多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

通史編

第四章 近世

第六節 宗教と文化

 江戸時代、庶民の初等教育は僧侶・神官・医師・武士、あるいは学識のある資産家などによって寺院や自宅を開放して行われた。寺子屋または手習所と呼ばれるもので、いわゆる読み書き算盤(そろばん)が教えられた。多古町域の村々でも各所で開かれていたことは寺の境内や墓地などに「筆子中」、「筆弟中」の名で建てられている報恩碑によって知ることができる。以下は村々の報恩碑や記録から集録した、明治初期までの家塾の師匠たちで、各村の内は五十音順に排列した。
 
 多古村  飯田一雅(一八二七~八六)、勝又吉兵衛、教童院自楽日宗(~一八二七)、寿峰院日満(~一八六四)、
      千葉胤忠(椎名喜平治)(一八三七~八八)、寺井民之進、寺田弥右衛門、久松半助、平山玄益
 島村   宇井玄亮、斎藤仙貞(~一七六一)、戸村縫之丞
 水戸村  五木田縫之丞
 石成村  永覚(~一八七九)、鈴木利左衛門(鳳谷(ほうこく))(一七八八~一八六九)
 林村   木川三郎兵衛
 東台村  山口揚順(麗春堂)
 大原村  大谷総右衛門
 染井村  平山源兵衛(一七九二~一八六九)、〓我堂義得
 飯笹村  伊藤久兵衛、伊藤三右衛門、中村弥一右衛門(竜泉堂青谷)(一八一七~八〇)、萩原平左衛門、
      宥潭(ゆうたん)(~一八一七)
 間倉村  石神井(いしがみい)佐左衛門
 一鍬田村 林愚文(一八一八~九〇)
 船越村  宇井治喜(佐富)(一七五〇~一八一七)、山辺八郎左衛門
 次浦村  佐藤玄岱(たい)(一八三四~七七)、佐藤南斗(晴軒)(~一八四七)、佐藤祐次郎、藤崎敬義
 西古内村 高橋源之丞(一八三八~八九)
 高津原村 菅沢仁右衛門、菅沢杢(もく)左衛門、津島宇左衛門、吉嗣(よしつぐ)直久
 出沼村  鈴木清親
 谷三倉村 太田藤右衛門(正斎)・栄太郎父子(集成舎)
 東松崎村 木村日譿(けい)、久志本常則(一七九五~一八七八)、佐々木信明(方壺(こ)山人)、
      林弥助(一八二三~七一)・覚次郎父子、吉田昌健(一八二〇~一九〇四)
 坂村   及川寿蔵
 方田村  宇井佐兵衛、平山清助(一八一四~一九〇二)
 南玉造村 飛ケ谷七郎右衛門
 南中村  小松院前司日輝(~一八五六)、柴田半助、鷲(しゅう)風院日晴兀(ごつ)山(~一七八八)、関谷啓之丞(一八四三~七四)、
      由(ゆう)縁院道入(~一七九五)
 北中村  大木四郎兵衛、押田喜兵衛(一七八九~一八五二)
 南並木村 前林庄輔、飯田宇兵衛

石神井佐左衛門報恩墓碑(間倉延命寺跡)

