多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧久賀(くが)村

御所台(ごしょだい)

 明治十四年に記された、久賀村戸長役場の『旧地頭取調書』によると、当地は、江戸牛込御門外若宮に住居を持っていた総高五百石の旗本松平熊三郎が、石高一五九石九斗一合の知行地として支配していたと述べている。この松平氏は、多古藩主久松松平家の分家筋に当る家柄である。
 多古藩初代松平康俊(初・勝俊。徳川家康の異父弟)は、駿河国久能城主(静岡市)。二代勝政は石高八千石で駿府城番(静岡市)。三代勝義は、寛永十二年(一六三五)に父の遺跡を相続するとき、駿河国有渡、安部二郡の采地を上総国武射郡下総国香取郡の内へ移されて、寄合に列し、多古を住居としているが、このときから松平家の支配地になったようである。
 勝義の六男勝郷(或勝忠)は、寛文十年(一六七〇)父の領地内から、上総国武射郡殿辺田村、下総国香取郡御所台村、船越村を知行地として、五百石を分知され、のち、小普請を勤めている。
 分家二代は勝央(なか)といい、剣術の名家とうたわれた小野次郎右衛門忠於の二男に生まれ、松平家の養子となったが、剣の達人であったといわれ、この人の物と思われる武道の秘巻が今も同家に所蔵されている。
 その後、勝友・勝方・勝美・勝久(熊三郎)と続いて明治となり、次の勝光(斧七郎)の時代に、旧領地である船越村に移り住み、現在に至っている。
 松平家に残されている、慶応四年(一八六八)二月の『知行所上納高物成取調書』によると、明治政府に引き継いだときの年貢明細は、次のとおりである。
 
   一高百五九石九斗四升三合
   内三拾三石九斗壱合新田込高
  拾ケ年平均
   此物成五拾弐石五斗九升壱勺五才
   内米 弐俵弐斗  定式渡物引
  残而米五拾壱石五斗九升壱勺五才
   外ニ
    米壱石八斗七升壱勺 口米
    米七石四斗八升   延米
  此半数上納高
   米三拾石四斗七升壱勺三才