
     下知書
 (朱印)字浅上
   一、御林壱ケ所
 右者其方儀年来之勤功に依而格別之思召を以前書御林壱ケ所被下置候上者永々所持可致候、其為山銭年々永七拾五文宛上納可致候為後年令下知者也
 地頭所(印)
  文久二戌年十一月      地頭所
                中川運平 印
                八代金作 印
                                    下総国香取郡高津原村
                                          菅澤宇左衛門
 
     申渡之事
一、字中沢台(印)
  原野地凡拾町歩(印)
 其方儀名主役相勤当今退役申出為献金弐拾両慥ニ受納奇特之至リニ候、依而前書之地所下渡候間苗木植込永々所持可被成此旨令下知被也
   慶応元年寅年五月     用人
                中川運平 印
                八代金作 印
                                 地行所
                                       高津原村
                                        菅澤宇左衛門殿
地頭所(印)
 
 これは津島家文書の一部であるが、このように払い下げられた山林は全く利益とはならず、その後の検地に当っては所有権を放棄している。
 また、大穴野三八町八反七畝二四歩、他に秣場六町八畝は、文政二年から個人割が始まっている。天保十年(一反五畝一八歩宛)、天保十三年(二反五畝宛)、さらに安政三年割山二反歩と記録されている。
 前野一五町歩は明治十三年にそれぞれ五反歩の割付けが行われたものであるが、二本松・大穴が集落の形態を整えたのは昭和になってからのことであり、古くて明治末年から大正初期にかけての入植は五指を数える程度である。
 大正期に下総御料牧場の一部解放が行われたのと相前後して、御料地・大穴・二本松・大門など多古・佐原県道沿いの台地一帯の開拓が急速に進み、野生のラッキョウ・ニラ・山百合などが多量に収穫され、貴重な商品であったと語り伝えられている。