多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

地域史編

旧久賀(くが)村

西古内(にしふるうち)


 

 西古内は、現多古町役場の位置からほぼ北北東へ四キロ、東は栗山川を隔てて旧中村から南玉造を望み、西は高津原、南は台作、北は大門・次浦に接している。この村落の起源と形成の過程を探る方法として、伝承・古文書・遺跡などを参考にしたが、史料に恵まれず、詳細な記述に及べないのが残念である。
 近隣の各集落には、村の草分けと称する家が必ず何軒かあり、その家々には、湧水池や板碑が守り伝えられている例が多い。
 西古内にも、板碑が地蔵院境内に二基、菅澤平右衛門家裏の池畔に一基、薬師様境内にそれらしき断片がある。地蔵院境内の一基は上人塚の古墳上にあったものが移されたといわれ、これはほぼ完全な形を残している。もう一基は、二つに折れたもので、「お化け石」の別名で呼ばれている。
 「お化け石」のいわれは、むかしこの石は、旧佐原街道の字石橋に、橋板として架けられていたが、夜になると妖怪と化して通行人に害を及ぼし、困り果てていた。そこで、香取甚之烝家に寄隅していた鎌倉の武士朝日奈三郎が、妖怪を退治すべく切り付けたのであるが、石が二つに折れたのはそのときのことであると口伝されている。
 他の板碑には、梵字らしきものが彫られていたようであるが、いまは摩滅して読めない。この「お化け石」には「永徳元季(一三八一)八月廿八日」と年号が刻まれている。
 永徳元年は、将軍は足利義満で、南北両朝が合体する一年前である。
 今から六〇〇年以上も前に先祖供養の板碑が建造されているということは、その時には、すでに先祖供養の信仰をもった人々が住んでいたことを物語るものである。
 また、遠い石の産地で板碑を造り、これを運んでくることは、当時としてはきわめて難しいことであるにもかかわらず、それを成し得るだけの財力を有した人達が、すでにこの付近で生活していたことを示すものでもある。
 栗山川に突き出た丘陵部を字新城という、古い砦跡と伝えられ、この周辺の古墳から刀剣類が出土したことがある。
 同じ台地の北端は字「ぼ丁(ちょう)ち」で、ここに「房庁寺」と称した寺があり、開山の上人を葬ったのが隣接の上人塚であるといわれている。この上人塚にある古墳は、今も歴然とその形を保っている。
 以上のことがらから推論すれば、砦を築き、寺院を建立した支配者は、八世紀頃から北総一帯に権力を振るった、千葉氏の一族ではないかと思われる。
 高橋伝兵衛家に、大正時代末期に公開された、先祖伝来の秘書といわれた文書があり、それには、
 
         一念成就春風拂四重煩脳雲
  八幡大菩薩  三尊来迎秋月留五趣輪廻虚空
  天照皇太神  真如実相月輪照生死長夜闇
  春日大明神  本有常住日輪耀無明深夜暁
         四智円明朝瑩内證三身玉
         五眼具足夕救外用八相光
          千葉介平朝臣知胤書之(花押)
 
このように記されている。
 ここに花押のある「千葉介平朝臣知胤」を、松蘿館本千葉系図ならびに出沼区穴澤家に伝わる大須賀家記によって、たずねてみると、千葉介常胤の四男胤信は、初めて大須賀を姓とし、松子城を築いて嫡男通信に伝え、以後政氏に至るまで二十一代続いた。
 政氏のとき、小田原落城とともに北条氏が滅び、それに付随して、政氏も松子城を明け渡し、常陸国府中に流落の身となった。後、再び松子に帰って、菩提寺である宝応寺に住むが、寛永二年(一六二五)に病没。これによって、胤信以来四百五十年余続いた大須賀の家名も、消え失せることとなった。
 これより先、胤信より十八代尾張守政常は、家督を長子政朝に譲った後、二男の丹波守常久を伴い、伊能の城に隠居し、元亀元年(一五七〇)に八十五歳で死去したが、そのあとを継いだ常久は、天正十八年(一五九〇)五月、分領のうちの千田庄出沼に退去した。そして、長子員胤は、具足・馬具・刀剣などのすべてを宝応・東光両寺に寄進して、家臣とともに里の人となったのである。
 その子常正は、治右衛門を称し、胤秋・芳胤・通胤と続くが、通胤の弟親胤は、号を一観斉、姓を本城と名乗り、浅山一伝流皆伝の腕前を持つ武芸者であった。その子が知胤で、宝応寺文書に
 
