多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧久賀(くが)村

寺作(てらさく)

村につたわる古文書

 飯田家文書 飯田清兵衛家には、古くは貞享元年(一六八四)から明治中期に至るまでの文書が多数保存されていた。そしてこの中に、徳川末期の不穏な政治情勢に揺れる社会の様相をうかがわせる一連の文書があった。
 物価の高騰や政治不信に発した国民の反撥、これに対して次々と触れ書(法令・通達)を出す幕府、これらの文書から地方、農村もまた平和ではあり得なかったことが知られるのである。
 次に、その何点かを提示するが、年月の記されていないものもあり、掲出の順序が前後することを了とされたい。
 
   天より被下候村々小前者共へ
 左の文言板行摺ニいたし図之如く諸袋ニ入百姓にも与へ又ハ所々ニ張付在之候由承之、四海困窮いたし候者天録永絶也、小人事国家を治し候てハ、災害並色ゟ古人聖人深く天下浮世の君人の頭たるものを御いましめ置候故、東照神君に茂鰥寡孤独ニおゐても尤も憐みを加るハ是仁政の基と被仰置候、然ルに弐百五拾年太平の間追々上たる人驕奢を極メ、大切の政事に携候諸役人とも賄路を公ニ収受とて贈貰致、奥向女中之因縁を以道徳仁義をもなき拙き身分ニ而立身いたし、重き役ニ経上り壱人一家を犯し候工夫而已ニ智術を運し、其領分知行所之民百姓迄も過分之用金申付、是迄年貢諸役之甚しきニ苦む上へ右之通無躰之儀を申渡し、追々入用嵩候故四海之困窮と相成候ニ付、人々上を怨さる事のなき様ニ成行候得とも、江戸表より諸国一同右之風儀ニ落入、天子ハ足利已来別而御隠居御同様賞罸之権柄を御失ひ候ニ付、下民之愁ニ何方告愬とて告訴ふ事方なき様ニ乱連候ニ付、人々の愁気天に通し年々地震火災流行終ニ五穀飢饉ニ相成候、是皆天より深ク御誡之 有御告ニ候得とも、一向上たる人々心を不付尚小人奸者之輩太切之政を挑行、只下ヲハツラハシ金米を取立る手段斗りニ打掛り、実以小前のものとも及難儀我等如も、草の陰よりも常々飛ふし悲候へとも、湯武王の勢位無き孔子孟子の道徳もなけれハ徒に蟄居いたし候処、此節米価いよ/\高直ニ相成大坂之奉行並諸役人とも万物一体の仁も忘れ、得手勝手の政道を致し江戸へ回米致し、天子御在所之京都へハ回米の世話も不致而已ならず、五升三升位之米を買ひニ下り候もの共を召捕抔致し、実ニ昔し葛伯といふ大名農人の弁当を持運ひ候小児を殺し候も同様言語同断、何れ之土地の人民も徳川家の御支配之ものニ無相違事、如斯隔を付候ハ、金奉行等之不仁ニ而其上勝手我侭の触書を度々差出し、大坂中 民斗を太切ニ心得て前々申通道徳仁義を不存拙き身分故甚ニ以厚ケ間敷不届之至り、三都之内大坂之金持とも年来諸大名江貸付利徳之金銀並扶持米等を莫大掠メ取り未曽卯之有福に暮し、町人身分を持大名之家 用人等ニ被取用又は自尽田畑新田に夥敷所持何事不足なく暮し、此節の天災天罸之乍見恐レも不致餓死之貧人乞食をも 而不救、其身膏果之味よく結構のものを喰ひ妾宅等江入込或ハ湯屋茶屋へ大名の家来を誘引参り高価之酒を湯水を呑茂同様にいたし此難渋の時節に絹服をまとひ候、川原ものに  を遺ひ平生同様ニ遊互に酖り候而、何等之事哉討有長夜の酒盛りも同事其所之奉行諸役人手に握り居、政を以右之ものを立〆下民を救ひ候儀も難出来、日々堂嶋相場斗りいぢり事致、実ニ録盗人ニ而決而天道聖人之意に難叶御赦之無事ニ候、蟄居候我等最早場 難相成湯武之勢孤貧之徳なれとも、無拠天下之為与抔血族之禍ひを犯し此度有志之ものも申合、下民をなやまし苦〆候諸役人を誅伐いたし、引続き驕に長し居候大坂市中の金持の町人共を誅戮に及ひ可申候間、右のものとも穴蔵に貯置候俵米夫々分散配当いたし遺し候間、柳河象播の田畑所持いたさす候ものとも譬ひ所持致候共、父母妻子家内之養難相成程々難渋ものへ右金米等為取遣し候間、何連をも大坂市中騒動起り候由聞伝へ候ハハ、里数を不厭一刻も早ク大坂へ向駈参り可申候面々へ右米金を分ケ遣し可申候、縦橋廉台之金米 を下民へ被与道理意ニ而当時之饑饉へ難儀を相救ひ遣し、若又其内益望才力等有之ものハ夫々取上ケ無道之者とも征伐いたし候役ニも遣ひ可申、一撥訴起之金とハ違ひ追々年貢諸役等永まで軽く致し、却而中興神民帝御政道之通   度之取扱等迄を年来驕奢瑤辺の風俗を一統相改メ質素取戻し、四海万民いつ迄も天恩を難有存父母妻子を被養、生前之地獄を救ひ死後の極楽成仏を眼前に見世遣し、堯舞天照皇大神之時代に復し難く候共中興之気象に 復とて立戻り可申候、此書付村々へ逸々為知度候へハ数多の事ニ候ニ付最寄人家多ク候村々神殿へ張付置候間、大坂ゟ廻し在々番人とも江不知様心掛ケ早々ニ村々へ相触可申候、万一番人とも眼付大坂四ケ所之奸人とも注進致候様子ニ候ハヽ、無遠慮面々申合せ番人を打殺し可申候。若又騒動起り候を乍承疑惑致し駈参不申又者遅参ニ及ひ候ハヽ、金持之米金者皆火中の灰ニ相成天下之宝を取失ひ可申候間、跡ニ而必我を恨宝を捨る無道之ものと陰言を不致様可致候、其旨一同触為知候、尤是迄地頭村々方々前々年貢等ニ抱リ候諸記録帳面類者却而引破焼捨て申候、是往之深き遠慮申ル事ニ而人民を困窮為致不申候積ニ候、乍去此度之一等当願平将門明智光秀  之劉 米詮忠之謀反ニ類し候抔を申者も在々道理ニ候得共、我等一同心中ニ天下国家を簒溢致候欲心念より起り申候事者更ニ無之日月星辰之神鑑之阿る事ニ而、詰る所者湯武漢の高祖明之太祖民を憐れミ君を誅し天誅を挑行候財心而已而、若し疑敷覚候ハヽ我等之所業終る所を爾等眼を開きて看与
 但此書付小前之ものともへハ道場坊主或ハ医者ゟ読為聞可申候、若庄屋年寄眼前之禍を一己ニ隠し候ハヽ追而其罪可行候
 