 以上のうち南中村郷部の柴田半助は漢学者として、石成村の鈴木鳳谷(後述)、坂村の及川寿蔵は算学家として知られ、南並木村の飯田宇兵衛は多古藩主に漢学を講じたこともある篤学者であった。また船越村の宇井治喜は著名な俳人である(俳諧の項で後述)。多古村の椎名・寺井・寺田・久松らは多古藩士、飯笹村の中村は旗本松平氏の家臣である。また僧侶には多古村新町昌円寺住職飯田一雅(中村檀林出身)、同高根実相寺住職日満大徳、石成村石成寺住職永覚(高市先生)、飯笹村地福寺住職宥潭、東松崎村顕実寺木村日譿らがある。
 水戸村の五木田家塾は三代続いたが、そうした例は少なくないようである。五木田縫之丞は先代からの寺子屋が次第に筆子が増えて手狭になったためか、文政四年(一八二一)四月十六日の日記に寺子屋棟上げと記している。以下この家塾の内容を縫之丞の日記その他によって見てみよう。
 教科書には『古状揃(そろい)』(手紙の文例、教訓集)、『庭訓(ていきん)往来』(室町時代初期に作られた擬漢文体の手紙文例集)、『小学』(初学者のために作法、善行、嘉言などを古今の書から集録した中国宋代の書)を用い、希望者にはさらに四書(『大学』『孟子』『中庸』『論語』)などを教えたという。
 生徒は十歳前後に入学し、四年間ぐらいは平均して就学した。授業料は五節句(正月七日、三月三日、五月五日、七月七日、九月九日)ごとに米二升、このほかに束脩(そくしゅう)といわれる入学金があったらしい。
 生徒(筆子)数は安政五年(一八五八)の『筆子名前控』によれば、水戸・石成村五三人、林村五人、多古村四一人、島村一〇人、千田村三人、船越村一人、下吹入村一人、合計一一四人であった。
 正月、五月、九月の各二十五日には、天神講が行われ、学芸の神である菅原道真公に学問上達を祈り、師匠から茶菓を頂く慣例になっていた。
 次に船越の宇井佐富の塾で『寺子往来』などのほかに使われた独自の教科書を見てみよう。『童子机上の夢』と題するもので、七五調にのせて付近の村々の名や名勝などがよみ込んであり、地名とともに字句を朗唱しながら覚えさせたものである。飛鳥園三世貞翁を名乗る俳人でもあった佐富が、あるいはその俳友門人たちとともに作ったものかと思われる。

『童子机上の夢』

 新玉(あらたま)の年立帰り、筆試(こころみ)る旦(あした)より、百千囀(ももちさえず)る童子(わらべご)に、いざや芳野(よしの)の桜にあらで、村々の花見せんと、硯(すずり)の海に纜(ともづな)を解き、筆の棹(さお)、墨の梶(かじ)、新井の渡しに船越(ふなこし)て、嶋(しま)隠れゆく朝霞、日も長々と牛尾(うしのお)や、宝米(ほうめ)の宮にふし拝み、市の原にさしかかれば、右と左へ二又や、台より落る細流れ、蝉の小川の夕間暮、垣根に青き若梅の、柴折(しおり)を鎖(とざ)す傍示戸(ほうじど)に、一夜旅寝の草枕(まくら)、桧木にあらぬ小田部がさ、甍(いらか)ならべし留下や、夏草茂る芝崎を打過て、母子の子安頓首(ぬかづけ)ば、とく/\の清水にひとしき薬の水、諸病を治し、乳汁(ちちじる)を増す霊水とかや、夫(それ)より拾ひ束し貝塚や、立並べたる飯倉・米倉の軒続き、影さし入るゝ夏の月、物の匂(にほ)ひや八日市場の、門(かど)々の声賑(にぎ)はしく、銚子をば生(なま)で出けん初鰹、鉢(はつ)に寄来るささら波、小合半(こなから)の酔面白く、横須賀堤