多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧久賀(くが)村

井戸山(いどやま)

 村が現在の姿になったあゆみを、記録された文書によって把握しようと試みたところ、幸いにして貴重な文書を見ることができた。その中で最も古いものは次の『御高御改帳』である。
 これは支配者の交替があったときに、新しい支配者に対して村の現況を報告したもので、田畑の面積、年貢などが詳細に記されている。
 
     御高御改帳
下総国香取郡千田庄井戸山村
一、御高弐百弐石
   此訳
 一、上田壱町七反弐畝八歩
  分米弐拾五石八斗四升
 一、中田三町壱反三畝拾八歩
  分米三拾七石六斗三升弐合
 一、下田拾町七反九畝拾弐歩
  分米百七石九斗四升
 一、下々田三反八畝拾七歩
  分米弐石六斗九升九合
 〆百七拾四石壱斗壱升壱合
 一、屋鋪四反弐拾三歩
  分米四石四升
 一、中畑壱町七反七畝拾弐歩
  分米拾石六斗四升四合
 一、下畑弐町六反三畝拾五歩
  分米拾三石壱斗七升五合
 〆弐拾七石弐斗八升九合
 一、下々田壱反八畝拾九歩
  分米壱石二斗四合
 一、河下々田三町七反八畝弐歩
  分米拾八石三斗四合
 一、下々畑弐町九反五畝拾弐歩
  分米八石八斗六升弐合
 〆弐拾九石六升九合
田畑合弐拾町八反五畝拾弐歩
  高合弐百弐拾九石六升九合
下総国香取郡稲荷山村本寺大聖寺
一、境内御除    真言宗蓮福寺
一、境内御除    真言宗薬師寺
一、御除地壱反歩  山王免
一、御松林[長二拾八間横二拾間] 弐反五畝歩坊山壱所三本ハ目通五尺廻
 木数合七拾三本之内三拾五本ハ目通り三尺五寸廻
          三拾五本ハ目通三尺廻
一、御松林[長四拾五間横拾八間]弐反七畝歩中ひやう壱所五本ハ目通り六尺廻
 木数合百五拾弐本内六拾本ハ目通り三尺五寸廻
          八拾七本ハ目通り二尺廻
一、御松林[長三拾八間横弐拾間]弐反五畝歩宮後壱ケ所四本ハ目通り五尺五寸廻
 木数七拾三本之内 二拾本ハ目通り四尺五寸廻
          四拾九本ハ目通四尺廻
一、御城米付出シ候儀者井土山村より佐原村迄道五里、江戸河道江戸迄四十九里御座候
  御運賃之儀者銘々者五分今程者三分七厘去ル午ノ年被下候
一、当村より江戸迄道里拾九里御座候
一、御普請所無御座候
一、切支丹族もの壱人茂無御座候並ふせ施宗門壱人茂無御座候
一、浪人者壱人茂無御座候、惣而行衛不知者一夜之宿借不申候、勿論證文無之候者一切差置不申候
一、鉄炮壱挺、毎々池田新兵衛様申上候鉄炮壱挺御座候
一、酒作之者一切無御座候
一、馬草場野地少御座候
一、家数四拾六軒御座候
一、人数合弐百八拾八人 男百七拾人 女百拾八人
 右之内弐拾八人奉公人ニ罷出候
              馬三拾四疋
              牛  三疋
              戌  壱疋
 此度御替目ニ付郷村御請取被遊候、依之御水帳割附共ニ入御持見、其上村境村絵図迄懸御目ニ差出し記差上申候、少茂相違無御座候、此外隠し田者不及申上候、浮役小物成何ニ而茂隠置不申候、為其名主組頭蓮判仕候差上申候依而如件 以上
  下総国香取郡千田庄井土山村
                                     名主 新左衛門
                                     組頭 次郎兵衛
   元禄四年未(一六九一)八月日                      組頭 太兵衛
                                     組頭 長八郎
  御代官様
 
 そして、明治三年に報告された次の文書によると、右の元禄との比較では、水田で七町歩ほどの増加しかない。公称面積であろうがこの間およそ一八〇年、開拓の技術や機具が発達しなかったとはいいながら、これほど僅少の増加は考えられないことである。
 
