多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧久賀(くが)村

井戸山(いどやま)

路傍の小祠・石宮など

 そして、近隣の林の中や道路の傍に、次のような小祠・石宮・石仏などを見ることができる。
 道陸神 鎮守境内道路沿いの一段高い所に三基ほど、「道陸神」と呼ばれる石塔がある。
 もと字道祖神九一〇番地付近にあったものを、道路拡張のため現在地に移したもので、一つは、月星をいただいた青面金剛像で、台座に三猿像があり、側面に「宝暦丙子(一七五六)十一月吉日 井戸山村中」とある。
 並んで、「奉待廿六夜念願成就之攸 刀至自佗 一味平等 享保二十酉天(一七三五)正月廿六日 香取郡井戸山村願主十四人敬白」と刻まれた一基がある。そして、この二基の間に屋根形の小祠があり、「道祖神 享保四(一七一九)十一月吉日 安藤半十郎」と刻まれている。これが字名に残る道祖神である。
 道しるべ 鎮守境内西端の道沿いに二基の石塔がある。この場所は、字長谷へ向う道路と旧多古佐原街道が交わる地点で、もとは道の向い側の字宮後一一二四番地の二にあったものを、近年になって移したもので、旧街道を証し立てる道しるべでもある。それぞれ「奉順礼西国三拾三所三世為安楽也 文政六癸未年(一八二三)八月十五日 井戸山村高津原村大門村同行中、西飯笹 飛した なり田 佐倉道 南たこ(こ) 芝山 成戸 東か祢道、北寺作 古内 あらきた 佐原道」、「奉順礼西国三拾三所供養塔 天保十五甲辰歳(一八四四)二月吉日 井戸山願立 賀瀬治郎右衛門 同長左衛門 同久左衛門  善右衛門 前橋勘兵衛 此方井戸山たいし 此方高津原 さわら いのふ かうさき 渡邊治郎兵衛 賀瀬市左衛門 同利兵衛 同忠兵衛 此方多こ 志は(は)山 東可祢 前橋新兵衛 同勘左衛門 同新左衛門 安藤庄兵衛 此方飯笹 なりた さくら 江戸道 渡邊六兵衛 同久兵衛 同兵左衛門 萩原文五郎 御所台村並木七郎右衛門 大門村  太郎兵衛」と刻まれ、両者いずれも、西国三十三カ所の観音霊場を巡り歩いた人達が長旅の無事を感謝し、その報恩と記念のために、この道標を建てたものであろう。
 第六天王宮 字向山六〇〇番地の一の二にあるブロック垣に囲まれた石宮には、「昭和三十九年旧正月」とある。由緒や遷宮の時代はあきらかではない。
 例年旧一月二十日が御備社で、その当番は一年ごとに隣家へ回る方法で行われているが、「新田」と呼ばれる八軒ほどの集落以外から当番家が出ることはなく、これらの家々だけで祭事が行われている。
 当日御備社へ参加するのは「向い側」の人達も一部あるが、限られていて、全部で一七軒ほどである。この人達を俗称「新田組」というが、新田からの分家、あるいは移住の人々であるのかもしれない。
 近村山倉に広く信仰されている山倉大神があり、そこから分祠されたものとも思われる。
 金比羅宮 字向山五九九番地に鎮座する尺余の石宮で、「安政三年丙辰(一八五六)十二月大吉日 当村中世話人半兵衛 六左衛門」とある。
 如意輪観世音 字大堤五八〇番地の一付近の川岸に三基ほどあり、二つについては「奉待十九夜 文化十三(一八一六)三月吉日 当村女人講中」「奉待十九夜成就攸 天明三卯(一七八三)九月吉日当村善女人等」のように読めるが、もう一基は破損がはなはだしく判読できなかった。
 馬頭観音 字向山六一三番地付近にあり、「享和三年(一八〇三)二月吉日 井土山村」の字が観音像とともに刻まれている。もう一つは字仲之台五六二番地付近にあった。ここは多古高校第二グランドから、八田谷津と呼ばれる水田を横切る農道が山地に突き当った所で、旧道が改修されたものである。現在は多古妙光寺へ移されている。
 その刻字は「妙法蓮華経 仲町新町両谷 天保十三年寅(一八四二)六月吉日」と読める。
 お釈迦様 字向山六二三番地の一〇の畑の中にあり、塚ともいえない盛土のことをそう呼んでいる。縁起などは伝えられていないが、終戦前まで子供達の行事が行われていた。
 七歳位から十二、三歳の子供達が、毎年二月十四日の夕方から当番の家に集まって、粘土で仏像を作り椿の花で飾り付けをする。それが終ると御馳走を食べてその晩は泊り、翌朝は早く起きて昨日作った椿の花に飾られた粘土の仏像を捧げ持ち、当番の子を先頭にしてその家からお釈迦様の塚まで、口々に大声で唱え言葉を叫びながら進み、塚に仏像を供えてその行事を終わるわけであるが、いまはそのいわれを知る人もなく、唱え言葉の一節が次のように伝えられているのみである。「おしゃかさまかんじん、じどうのかんじん、あぶらかんじん、こかんじん」。
 地蔵様 字新田台六一五番地付近にある。お釈迦様の塚から二〇メートルほど南側の畑と林の境に、誰かが置き忘れたかのように一基の像が立っていて「奉造立地蔵尊像 享保十三年申天(一七二八) 一〇月吉日 井戸山村」とある。この地蔵尊についての伝承など、不明である。