 当山ニ安置セラルヽ如意輪観世音ハ、胤信之守本尊ナリ、是ニヨッテツラツラ志願ヲ発シテ、御厨子ヲ奉寄附、時ハ当山十四世雄泉大鳳和尚代也 知胤門人御厨子寄附之連名
                                      家嫡 本城常五郎  胤久
                                       ――(他、二十七名略)――
                                一観斎親胤門人
                                      佐原 伊能平左衛門 令貴
                                         ――(他、三名略)――
                                御厨子工 府馬古内
                                         鈴木多門   宗房
                                      知胤弟中里半兵衛  胤直
                                      同縁弟鈴木太兵衛  珍直
                                      同 弟岡澤源二郎  盛徳
 右連名 御厨子之裏ニシルシテ 文政十三庚寅年(一八三〇)八月廿一日 粟飯原・芹川・小倉同道ニテ如意山之堂上ニ奉納
 
とあるように、父と同様、武芸師範をしていたようである。
 いま、この系譜を略系図にまとめると、次のようになる。

 

 また、松蘿館本千葉系図(大須賀氏の項)、君島系図によると、胤信の三男(また五男とも)範胤は、成毛八郎と称していたが、宝治合戦(一二四七)の後、下野国君島郷に住んだことから、君島十郎左衛門嗣胤と改めた。
 子孫は南朝方に属して戦功があり、その五代後裔の知胤は、従五位下備中守に任ぜられ、明徳二年(一三九一)に四十一歳で没した人である。
 さらに、千葉宗家系図をみると、千葉介十九代胤直父子が古河公方成氏のために多古で自害、千葉氏の正統は絶えて、支族の馬加康胤が二十一代の千葉介となっている。
 その後、二十六代昌胤の弟胤定は鳴戸八郎を名乗ったが、その長子利胤は、伯父昌胤のあとを継いで千葉介二十七代となり、二男胤富が二十九代千葉介となった。
 胤富の長子良胤も、父のあとをついで千葉介を称したが、多病のため、その職を弟の邦胤に譲った。良胤の孫が、もう一人の知胤である。
 この知胤は、曽祖父の胤富が天正十三年(一五八五)に五十五歳で、祖父弟の邦胤が同十六年に二十九歳で、それぞれ死去しているが、知胤自身の生没年などは不明である。
 このようにしてみると、前記高橋伝兵衛家文書にある「千葉介平朝臣知胤」は、右に述べた三人の知胤のうち、いずれであろうか。「千葉介」という肩書きや、住んだ場所、またはその生没年などから、特定の一人に断定することは避けたいが、いずれにしても、千葉氏族の系累であることは確かであるといえよう。
 そのほかにも、千葉氏支流の松子城主大須賀家との関連において伝えられているものに、天正十八年(一五九〇)小田原北条氏とともに、時の松子城主も戦死して、一族郎党が離散のやむなきに至ったとき、その夫人は弟の刑部と少数の家来を連れて、香取勘之烝家に難を逃れた。その際に大須賀家の家宝である二体の仏像を護持していた。

大須賀家伝来の二尊

 この仏像は千葉介常胤が、大須賀家の始祖四男胤信に与えたもので、小野篁一刀三礼の作といわれる阿弥陀如来と薬師如来であった。弟刑部は、別に一家を創り、香取惣治右衛門と名を改め、子孫は代々この二体の仏像を守り続けて来たという。
 また、別に伝えられるものに、大須賀氏夫人は勘之烝家の出身で、松子城が開城となって落ちのびるときに、戦死した夫の首級と家宝の仏像二体を守り、男子二人を連れて生家に還った。
 夫の首級は勘之烝家墓地に(字下夕畑三八五番)に葬り五輪塔を建立した。すでにその刻字は風化して判読できないが、今も同家によって丁重に供養されている。
 そのときに連れられて来た二人の男子は各々一家をなし、長子は惣治右衛門家、次子は長五郎家の始祖となり、惣治右衛門は二体の仏像のうち阿弥陀如来を、長五郎は薬師如来をそれぞれ分けて守っていた。
 この仏像も、両家の変遷に伴って、堂舎を次々と移祀されていたが、字下夕畑の墓地の堂内に祀られていたとき火災の難を受けたため、その後は地蔵院内陣に移された。しかし、村内の有志に、旧地へ還りたいという夢のお告げをしたなどのことがあって、現在の字脇一五七番地の、旧薬師屋敷隣の小堂に安置されることになったといわれている。
 このたび、特に香取長五郎家の協力を得て、門外不出、披見無用とされていた秘物披見の機会を得ることができた。その秘物は、高さ三センチほどの薬師如来像と、出陣の際に、兜の内に納める錦袋に包まれた懐中曼荼羅、それに、兵法書断簡の三点であった。
 時代的な考証は難しいが、いずれも武門の流れを伝える遺物として、立派なものである。
 また、勘之烝家から分家した香取家(した畑)には、幅三〇センチ、長さ九〇センチほどの織布が伝えられているが、それは、二つの菊花紋を織り出してあり、分家に当って、家宝として譲られたものといわれている。
 先に、松子城主大須賀氏が、天正十八年北条氏の滅亡とともに開城、流落の身となったことについてはふれたが、それに加えて、穴沢家文書『大須賀家記』には、
 
