多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧久賀(くが)村

御所台(ごしょだい)

 先賢の残した文献をたよりに、その輪郭を探ってみた。
 『香取郡誌』の一節に「御所台寺作両村を古へ土橋と称す 住古一村たり」とある。そこで「土橋」の村名をたずねると、東禅寺の僧から金沢の称名寺へ近況を書き送った次の書状、『金沢文庫古文書』に「土橋」の名が記されている。
 
    悟圓書状(「随自意抄ノ紙背」)
 並木のふけにて 皆打留候了 不可思議事候之処 千葉侍所 二十七日 以大勢土橋城へ打入候て 朝より及晩影候まて 散々合戦仕候て 土橋城責落候き 城内人人不及力候いて 敵多打候て 十二人打死仕候了 大嶋(島城)よりも岩部(栗源町岩部)よりも なんと存候けるやらむ しりつめも不仕候て 此城被打落て候 並木の城も 如本千葉方より たてつき候よし承候 以此旨可有御披露候 恐惶敬白
       八月二日
小比丘悟圓 [花押]
  進上称名寺御侍者
 
 建武の中興後、わずか三年で新政は破れ、国内は、足利尊氏の率いる武家方と、護良親王・新田義貞などの宮方の二つに分かれ、千葉氏も、千葉介貞胤が宮方、従兄弟の千田胤貞が武家方にそれぞれ属し、骨肉相食むありさまであった。
 そして、建武三年(一三三六)七月二十七日、宮方である十二代千葉介貞胤(千葉城主)の軍勢が、前年の仕返しに、武家方の千田胤貞の拠点土橋城を襲ったのであるが、そのときのようすを書き送ったものが、この称名寺古文書である。
 すでにこの時代、土橋城といわれた近辺は、相当の集落が形成され、そしてまた、敵方が集中的に打撃を加えようとするほど重要な千田胤貞の拠点であったとするならば、当時の千田の庄の行政の中心地は土橋村であった、とはいい得ないであろうか。
 立証する史料がないため推測にしかすぎないが、今もって幻の千田府といわれるゆえんでもある。そして村の起こりは、さらに遠いものであることもまたたしかである。
 土橋が御所台と寺作とに分かれたのは、これも定かではないが、徳川時代に入ってからのことであろうと思われる。
 それは、天正十八年に、栗山川以北一帯は矢作牧の一部として、矢作城主鳥居氏が支配するところとなり、慶長四年(一五九九)に検地が行われたが、その検地帳には、支配の村名として古内・井戸山・高津原など、周辺の村々は記載されているものの、土橋・寺作・御所台の地名は記されていない。このことは、慶長四年には未だ一つ村土橋で、東禅寺の朱印地であるため、鳥居氏の支配が及ばなかったところと考えるのはどうであろうか。
 そして貞享元年(一六八四)には、御所台と寺作は村境のことで争論しているので、この年には二つの村になっていたことは明らかである。そのことを立証する裁決文は、次のとおりである。
 
 下総国香取郡寺谷村与、同郡御所台村訴論之事令糺明之処、寺谷村庚申塚畑江続候芝地、御所台村之古屋敷荒畑等有之而、従前之稲干場致来、並八王子大王子両叢祠共為地内之旨難申之右屋敷跡畑跡不慥、殊矢作村より田枯村江往還之道両村を隔、其上寺谷村之開畑有之上者、御所台村申所難立之条向後右之芝地江一切不可入、仍為後鑑寺谷村之堺、東南者道を限西北者田地際を用、墨筋引廻之各加印判双方江下置之間不可違失者也
   貞享元年甲子(一六八四)五月廿五日
        中(山)隠岐 印
        彦(坂)伯耆 印
        大(岡)備前 印
        北(条)安房 印
        甲斐飛騨   印
        本(田)淡路 印
        坂(本)内記 印
        板(倉)伊豫 印
        大坂御用ニ附無加印
             水右衛門
 
 なお右の文は、境界線に役人の押印がある絵図面の裏に書かれたものである。
 このように、文書によって見る限りでは、土橋村が寺作、御所台の二つの村になったのは、慶長四年(一五九九)以降で、貞享元年(一六八四)までの間ということになる。
 ついで、御所台と呼ぶ村名についてはどうであろうか。清宮秀堅は、弘化丁未晩夏(一八四七)『北総詩誌』の中に、次のように詠んでいる。
 
 断代天正一却灰  斎東野語事悠哉
 休論成氏来寓居  確爾村名御所台
 
 そして、
 
 御所台村、係古河成氏寄寓地。上人所説紛然、以訛伝訛。不信。
 
と、成氏の寄寓地であったということはあやまりで、信ずることはできない、と付言している。
 この詩について並木栗水は、
 
 栗水曰、村人伝説固不信。而成氏寄寓地、亦無確證。然為貴人之城址、断々乎無疑。村内地名曰御所内、曰馬場、曰城、曰御廟等、歴々可徴。而我旧宅地、字曰大屋敷。蓋、当時貴人館址也。村中随畝之間、有十三塚。往々出折戟鉄甲等云。
 
との所見を付記している。
 村岡良弼も明治十一年秋の著作『北総詩史』の中で、
 
        土橋
 土橋、蓋古名也。浮図所建、呼之寺作。方言謂谷曰瑳玖。寺作即寺谷也。注画讃曰、日蓮入土橋東漸寺、読一切経。当時為巨刹、可想。公方所寓、呼之御所台。喜連川判鑑曰、文明二年、成氏寓千葉氏、十年還古河。其館於此、可知。後、割為二村、土橋之名遂不顕。頃並九村、称久賀村。御所台之与寺作、名益晦矣
 西風粛颯送悲凉  秋過土橋幽畏長
 三月豪僧繙大蔵  八年高阜舘公方
 