 以上が判読可能な部分である。この文書が書かれたと推定される嘉永年間あたりは物価の高騰がはなはだしく、黒船の来航と和親条約の締結に伴って物情騒然とした世情となり、安政二年(一八五五)には江戸の大地震、続いて同五年(一八五八)はコレラの大流行となり、万延元年(一八六〇)には大老井伊直弼の暗殺事件があり、文久二年(一八六二)から各地に一揆が広がって行く。そして翌三年には片貝騒動、天狗騒動などが起こり、国内は大いに乱れた。
 右の文書はこうした背景のもとに書かれたものである。
 次に示す二点はともに、一般庶民の取締りのため、幕府が下達した布告書で、各地に多く見られるものである。
 
     御触書之写
一、座頭共江村々ニおいて其分限りニ応し婚礼等之節志次第聊宛之祝儀遣し候よし之処、近来者新宅亦者土蔵開或者元服等之祝儀其外品々名目を付祝儀ねだり取村々ニおいて及迷惑ニ候ニ付、最寄座頭へ夫々出銭仕切ニいたし候ものも有之由、右等ゟ仕廦増長致し追々座頭とも申合、組々持場取究メ置存意之、祝儀不差出向江者其当日混雑中を附込、座頭中間大勢引連其家へ罷越、座頭之中座敷杯と唱へ居込罷在、不吉之義等彼是口々ニ申罘り悉く為迷惑祝儀ねだり取候由相聞、似之外之義ニ候、右様之心得違不致様村役人ゟ申聞せ、若不取用候ハヽ留置最寄廻村先江可申出候
一、(省略)
一、諸浪人舟溢等之もの者、先々御触之通一切合力銭等差出申間敷、若不法ニおよび候ものハ差押へ最寄廻村先江可申出候
一、諸職人手間賃之義 所先前仕来も可有之処、職人とも申合勝手侭ニ引上ケ且雇候向ニ而者、非常急普請等之節湯銭髪結銭抔差遣し互ニセリ合雇上ケ候ニ付、終ニ者職人とも増長いたし候哉ニ相聞へ、一躰雇候もの心得違之事ニ候、職人ともニおいてハ勝手侭ニ手間賃引上ケ申間敷、前々御触之趣堅相守組合村々役人とも能々申合猥り之義無之様取締方いたし、職人ともニ寄合と申義一切差留メ可申候
 右之通今般、御奉行所ゟ 御沙汰之趣申渡候条、組合村々無異失申合厳重取締方可致候、此書付寄場下江名前書記令請印早々順達留ゟ 誠一郎方江可相送候 以上
  関東御取締御出役
                                            中山誠一郎
      うし(嘉永六年)四月                              山口顕之進
 
一、近来在方ニ浪人もの抔を留置百姓とも武芸を学、又者百姓同士相集稽古致し候由相聞、農業を妨候斗ニも無之、身分を忘れ凡かさニ成行候基ニ候得者、堅相止メ可申候、勿論故なくして武芸師範致し候者抔村方江差置申間敷候
一、百姓とも之内、江戸町方火消人足之身体をまね、出火ニ事寄大勢ニ而意恨有之もの抔之家作家財を毀、或者頭分と唱ひ組合を立喧嘩口論を好候ものも有之由相聞、甚タ以不埓之事ニ候、急度相慎惣而風儀を宜敷可致候
 右之通天保十亥年(一八三九)相触置候処、近来心得違之ものも多有之趣ニ候、向後天保度触置候趣堅相守百姓共猥ニ武芸いたし、又者修行者等止置候儀致間敷候、依而者万石以上ニおいて農兵ヲ取立剣術稽古等為致候面々も候ハヽ、其場所ニ応じ在方掛御勘定奉行並江問合候様可被致候、右之通関八州御領私領寺社領とも不洩様可被相触候、於御府内も百姓町人を猥ニ武芸之弟子ニ致間敷候
 右之通可被相触候
     三月
 右之通被仰出候間、御代官領主地頭分追々触達し可有之候得とも、右御触之趣早々組合村々江不洩様通達ニおよび、御趣意行届候様大小惣代寄場役人共厚世話可致候
 
 これらの文書から当時の世相の一端を知ることができ、現代社会の姿と比べてみるのも意義のあることではないだろうか。