長々と、誓ひたふとき宮川や、両総の境なる、栗山橋を打渡り、横芝の町過行ば、峨々(がが)たる巌石湖水に聳(そび)へ、松吹く風に遍照庵の鐘すずしく、暫く岩根に腰をかけ、湖水とり巻く村々を尋れば、押辺、猿尾、赤子宿、八田、長倉、姥山や、又遠山を見渡せば、兵(つわもの)共の夢のあとともいいつべき、坂田の城の旧跡を一見し、夫よりも往来の人に大堤、田越、山越へ早船に、菅笠の真帆ひいて冨田、成戸の里過て、石上に懸作(かけつく)る、不動尊を礼拝し玉(たま)ふ、東金の町伝へ、名にしおふ松の暗闇が坂も、布田の薬師の恵にて、霧晴れわたる極楽寺、芝山畑の植草に、水養ひの雨坪や、埴谷の祖師堂とふとくも、茂る椎崎森深み、横田の小田へ堰下(おろ)す、小池流るる板川原、中津田小橋引越して、大倉が谷山室の、野飼の駒や山中の、牛熊をふせぐ木戸の台、小堤こへて丸木橋、谷の台にさしかかり、殿部田の部田つづき、高谷のはしに見渡せば、山田のとろみ色付て、風吹入るる小原子の、不動堂にやすらいて、摺(す)り火の煙草に打越(おつこし)方を思ひ出し、境宮崎、白桝や、飯櫃の方を詠(なが)めやり、夫れよりもまた萩や桔梗の咲き交(まじ)る、岩山の原過行けば、時しらぬ山郭公(やまほととぎす)音信(おとず)れて、根木名の里や七曲り、九折よも尽せじの、酒々井の宿、清き流れの中河や、風にしらべる松の琴、松の並木の長々と、打過行ば茂る御山の名も高き、成田山に参詣す、冬枯しらぬ峯の松、勤行(ごんぎょう)の経の絶間なし。金玉の声玲瓏(れいろう)として心耳を洸(こう)し、此方(こなた)の岩間に漲(みなぎ)る滝の音、実(げ)にや、ほろほろと山吹散るやと詠(なが)めせし所も斯くやらんと、彼芭蕉のむかしを思ひ出し、暫く時をうつしけり。
 夫より尾花の波の原越て、霜ふむ鹿の坂志岡、菱田に戦(そよ)ぐ稲の穂に、栖母家(すもげ)の煙り賑ひて、加茂の祭りの夕間暮、間倉、檜木の薬掘る里人に道を問ひ、古内、大門の里過ぎ行けば、籾摺(もみすり)唄の高津原、谷の流の滴(したた)りて、舟さし寄せる次浦や、御所台の往古を尋ね、寺作なる酒酔の天神え参詣す、流れ尽せぬ井戸山や石芋堂をふし拝み、三倉四倉の村つづき、佐原の町に休らひて、又河舟に棹さし行けば、潮来の夜の賑はしく、梶枕に夢も結ばず、あられふる鹿島、香取を参詣し、賽神(むくいまつり)も事すぎて、草鞋(わらじ)の紐〆(しめ)直し、其の里此の里を打過ぎて、飯高檀林に詣で、片子、金原、大堀こえて、末の松山、生尾(およお)の里、大浦、長岡の名物なる、牛蒡(ごぼう)の藁(わら)の苞(あらまき)に、吉田、山崎、久方の、時雨(しぐれ)にそよぐ笹本も、齢(よわ)ひも長き亀崎や、峯作る雲の中村に、日夜絶へせぬ法(のり)の聲(こえ)、経誦(よみ)鳥の六つ塚を一見し、多古の長橋過る頃、入日に山を染井の里、佐野のあたりの夕気色(げしき)、伏猪(ふせい)に井野の根も飛(とぶ)や、馬に薪を大原の、谷(やつ)の五反田いつとなく袂(たもと)に霜の帰り花、雪に日の出の東台、実(み)に一と炊(たき)の飯笹や、筆の暇(いとま)のあらざれば、今書残す村の名は、かさねての文字の林に遊ばんと、石成、水戸の部田過て、胡蝶の夢にあらねども、元の机に帰りけり。〔注〕小合半は「こなから」と読むと思われる。こなからは通常「小半・二合半」と書き、少量の酒にいう。当時そのような地名があったのであろうか。
 
