多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧久賀(くが)村

西古内(にしふるうち)

 西古内が村落として共同体を組織したのはいつの時代であったか。幾多の先人が研究を積みながらも、いまだ確証の得られぬまま現在に至っている。
 人の生活に欠くことのできない食糧確保のための農耕地は、どのようなようすであったかを古文書によって調べると、現存する最も古いものに西古内村名主長五郎の時代(延享元年(一七四四)四月)に作られた『屋敷反別名寄帳畑上中下反別名寄帳』、『田上中下名寄反別帳』、『下々田名寄反別帳』の三点がある。
 それによると、地目別反別合計は次のとおりである。
 
  上田  壱町五反五畝一歩
  中田  四町七反六畝壱歩
  下田  八町八反六畝十二歩
  下々田 三町壱畝十七歩
  田合計 十八町壱反九畝壱歩
  屋敷  三反六畝十六歩
  上畑  八反十歩
  中畑  壱町壱反七畝十歩
  下畑  二町六反二畂
  畑屋敷合計  壱町五反八畝十八歩
 
 この名寄によれば、土地所有者は四一名である。なお、年貢は五割から六割ぐらいの間で賦課されていたようである。
 人々の暮らしをささえた水田はどのようにしてひらかれたのか。稲が移入されて日本の西側に開田が始められた頃は、栗山川周辺はまだ湖であったはずであり、その後の隆起によって水位は次第に下った。そのために、丘陵地の谷合いは湿地帯となり、湧水のある山峡の入江あたりから開拓が始められたものと考えられる。
 字石橋霜月橋から上流部を見ると、二つの帯状の水田が深く丘陵部へ入り込んでおり、台地がくびれて狭くなっていることがわかるが、これが、すなわち大門地内の字山の下新田となったところである。
 現在の水田に面した斜面中腹に、点々と住居跡と思われる平坦部があり、また字山之台には、高橋伝兵衛家の氏神が最近まで祀られていたといわれる。また、「われわれの祖先は、字上人塚の奥に大門の人達と共に住んでいて、分村する際に、大門が畑四十町田二十町、西古内が田四十町畑二十町を分け合った」と伝えられている話などからも、新田の開拓が前記のようになされてきたと考えられる。
 水田がひらかれるに従い、人々は水利を求めて水田の近くに住居を移し、それが現在に至ったものであろう。
 住居を、同時ではないにせよ集団で移転するほど、農耕地が増加したことは、遺跡によっても想像に難くはないが、それを数字や文書で示した資料は発見されていない。
 年代は大幅に下るが、明治九年五月五日に村用掛高橋源之烝が県庁に差出した上申書には、
 
 一、反別二十三町一反四畝五歩
  旧高一八一石三斗九升八合
  人員二〇八人 男一〇一人、女一〇七人
 
となっている。この数字は江戸時代の田畑合計面積と、平均総収量とほとんど変ることはない。人員は提出時の実数と思われる。
 右報告書の提出された翌年頃から、明治政府によって、土地に番号を付して一筆ごと調査が計画され、強力に推進される。この事業によって、大字、字、地番、地目、地積という現在の土地表示が確定し、永い間使われて来た俵付けの収穫量表示から、実測面積表示へと改変されたのである。
 土地の瘠せた所は公称面積よりその実面積が多く、肥えた所は公称面積とほぼ同様である、という慣例は一挙に改められた。その調査をまとめた「一筆限地価修正取調書、水田の部」が残されているが、それによると合計面積は四三町四反八畝一八歩となっている。
 年々歳々たゆみなく開発が続けられて、明治初期にはその新田開発もほぼ完了したと思われるが、長い年月、人力だけでこれほどの農耕地を作り上げた祖先の労苦はどんなであったろうか、機械力の進んだ現在では及びもつかないほどのものであったことと思われる。
 ちなみに昭和五十九年現在の耕作面積は、次のとおりである。
 
  水田  三七町四畝歩       宅地  四町五反七畝歩
  畑   一四町一反五畝歩     原野  二反三畝歩
  山林  一七町七反九畝歩     その他 三町九畝歩
  世帯数  五三戸 男一二八人、女一二一人 計二四九人