 このように記している。いずれも、足利成氏館が置かれたといわれ伝えられたが故に御所台の名がある、といいながらも、その確認が得られないようである。
 足利尊氏は室町幕府を開くと、正平四年(一三四九)に弟基氏を鎌倉に遣わして関東管領職を命じたが、数代のちの六代将軍義教と関東管領四代持氏とは将軍の座を争ってその反目は日増しにつのっていった。
 このなかで、管領家の上杉憲実は、ひそかに京都の将軍家と連絡をとりながら、常に管領持氏の軽挙を抑制していたが、ついには持氏に嫌忌され、討伐の兵を向けられた。この報を受けた将軍義教は、上杉方を援けて管領持氏を滅ぼすための兵を関東に派遣した。この結果、持氏は戦いに敗れ、鎌倉報国寺で自刃し、基氏より四代八〇年にして鎌倉管領家は滅亡することとなった。時は、永享十一年(一四三九)二月十日であった。
 主なきあとの鎌倉の府を持氏征討軍の将上杉房定が支配したが、関東一円の諸将を統一するまでには至らなかった。そのため、さきの戦いで自刃した持氏の子足利成氏を、関東の惣領として任命されるよう、八代将軍義政に要請し、宝徳元年(一四四九)十一月三十日に関東公方足利成氏が誕生した。
 成氏は就任するや、わが父を討った上杉憲実の末子憲忠を管領職に任用した。このことは、管領方と公方方の対立を再燃させるもとになり、再び成氏は、管領上杉憲忠を討つために立ち上った。
 そして憲忠は援軍を将軍足利義政に求めたことから、父のときのように京都将軍家と鎌倉公方家との同族の戦いが繰りかえされることになったのである。
 成氏は古河(埼玉県栗橋付近)に陣を構え、京都よりの成氏追討軍は、新たに任命された関東公方足利政知を将として、堀越(静岡県北条町)に館を構えた。
 両公方の抗争は、北総の武将千葉一族にも重大な影響を及ぼし、一門は双方に分かれて相争ったが、多古城島城の攻防戦(別記)もその一つである。
 文明三年(一四七一)三月、堀越公方を倒そうと伊豆に侵入した古河公方は、そこで大敗し、第二十三代千葉介孝胤(居城は現在の佐倉市)を頼って逃がれた。そこで孝胤は、逃れて来た古河公方足利成氏を、土橋城の一隅(御所台字御所内)に館を建てて保護したという。
 この地に滞在中に成氏は、千葉孝胤と香取社家との間で、一〇〇年にわたって続けられていた領地問題をめぐる紛争を仲介し、それによって孝胤は、争いの土地を香取神宮に返還している。
 それ以前にも成氏は祈禱の巻数も納めているが、それらに関する香取神宮文書は、次のとおりである。
 
    足利成氏内書
祈禱巻数到来了、弥可抽精誠之状如件
  享徳十七年(応仁二年、一四六八)正月十六日
                                          [花押](足利成氏)
 香取大袮宜殿
 
    足利成氏内書
香取神領下総国小野村、織幡村、葛原村等事、当知行人爾能々有御尋、社家江可披還付候、其間事者、可相待申候、謹言
  (年未詳)八月六日                                [花押](足利成氏)
 香取大袮宜殿
 
    千葉孝胤安堵状
香取御神領下総国葛原、小野、織幡所々事、任代々証文旨、御知行不可有相違候也、此上者、天下御祈禱並御祭礼不可有御退転状如件
  享徳廿年(文明三年・一四七一)八月二十七日
                                          孝胤[花押]
 香取大袮宜殿
 
 では、足利成氏はどのくらいの期間御所台にいたかということであるが、地元に確たる史料がなく、次の二文、『妙見実録千集記』には、千葉廿三代輔胤の項に、「文明年中(一四六九~八六)源成氏総州古河ノ城ヲ出奔シテ佐倉ヘ逃来リ、八ケ年扶助ニ預ルトイヘリ……」と記し、『千葉伝考記』には、第廿二代千葉介輔胤の項に「文明三年(一四七一)六月廿四日に至り古河落城せしかば、成氏は千葉を指して落ち行き、千葉孝胤(輔胤の子、康胤とも)を頼み給ふ。輔胤、孝胤之を佐倉城に迎へ、いと懇に扶助されたり。(中略)翌四年の春、成氏佐倉を発向ありて、古河を攻め落し、帰城の上……(後略)」とあるように、いずれともいい難いものがある。
 そして成氏は、文明十年(一四七八)堀越公方方の部将上杉氏と和睦し、古河公方としての地位を保ちながら、引続き戦乱の続く関東武者団の間を転々とし、明応六年(一四九七)九月三十日病のため、古河城内で六十四歳の生涯を閉じたといわれる。
 その後の北総の地は、千葉一族の同族間の闘争が相次ぎ、それぞれの力が弱まると同時に、小田原の北条家が台頭して来るに従い、千葉氏は各家とも北条家の属将となっていった。
 この時代になると、土橋城の名はすでに史書には出て来なくなっている。千田胤貞が支配し、後に廿三代千葉介孝胤が守り、古河公方が住まったと伝えられる土橋の城も、歴史の波に呑み込まれて、爾来徳川期に至る間は空白である。