 江戸時代末期、こうした寺子屋で学んだ人に北中村出身で、歴史地理学に大きな業績を残した村岡良弼(一八四五~一九一七)がある。彼は八歳で飯高檀林に入り、安政五年(一八五八)十四歳で江戸に出て水本成美につき、ついで昌平黌(こう)に学んでいるが、郷里では早くから四書五経の句読(くとう)を受けていたといわれている。
 また、東松崎村韮切(にらきり)にあった盍簪(こうしん)堂は寛政五年(一七九三)同村と川島村の人々がその師方壺(こ)山人のために建てた学舎である。山人は佐々木信明という播磨国明石(あかし)の人で文学に造詣(けい)深く、この地に来て読み書きを教えた。そのためこの地方は文事が盛んになったといわれている。盍簪とは友人同士の会合の意で『易経』から採った言葉である。
 以上は初等教育であるが、中高等教育の私塾として碩(せき)学並木栗(りっ)水の螟蛉(めいれい)塾がある。栗水は文政十二年(一八二九)御所台村の父祖三代の医家に生まれた。九歳のとき父に従って佐原に移り、国学者清宮滄洲(せいみやそうしゅう)に学んだ。滄洲の子秀堅(ひでかた)は栗水より六歳年長で、後に『下総国旧(く)事考』を著すが、栗水を公私ともに援助した人でもある。二十一歳で江戸に上って大橋訥(とつ)庵の思誠塾に入り、同塾の塾頭となったが、老衰した母への孝養のため在塾七年で佐原に帰り、安政四年(一八五七)螟蛉塾を開いた。文久二年(一八六二)師の訥庵が下獄する事件があり病に伏したことを悲嘆し、慶応二年(一八六六)御所台に帰って新たに塾舎を建てた。明治元年、招かれて多古藩主の世子源三郎、後の勝慈(なり)に侍講している。明治維新に際して東京府から招聘(へい)されたが、母の老病を理由に断わり、大正三年八十六歳で没するまでこの地で教育に専念した。名声を慕って集まる生徒は両総の東部一帯にわたり、後の常磐村長林覚次郎(東松崎)などのように、後年各地で指導的地位に立つ者が多数門下から輩出した。多古町域からは学士院賞を受けた文学博士林泰輔(東松崎)、貴族院・衆議院議員五十嵐敬止(多古)、衆議院・貴族院議員菅沢重雄(高津原)などが出ている。なお螟蛉とは青虫および養子の意で、じがばちが青虫の子を負って自分の子とするという『詩経』の言葉から採っている。
 以上の私学に対して官学ともいうべき多古藩学問所は、天保元年(一八三〇)藩主松平勝権(のり)の代に江戸小石川西富坂上の藩邸に設けられ、藩士の子弟のほか寺小屋教育終了者を対象として領民中の希望者にも入学が許された。勝権の子勝行は儒学を尊んで学問を奨励し、校舎も拡張した。領民にも門を開いたのは彼であった。敷地三二坪、校舎建坪二〇坪、年間経費は二〇石、教員四名、職員一名、生徒平均三〇名であった。漢学、算学、筆(書)などの文学と武術が教えられた。漢学は朱子学と古学の折衷であったらしい。
 武術は兵学・弓術・馬術・槍術・柔術・砲術・游泳などで、原則として文武とも兼修した。文学で四書の大義に通じた者は、武術の免許以上の者と同等視されたといわれる。教科書は、四書・五経ならびに『史記』『春秋左氏伝』『文選』などが使われた。教師一名が四、五名の生徒に素読をさせ、朝の五つ時(午前八時)から正午まで授業を行った。
 教員には学監、教授、世話役などがあり、特別に俸禄を支給せず、各自の持高によって勤務した。並木栗水に学び、明治維新には多古学校の開設に尽力しその訓導となった篠田泰順(一八四六~一九〇九)が助教授であったほかは、教員の氏名は明らかでない。生徒から学費を徴収することはなく、春秋二度の試験を行って甲乙丙の三等に区分し、賞品を授与したという。
 大測量家伊能忠敬を生んだように香取・海上・山武郡一帯は、江戸時代、算学(数学)の盛んな所として知られたから、諸国から算学者で遊歴するものも少なくなかった。安芸広島の人法道寺和十郎、上州の人剣持章行は、たびたび両総地方に来たので門人も多かった。石成村の鈴木鳳谷(利左衛門宗邦・一七八八~一八六九)はこの両家に学んだ算学者で、芝山仁王尊に「鳳谷鈴木先生門人算学」と題する文久三年(一八六三)の算額が掲げられている。石成寺跡の墓の建立者は算学門人中となっている。鳳谷の門人のうちには次浦村などで算学を教えた者もいたという。また、信州の人富田凸斎も文政のころ、船越村の里見求馬(もとめ)家に数年滞在して算学を教えている。

鈴木鳳谷報恩墓碑(石成寺跡)

 また伊能忠敬の再従兄である南中村の平山郡蔵・将季の兄弟は、忠敬について数理・測量を学び、忠敬の全国測量に従ってその製図に協力し、その事業を助けた陰の功労者であった。
 最後に農学について上げれば、多古村広沼の志波兵左衛門は長部村(干潟町)にいた大原幽学(一七九七~一八五八)が開いた性理教会に学んで、後に多古実農会を組織して指導した人である。幽学の説くところは、先祖株組合の創設と土地の交換分合、耕地整理など農業技術の合理化で、農村生活全般の改善に及んでおり、干潟町を中心に多くの成果を残している。
 多古町域からの入門者は幽学の生前にはなく、その二代目教主遠藤良左衛門(一八一一~七三)の時代が主で五〇名を越えている。志波兵左衛門が入門したのも明治五年である。特に多古村からの参加者が多いが、性学運動の道友間の運営委員である「前夜世話人」は坂村と多古村に多かったようである。道友名簿については地元の『旭市史』第三巻に詳しいことを付記しておく。