     巳割附書上帳       井戸山村
一、村高弐百弐拾七石三斗弐合
 此反別弐拾七町七反七畝拾八歩
   内
 田高百九拾石五斗三升八合六勺
 此反別弐拾町五歩
 内高弐石七斗弐升四合   荒地引
 此反別四反五畝弐拾歩
 高百八拾七石八斗壱升壱合
 残反別拾九町五反五畝拾五歩
 御納米九拾石六斗弐升八合三勺七才   延口共
   内訳
高弐拾五石八斗四升
 上田壱町七反弐畝八歩   石盛拾五
高三拾七石八斗三升弐合
 中田三町壱反五畝八歩   同拾弐
    高三斗九升六合   荒地引
     三畝九歩
高三拾七石四斗 升六合
 残反別三町六反壱畝弐拾九歩
高百七石七斗三升六合
 下田拾町七反七畝拾壱歩   石盛十
    高九斗八升      荒地引
     同九畝弐拾壱歩
高百六石七斗五升六合
 残反別拾町六反七畝弐拾歩
高四石四合
 下田五反七畝六歩      同七ツ
    高壱斗五合      荒地引
    同壱畝拾五歩
高三石八斗九升四合
 残反別五反五畝弐拾壱歩
高拾五石壱斗弐升三合
 河下田三町七反八畝弐歩   同四ツ
    高壱石弐斗四升弐合  荒地引
    同三反壱畝弐歩
高拾三石八斗 升九合九勺
 残反別三町四反七畝歩
畑屋鋪
高三拾六石七斗六升七合
 此反別七町七反七畝拾三歩
 取永五貫四百三拾五文四分弐厘
   内訳
高拾石六斗四升四合
 中畑壱町七反七畝拾弐歩   盛六ツ
高拾三石壱斗七升
 下畑弐町六反三畝拾弐歩   同五ツ
高八石八斗七升六合
 下々畑弐町九反五畝弐拾六歩  同三ツ
高四石七升七合
 屋敷四反弐拾三歩       同拾
一、高三拾弐石五升五合     同村新田
 此反別七町一畝拾四歩
田高弐拾七石六斗弐升三合三勺  盛五ツ
 此反別五町五反弐畝拾四歩
 御納五石五斗弐升四合六勺六才  延口共
畑高四石四斗六升八合       同三ツ
 此反別壱町四反八畝弐拾八歩
 取永六百七拾壱文六分壱厘
田高弐百拾五石四斗三升四合八勺六才
畑屋敷四拾壱石弐斗三升五合
 米九拾六石壱斗五升三合
納合
  永六貫百七文三厘五毛
右之通取調奉差上候
   明治三年八月日    右村
                                     伍長 三右衛門
                                     什長 勘兵衛
  宮谷県御役所様                            庄屋 治郎右衛門
 
 さらにこれが明治十三年に行われた地租税賦課のための一筆調査によると、次に示すとおり、水田だけでも一挙に四七町歩と増大する。四十数町歩もの面積が一〇年間で急激に開拓されたとは思えない。
 そこで、実際にはもっと早い時代から開拓は進んでいたのであるが、検地を免れて年貢の対象にはならない耕地を相当面積持っていたということが考えられる。『明治十三年土地台帳』によると、
 
  田  四七町六畝二歩
  畑  一六町一反七畝二〇歩
  宅地 三町八反四畝四歩
  山林 七五町九反六畝三歩
    内容
    林  七五町二反六畝八歩
    竹林 一反一畝一〇歩
    萱地 二反二畝一〇歩
    芝地 一反一畝八歩
    留池 二七歩
    弊馬捨場 二反四畝
  官有地 三三町一反一畝二歩
    内容
    野地 三〇町八反
    芝地 八畝二六歩
    藪地 五畝六歩
    竹生地 九畝二六歩
    山  五反三畝
    風地官林 六反七畝一五歩
    留池 一反四畝一九歩
 
 また、明治二十三年農家調べによると、次のようになっている。
 
 一、農戸数 四九戸 内専業三四 兼業一五
 一、農人口 二五〇人 内専業二三二 兼業一八
  一五歳未満       七五人
  一五歳以上五〇歳未満 一二三人
  五〇歳以上       五二人
 一、自作農   一三戸
 一、自作兼小作 三〇戸
 一、小作     二戸
 一、田畑 一町五反以上     一四戸
 一、同右 一町五反以下八反未満  一戸
 一、同右 八反以下       二九戸
 
 なお昭和五十九年現在による現況は次のとおりである。明治以降の畑の増反は字長谷の開拓によるものであり、山林の減少もこれに伴ったものであろう。水田面積の減少は谷津田の水位が下ったことによって生じたものと思われる。
 ここで人口と耕地について元禄と比較してみると、人口差は無く同数であるのに対して、耕地面積では四倍以上の増加となっている。
 その間に、生活水準の向上や経済機構の変化を併せて考えなければならない点があるにしても、ゆとりのある村であり、田畑と山林が均等の面積であることからも、大自然の恵みをこれほど享受した村も少ないのではないだろうか。
 
  田  四一町〇反八畝    原野  五町二反六畝
  畑  五四町九反三畝    池沼      二畝
  山林 七二町六反一畝    その他 一町三反八畝
                宅地  六町一反六畝
  世帯 六七戸
  人口 二八八人 男一三七人 女一五一人