 弥六郎政氏マテ廿一代連綿ト相続セリ 然ルニ天正十八年庚寅尾張守常安 一族ヲ率シテ小田原ニ出張ス内命再度ニ及テ本国帰陣ノ砌 佐倉ニオイテ逝去セラル コレニヨッテ嫡子政氏 家系譜牒ヲ持 居城ヲヒラキテ 常陸国府中ニ流落シ 後帰国シテ宝岳応寺ニ居セラレケル 当山ハ家祖ノ胤信開基セラルヽ処也 並ニ旧臣ノ面々近隣ノ村里ニ下リテ子孫民間ニ居シ 終ニ邑里ノ民トナリケル
 
とある。
 これらのことから、二体の仏像を守って(弟または二人の男子を伴い、あるいは夫の首級を携えて)勘之烝家に逃れたという大須賀氏夫人は、廿代尾張守常安(天正十八・十二・三没〈没年は、宝応寺過去帳による〉)、または、廿一代弥六郎政氏(寛永二・七・十一没〈没年同前〉)の、いずれかの夫人ということになろう。
 同家には、次のような口伝もある。それは、ある時代に香取神宮祢宜の家と縁組があったが、その人の「死後は、香取の森の見える所に葬って欲しい」という遺志に従って、村落の東端山林中に塚を築き、そこへ墓を建てたというものである。
 現在は開墾されて畑地となっているが、字石橋八七番地に所在するその墓石には、次のように刻まれている。
 正面には、九耀紋の下に「香取家先祖代々墓」、右側に「貞享四丁卯年卯月五日 大須賀佐右衛門尉四代之孫 長九郎喜次代より以来」、左側に「施主香取勘之烝 香取佐右衛門 香取儀兵衛」
 この刻文にみえる「長九郎喜次」については、同じく勘之烝家に残る次の文書が、きわめて重要な参考となる。
 
      仮名
                  任長九郎喜次
 大須賀佐右衛門尉四代孫
   貞享四丁卯年卯月五日
   香取大袮宜大中臣朝臣加津布佐
                    香取 長九郎
 

香取家文書

 そして、この文書について香取神宮権袮宜尾崎保博氏は「長九郎喜次が、大須賀佐右衛門尉の四代目の子孫であることを、香取神宮大祢宜加津布佐が証明したもので、このときから、大須賀氏から香取氏に姓を改めたのではないだろうか」と説明している。
 なお、大祢宜加津布佐(勝房)は、『香取文書纂巻十七・香取氏系図』によると、寛文八年(一六六八)大祢宜職。元禄四年(一六九一)従五位下、任丹波守。同十三年(一七〇〇)台命により大宮司となり、正徳四年(一七一四)に七十歳で没した人である。
 いずれにせよ、古文書・口伝・織布など、香取神宮との関係や、大須賀氏とのつながりを明らかにするには、史料が乏しく、今後の研究がまたれるところである。
 しかし、天正以前における当地の支配者は、千葉氏一族の大須賀氏か、あるいは大須賀氏の系累に属する有力者か、両者のいずれかであったことはいえよう。
 天正以降徳川氏が江戸に入り、譜代の諸侯を関東各地に封じたが、寛文三年(一六六三)には、旗本三宅与左衛門勝重の知行地となった。
 勝重は、将軍家光に仕えて、甲斐国八代郡のうちに采地二百石を賜っていたが、この年の九月一日に、采地を上総国武射、下総国香取二郡のうちに移されたものである。同十二年(一六七二)に七十九歳で没したが、その後、元徳・重道・重次・徳灌(のりきよ)・政居(まさおさ)と続き、その弟貞居(さだすえ)は明和五年(一七六八)に、二十一歳で兄の遺封を継ぎ、子孫は代々当地を知行地として明治に至った。
 徳川時代最後の当主は三宅光次郎といい、総禄高三百石で、牛込富士見馬場に住んでいたが、徳川氏の禄を離れた同家では、永年の知行地であった本村に帰農するつもりであったのか、字内手一一六番地辺に住居を建てたが、ついに住むことはなく、当然のことながらすでにその屋敷もない。